四日目……②
「危ないな。僕じゃなかったら大怪我をしていた」
平坦な口調と、中肉中背の外見、どちらも憶えがあるどころの騒ぎじゃないほどの強烈な既視感を発している。なにより、飛んでくる重たい水がめを軽々しく掴むという、人間を凌駕した超技能――。
すっと射した夕日に映し出されたその男は、例の世界で出会った『神様』ことウロボロスだった。着ている服こそ以前の黒スーツから変わって、執事っぽい燕尾服になっているものの、つい先日に会った人を見間違えるはずがない。確か、水晶へと閉じ込められたはずだったが――。
「い……いや。来ないで」
とっさに出たのはそんな情けない声で、瞬間、吐き気がするほど自分が嫌になる。アマモの腕を切り裂いた仇に、いったい何をやっている? 取るべき選択肢なんて一つだけじゃないか。
震えていた奥歯を砕かんばかりに食いしばって、床を蹴る。ひょうひょうとたたずむウロボロスへ向けて、私は全力で飛び掛かった。幸い、相手の両手は塞がっている。『神様』だろうと、差し違えるくらいはできるかもしれない。
「あのな」
一瞬で両手から水がめが消滅、同時に跳躍した彼は、なんと中空の私へと向けて飛び込んできた。奇しくも、あの時のアマモと同じ行動――お互いが交差するタイミングで、彼は両手を伸ばし、私の身体を拘束した。
そして、着地。彼の腕に抱えられているという事実を認識した私は、即座にその黒色の袖へと噛みついた――が、前歯に覚えたのは岩のような硬さ。当然、空しく弾き返されて、反動から視界がちかちかと点滅する。
「少しは落ち着いてくれ。まずは話を――」
「うっさい、死ね」
思いつく限りの悪罵を繰り出しつつ、ひたすら腕の中で暴れる私に、彼は「人違いだ」と叫んだ。
「確かに僕は君の知る人物と同じ造形をしているだろうが、それは僕じゃない。むしろ、僕は君の味方と言っても良い存在だ」
「信じると思うか?」
下らない戯言を吐き始めた彼の胸へと右拳を叩きつけるが、腕と同じく凄まじい硬度を持っていたそれには、まるで通用してくれない。それどころか、打った私の右手の方に猛烈な痛みが走る始末だ。
やっぱり『神様』には敵わない――アマモですら苦戦した相手だ。一般人に毛が生えたレベルの私では、手も足もでないのは至極当たり前だろう。しかし、それでも――。
右がダメになったなら、左でやるだけと振り上げた拳だったが、もはや当てることすら叶わない。不可視のロープが私の身体を縛り上げ、全ての関節がぴくりとも動かなくなる。どうやら、向こうも本気を出したらしい。
「だから、話を聞いてくれよ。君じゃ僕は倒せない。なにより、攻撃する理由もないだろ」
「ある。お前だけは道連れにしてでも殺す」
しばらく顔を伏せて逡巡した後、彼は「そうだ」と何やら思いついたらしく、私を覗き込んだ。
「アマモに会いたくないのか? 僕はあいつの居場所を知っているんだよ」
「本当?」
その名前を無視できるはずもなく、目を輝かせる私に彼は断言する。
「僕は嘘をつかないとも。だから、いったん大人すると約束してくれないか。僕を殺したら、その情報は手に入らない……いや、もちろん殺せるとは思ってないが……とにかく君の行動にはメリットが無い」
魅力的な提案ではある――私は思考を駆け巡らせる。
ここで問題となるのは、アマモに会うことと、この男を殺すこと、どちらを優先するべきかだ。
本能は前者――『アマモに会えるならそれだけで全部解決』と直情的に。
理性は後者――『後顧の憂いはここで断つ。よしんば負けたとしても、彼女のために死ねるのなら本望』と将来を見据えて言い立てる。両者ともに捨てがたい案だが、悩んでいる暇はあまり無さそうだ。
悩みに悩んだ結果、どちらも取るという妙案に至った。簡単なこと――うわべだけ協力する振りをして情報を聞き出し、用が済んだら殺害を試みれば良い。幸い、彼は心を読む能力を有していないと言っていたから、企みが露見する心配は無い。
「分かった。もう攻撃はしない。その代わり、アマモのことを教えて」
そう伝えると、ウロボロスは二つ返事で私の拘束を解き、床へと下ろしてくれた。その素直な姿勢からは敵意は全くうかがえなかったが、相手は『神様』。一時だって油断を解いてなるものかと、立ち上がった私は、彼ののっぺりした顔を睨みつけた。
「最初からそのつもりだったんだけどな……。ひとまず自己紹介といこうか。僕の名前は――」
「ウロボロスでしょ。知ってるって」
先回りして言葉を被せると、彼はとわざとらしく驚いた様子を見せた。
「一介のメイドが僕の本名をね。ここではボロスなんて偽名を使わされていたんだが……。まさか、全部思い出した?」
彼の妙な言い方に、おぼろげなくこの不可解な状況への理解が及ぶ。ミハネと話していた時から覚えていた違和感、屋敷やメイドの仕事について考えようとするたびに発生した頭痛……どうも私の頭は誰かによって、いじくり回されているらしい。……これはちょっとマズい。
アマモという単語に引きずられる形で、一部の記憶はさっき取り戻すことができたものの、それが全部なのかという確信は持ちようがない。何をどこまで忘れていて、また何が嘘なのかを、記憶の改ざんを受けた当の本人である私は自覚できないためだ。ことの首謀者を捕まえて、その操作の解除を確認するまでは、ひどく不安定な状態を強いられることになる。
