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第10話 痕


 目を覚ますと、目の前にあるのは病院の天井だった。

 周りはカーテンで仕切られていて、今が何時で、ここがどこなのかも分からない。


「痛っ」


 左腕をついて起き上がろうとした瞬間、激痛が走った。

 遅れて思い出す。あの男に、スタンガンを当てられた。


 美桜。


 その時、カーテンが開いた。


 声を聞いた看護師が入ってきて、一通り質問をされた。少しして医者も来て、同じような確認をされる。

 そしてまた、ひとりになった。


 しばらくすると、廊下からドタドタと足音が聞こえた。


「朱音!」


 カーテンが勢いよく開いて、飛び込んできたのは美桜だった。

 俺の顔を確認した瞬間、迷いなく抱きついてくる。


 美桜が無事だ。

 走ってる。抱きついてくる。生きてる。


 心から、安心した。


「っ!」


 でも、美桜の腕が回った瞬間、左腕に激痛が走った。

 安心も、喜びも、痛みで一気に現実へ引き戻される。


 その様子を、後ろから千夏さんが覗いていた。

 俺の歪んだ顔に一瞬ぎょっとしたが、事情を察したのか、少し距離を取る。


 無理するなって言ったのに。無理した罰よ。


 そんな顔で、じとっと見ている。


 でも、我慢できない痛さじゃない。

 美桜の感情を邪魔するほどでもない。この痛みは、俺が背負うべきものだ。


「美桜、怪我は?」


「……な、ない……」


 美桜は首を横に振りながら泣いていた。声が震えている。


 俺も美桜も、大きな外傷はなかった。気を失っていたのも数時間ほどで、今日は安静にしていれば大丈夫だと説明を受けた。

 神田さんも処置を受けて、親に引き渡されたらしい。


 そのあと、千夏さんが施設まで車で送ってくれた。

 何か説教されていた気がするけれど、あまり頭に入ってこなかった。


 美桜はずっと俺の手を握っていた。

 もう失いたくない。そう言われているみたいだった。


 施設に戻るころには、もう夜中だった。

 昼とは違う空気なのに、それでも帰ってきたことに、ふっと息が抜ける。


 帰ってすぐ、シャワーを浴びた。

 美桜と一緒に入った。


 美桜とは何度も一緒に風呂に入っている。

 それでも、いまだに直視はできない。


 美桜の右肩には、痛々しい濃い赤い点が2つ。

 その周りに、薄い赤い痣が広がっていた。


 目を逸らしたかった。

 巻き込みたくなかった。


 でも、誰かが犯罪に巻き込まれそうになっていたら、俺はまた動いてしまう。

 その時、また美桜を巻き込んで、傷つけてしまう。


 今回は、本当に危なかった。


 意識を失って倒れていた美桜。

 トランクに入れられた美桜。


 その光景が、何度も頭をよぎる。


 シャワーの音だけが浴室に響く。

 美桜と俺は押し黙っていた。


 さっきまでの圧倒的な恐怖と、今さら押し寄せてくる罪悪感が喉を塞いで、何も言えなかった。


 言わなきゃいけない。

 でも言いたくない。


 沈黙のまま、何度も息を飲んで、ようやく口を開いた。


「美桜。……ごめん。やっぱり私、美桜とは一緒にいないほうがいいと思う」


 振り絞った声は、シャワーの音に吸い込まれて消えそうだった。

 考えがまとまらないまま、とうとう口からこぼれてしまった。


 美桜の肩にある赤黒い痕を見るのが耐えられない。

 俺が弱かったから。俺が巻き込んだから。


 美桜がトランクに入れられ、車が発進した時の絶望感が、またこみ上げてくる。


「……なんで、そんなこと言うの」


 美桜の声が、シャワーを止めた浴室で冷たく反響する。


「怖くなった。美桜を失うのが」

