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私と女神の七日間  作者: 甘党
五日目
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五日目……①

 迎えた翌朝、使用人部屋の二段ベッドの毛布の中で、調理場からくすねてきた包丁を片手に震えていた。結局、一睡もできなかった。肉を切るためと思しきそれをずっと握りっぱなしだったせいか、右手は強ばって痙攣を続けている。試しにいったん離そうとしてみたら、案の定言うことを聞かず、手のひらを開くことすらできなかった。


 毛布に散った数滴の血痕は、もう黒く固まって久しい。包丁を手にした時は、完全にそのつもりだったのに、怖気づいた私の右手はカップ一杯分の血だって流すことが叶わなかった。左腕に刻まれたごく細い切り傷を見て、「あーあ」とぼやく。ジャガイモや、ビルの窓の時は一つも迷いなんてしなかったのに、いざ自分でやろうとするとこの様だ。


「何なんだろうな――」


 足りなかったのは勇気じゃなくて、理由だ。それは分かっていた。でも、動機だって突き詰めれば、私の不甲斐無さに他ならない。なぜなら、私が持っている彼女への愛はその程度だったということなのだから。


「ぐうっ……!」


 堪らなくなって、私はもう一度だけ包丁を左腕に押し当てた。刃の重みを利用して、切り裂こうとするが、痛くて痛くてすぐに身体をのけぞらせてしまう。

 無理だ。やっぱり、これだけじゃ死ねない。

 彼女に嫌われたり、飽きられたりしたわけじゃない――ことは単に私だけの問題。それだけに対処が難しい。

 まさか彼女の他に、好きな人ができてしまうなんて、露も思っていなかったから。


「無責任な話だよねぇ……。私、こんなクズだったかなぁ……」


 いや……自分のこれまでを振り返ってみると、その表現は決して間違ってはいない。私はアマモに近づくために、結果的にではあるものの、二人の人間を犠牲にしている。これがクズじゃなくてなんだろう。もう昔のこと、アマモと私しか知らない出来事。けれど、現実に起きた事実だ。

 だから、浮気をしたって許される。クズが今更、よりゴミっぽくなったところで、責められる云われはない――そう心から思っているから、私はいまだに死んでいない。


 あの少年の名前も尋ねないまま庭から逃げ出し、ふらふらと屋敷の中をさまよった挙句、偶然見つけた調理場で包丁を入手したまでは良かったが……。追いかけてきたミハネに『何やってんの』、と言われた私は返す言葉を持たなかった。そのまま『調子が悪いなら寝ておけ』と、あえなくこの使用人部屋へと連れ込まれ、一夜を明かす羽目になる。

 その際、隠し持っていた包丁にミハネが気付かなかったのは不幸中の幸い……だったはずなのに、こうして私は今、毛布の中で失意とともに朝日を拝んでいる。


 もう、認めるしかない。

 私はアマモが好きだが、あの少年のこともまた、好きである。かつ、それを全く改める気も無い。その前提に立って、今後のことを考えていくべきだ。


「そしたらとりあえずは……あの男の子にもう一回合わないとなぁ……」

 あの少年からしたら、まさしく私は異常な挙動の不審者だったことだろう。藪から棒に告白されたと思いきや、全力疾走で去っていったのだから、意味不明にもほどがある。せめてその釈明くらいはさせてもらっても構わないはずだ。


「あの男の子の名前、知りたい?」

 上のベッドから降ってきたのは同じ部屋で就寝していたミハネの声。独り言を聞いていたらしい彼女の提案に、私は即座に反応した。

「教えて。何でもする」

「がっついてくるなぁ。まぁ確かにイケメンではあったけど、会ったばっかりでしょ」


 やや呆れたようなミハネの声に、私は安堵の息を漏らした。どうやら、昨晩からの私の自傷行為は気取られていないようだ。彼女に知られていた場合、どう言い訳していいやら皆目見当もつかなかったのだ。