しかし、そういった私の現状をウロボロスに悟られたくはなかった。妥協はしたといえど、彼が信用ならない『神様』であることに変わりはなく。そもそもこちらもいずれ裏切る予定だ。自分の不利な状態を教えるなど有り得ない。
興味深そうにこちらを見つめている彼に、私は精いっぱいの虚勢を張ることにした。
「もちろん、全部。私はメイドなんかじゃないし、君だって執事っぽい服を着てはいるけど、やっぱり違う。だいたい、『神様』がそんないじらしい仕事に就くなんて、冗談にしても面白くない」
こちらの挑発に対して、彼は大げさに天井を仰いでみせた。
「な、君もそう思うだろ? でも、そういう風に創られた以上、仕方がない。創造主の命令は絶対だ。まぁ、それなりの権能も分けていただいたし、僕としちゃこれでも満足なんだけどね」
発言の中に三つほど突っ込みたいところがあったが、ここはスルーしておく。彼の素性を確かめたところで時間の無駄だ。ミハネも含めて、現在の私を取り巻く異常を解決するためには、なによりもまずアマモに会わなければならない。女神としての力ならば、私の異常もたちどころに治せることだろう。彼女に頼り切りの行動方針を立てるのは心苦しいが、思いつく中ではそれが最も確実だ。
……もう一つ付け加えるのなら、正直、アマモが全ての元凶である可能性もかなり高い。私をメイドに仕立て上げるとか、いかにもあのアホがやりそうなことだ……。
「君のことはどうでも良い。アマモはどこにいるの?」
「どうでも良いとはひどいな。そう焦るなよ」
思わせぶりな態度を完全に無視されたせいか、つまらなさそうに呟く彼に、私はぐいと詰め寄って、左手を突き付けた。
「立場が分かっていないみたいだね。私は見逃してあげてるんだよ」
「……なかなかエキセントリックな性格だな、君は」
冗談めかして呟くと、彼は伸ばした私の左腕をぎゅっと握り締めた。万力のような重みが加えられて、凄まじい痛みが走る。
「それともあれか? どうしても僕の上に立ちたいのか? 『神造』ではあるが、これでも一応『神様』だ」 (一部、私には理解できない表現が用いられた)
「当たり前でしょ。私のアマモをあんな目に遭わせておいて抜け抜けと……」
痛覚と怒りで真っ赤にぼやけていく視界。やっぱりこいつと交渉なんて無理だったかな……と後悔していたところ、ふっ、と把握されていた左腕が解かれる。
「私の……とは面白い表現だ。ああ――そういう、ね」
とか何とか言って、勝手に納得顔になった彼は後ろへと大きく退くと、懐から何かを取り出して、私へと放った。反射的に右へと身体を躱し――避けた先に置かれていた棚に腰を思いっきりぶつける。
うずくまって悶絶している私を『何だこいつ……』みたいな目で見つつ、彼は床へと落ちたそれを拾い上げて、直接こちらへと差し出してきた。
「舞踏会への招待状だ。話くらいはもう聞いているだろ。その城に、君の求める方がいる」
彼から物を受け取りたくなんて無かったが、そこまで意地を張っていては本末転倒だろうと、その招待状らしきカードを力任せにもぎ取った。
「本当だろうね」
「何度言わせるつもりだい? 僕は――」
がたん、と私の背後で重たい音が鳴った。とっさに振り向いてそちらへ目を向けると、ウロボロスと似た衣装に身を包んだ中年の男性が、奥の扉を開いて部屋へと入ってきていた。
その男はぐるりと室内を見渡し、すぐに私の存在に気付いたようで、こちらへと歩み寄ってくる。
「おい。何をやっている。遊んでいる暇はないぞ」
その高圧的な声色に、メイドの上の立場的な人物かな、と推測した私は姿勢を正して、とりあえず「すみません」、と謝った。
「全く……。まだ水汲みも終わっていないのか。これだからうちのメイドは――」
なおもグチグチ男がぼやいてくるのをよそに、ちらりと横目でウロボロスの様子をうかがってみると、案の定、影も形も無くなっていた。おそらく、瞬間移動で逃げたのだろう――腐っても『神様』ということか。
手の内のカードをメイド服のポケットへ気付かれないように隠しつつ、男の説教をひたすらへこへこ頭を下げてやり過ごす。
舞踏会の日付は明日、それまでこのメイドという妙な仕事を続けるべきか否か……。悩んでいたところ、右耳から左耳へと流していた話に「舞踏会」という単語が出てきたので、私はそちらへと意識を向けてみた。
「――会にはお嬢様も参加されるのだぞ。決して城の方々に失礼の無いようにせねばならんと――」
「本当ですか! お嬢様が?」
話へ突然飛びついてきた私に、男は目を白黒させながらも頷いた。
城がどういった場所かは知らないが、私の想像する通りなら、一介のメイドが一人でのこのこ行ったところで、招待状以前に門前払いを食らうのがオチだろう。だが、屋敷のお嬢様に付き従うという形なら、極めて自然に訪れることができる。もしかしたら、この招待状も使わずに済むかもしれない――ウロボロスに渡されたものなんて、極力活用したくなかった。
ただ、私はそのお嬢様の人相や人となりを少しも知らない。屋敷に仕えるメイドとしてはどう考えても有り得ないが、私の時間感覚が正しければ、ここで過ごした日数は僅か一日にも満たないはずなので、こういった形で矛盾が生じているのだろう。
しかし、それをこの男に尋ねるのはためらわれた。見るからに頑固で融通の利かなさそうな彼が、この流れから私の舞踏会行きを許してくれるはずがない。下手に話をすれば、むしろ怪しまれて行動しづらくなる可能性すらある。となると――。