「私のそばにいると、美桜が傷つく。次は……次は助けられないかもしれない」


 突き放すための言葉。

 なのに、言えば言うほど俺のほうが削れていく。


 濡れた髪のまま、美桜が俺の腕を掴んだ。

 そのまま、痣のある肩へ俺の手を引き寄せる。


 熱と湿り気で、言葉の逃げ場が塞がれていく。


「……痛そう?」


 美桜が低く、震える声で聞いた。


「痛いよ。絶対痛い」

「美桜が傷つくくらいなら、私が――」


「違うよ」


 美桜の声が、ふっと落ちた。


「私が痛いのは、ここじゃない」

「朱音が、私を拒絶する言葉が痛い」


 指先が俺の手に食い込む。痛いくらいの力。

 その瞳には、甘い言葉じゃ片づけられない、暗くて深い光が宿っていた。


「守らせてよ。私だって、朱音のこと……」


 喉元まで出かかった言葉を、美桜は無理やり飲み込んだ。


「朱音が誰かを助けに行くなら、私も行く」

「傷つくなら、一緒に傷つく」

「……お願いだから、一人で強くならないで」


 守る側とか、守られる側とか。

 そんな線引きを、美桜の震える吐息が溶かしていく。


 喉の奥に鉄の味がした。

 謝ることも、抱きしめることもできず、俺はただ美桜の熱に縛りつけられていた。


 遠ざけることは、もうできない。

 けれど、彼女の命を背負う恐怖だけは消えない。


「……分かった。もう離れてなんて、言わない」


 俺は、あきらめたように息を吐いて、震える指先で美桜の手を握り返した。


「でも、これだけは約束してほしい」

「本当に、本当に危なくなったら……私のことはいいから逃げて」


 俺はどうしても、犯罪に巻き込まれそうな人がいたら動いてしまう。

 けれど、それで美桜を失うことだけは、絶対に許されない。


 美桜は俺の言葉を静かに聞いていた。

 少しだけ近づいて、鼻が触れそうな距離で、ふっといたずらっぽく、それでいて真剣な顔で微笑む。


「……そしたら、朱音を抱えて逃げるから」


 きっぱりと言い切った。


「一人で逃げるくらいなら、朱音を担いででも逃げる」

「朱音って、思ったより軽いんだよ?」


 その瞳の光は、もう友情だけじゃない。

 でも、その正体に名前をつけられない。


 言い終えた直後、美桜が俺を強く抱きしめてきた。


「……っ」


 不意を突かれ、俺は美桜の胸に包み込まれる。

 柔らかな感触と、お互いの体温が混ざり合う。


 さっきまで死の恐怖に怯えていたはずの身体が、今は美桜という存在の熱だけで満たされていく。


 静まり返った浴室で、美桜の心臓のリズムが体を通して直接伝わってきた。

 速い。


 俺と同じ、いや、それ以上に激しく、命が波打っている。


「私、朱音が……」


 美桜が何かを言いかけて、言葉を止めた。

 わずかに腕の力が緩み、彼女の顔がゆっくり離れていく。


 向き合った至近距離。

 濡れた睫毛の先で、美桜の瞳が揺れていた。


 言葉の続きを待つ間もなかった。

 重なったのは、吐息よりもかすかな、唇の感触だった。


「……ん」


 熱くて、柔らかくて、けれどひどく切ない。

 愛撫というにはあまりに清らかな、一瞬の接触だった。


 触れ合った唇は、名残を残すようにゆっくり離れていく。


 美桜は、何も言わなかった。

 ただ、呆然と立ち尽くす俺から視線を逸らす。


 そのまま一度も振り返ることなく、扉へ向かって歩いていった。


 部屋に残されたのは、微かなシャンプーの残り香と、美桜の唇が触れた場所に残る火傷みたいな熱だけだった。


 俺は自分の唇を指先でなぞりながら、ただ、止まらなくなった心臓の音を聞いていた。


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