「あなたがここまで連れてきた後、掃除用具を回収しに行ったんだけど、同じところで待っててくれてね。その時にちょっとね。あからさまに貴族のご子息って印象の子だったから、メイドの私じゃ詳しく突っ込めなかったけど、呼び名だけは教えてくれたの」

「早く教えてよ」

 待ちきれなくなった私は上段へとよじ登り、寝っ転がっているミハネの肩を揺さぶってさらに急かす。必死の形相の私に、寝ぼけまなこだった彼女はその表情を引きつらせた。


「そ、そんなに気になるの?」

「うん」

「……代わりに本当に何でもしてくれる?」

「うん」

「じゃあ……おはようの……キスとか」

「うん」

 した。

「これでいい?」


 軽く触れる程度でそれを済ませた私が、ぱっと顔を離すと、ミハネは目を皿にしてわなわなとしている。固まったまま反応が無いので、これでは約束が違うと彼女の頬を何度か突っついた。しばらくして、我に返ったらしい彼女はぽつりと、その名を口にしてくれる。


「キツネ……だって」

「ふぅん。ちょっと不思議な響きだね」


 私としては、動物の狐を想起せざるを得ない名前だ。一瞬、偽名を疑ったが、あくまでミハネは呼び名と言っていたし、また異世界の言語と単に音が同じだけという可能性も十二分にある。気にしすぎるのは良くないかと思い直した私は、ミハネへ簡単にお礼を述べてから、ベッドから降りた。

 とりあえず包丁を返しに行こうと、その足で部屋から出ようとしたところ、「あの……」と珍しく弱々しい声をミハネがかけてきた。


「トワって、こういうのあんまり気にしないの?」

「こういうのって……さっきのお願い?」

「……それ」

「いやだって、私、何でもするって言ったし」

「それってつまり……その条件が揃ったら誰とでも簡単にするの?」


 さすがに会話の流れがおかしいと気づき、私は包丁を寝間着の裾に隠しつつ振り返る。キツネの名前を聞くためなら仕方がないかと、多少強引に押し通してしまったが、親友の頼みとはいえ、もう少しきちんと考えるべきだったか。

 てっきり、メイドだの舞踏会だのといった、西洋的世界観の記憶に毒されての発言かと思っていたのだ……。挨拶代わりにすることも多いという話を聞いたこともあったし、自然と勢いでやってしまった。

しかし一連の反応からして、そんなつもりは全く無く、単なる冗談交じりの発言だったと理解する。かといって今更、勘違いしていましたと訂正するのもかなり苦しい。見上げた二段ベッドの上のミハネが、ひどく真剣な顔になっているのを見とめた私は、とっさに「ごめん」と謝った。


「ふ、深い意図があってのことじゃなくて。そう、出来心で」

「出来心で同性にキスする普通?」


 返ってきたその急激な変化球に、とっさに私は口を滑らせてしまう。


「いやでも頼んできたミハネで――同性に普通そんなこと言う?」

 まずいと思った時にはもう手遅れで、私は言葉を言い切っていた。案の定、ベッドの枠から身を乗り出して、扉付近の私を見下ろしていた彼女は、すっと毛布の中へ頭を引っ込めてしまう。慌てて「ち、違くて!」、と叫んだが、後の祭りで、彼女はもう二度と話しかけてはこなかった。

 もう一度ベッドにのぼって、彼女と顔を合わせるべきだ――私の比較的賢い部分は囁いたが、そんな勇気は徹夜明けの身には残っていなかった。


「どうしてこうなるかなぁ……」

 ぶつぶつ呟きながら、私は屋敷の廊下を力なく進んでいた。舞踏会は今日だというのに何の手立ても用意できていないし、ミハネやキツネのことなど、むしろ状況はより悪くなるばかりだ。

 とにかく、まずは調理場に行かないといけない。こんな物を持ってふらふらしていたら、最悪、牢屋にぶち込まれる。


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