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罪と嘘  作者: 水沢理乃
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樹生と美咲の罪と嘘。そして償い04

 そして約3年が経ち、その日は朝から静かな雪がしとしとと落ちる1月のことだった。

 私は自宅のベッドで布団中に包まり、母が仕事に出かける音が聞こえてくるのを耳を澄ませて待っていた。

 自宅に帰った日の翌朝は樹生がいないため、母と2人きりで顔を合わせないといけない。私はそれが嫌で母が朝早く仕事に出掛けるのを待っていたのだ。

 普段なら、母が出掛けた後に急いで支度して出勤する。しかし、その日は普段よりも母が出掛ける時間が遅く、何故出掛けないのかと布団の中で目覚まし時計とにやめっこしていた。すると、突然ドシーンと大きな何かが倒れる音が聞こえ、私は驚いて飛び起きた。

 キッチンに行くと、母はテーブルの横で倒れていて、真っ青な顔をしていた。私は何が起こったのか分からず、慌てて母に近寄る。

「お母さん!」

 母は私の声を聞くと薄らと目をあげて、強く握りしめていた手を私の方にあげてゆっくりと広げた。

「…み…さき。この病院に…」

「え?」

 母はそう言った後、気を失った。

「お母さん!」ともう一度叫んだ私の声に母はまったく反応しなかった。

 私は気が動転しながらも、救急車を呼んだらしい。

 起きた事態を把握することができたのは、母が掌に握りしめていたメモに書かれていた病院に救急車が着き、母の様子を確認した医師に「大丈夫ですよ」と言われた時だった。

 母が私に運ぶようお願いした病院はホスピスだった。延命治療を望まない末期がんの患者など、死期の近い人の身体的苦痛を和らげ、精神的援助をする医療施設。

 医師の説明を受け、私は初めて母の病気を知った。

 母は何年も前から癌治療を受けていたのだ。一度、癌を取り除いたもの、再発を繰り返し、そして私が就職が決まった頃、延命治療をしないと決断して、ホスピス病棟のあるその病院に診療を移ったとのことだった。

 私はまったく母の病気に気づいていなかった。

 母が『この先のことを考えて』と言った日のことを思い出して、愕然とした。母はあの頃から、自分に癌があり、長生きできないことを理解していたのだ。

 後から病院に駆けつけた樹生に母の事情を話すと、樹生は特に驚いた様子もみせず、私の肩をあやすように撫でた。

 樹生は母が余命数ヵ月であることを知っていた。そして、父に聞いたことを教えてくれた。そして私に話すことを母に口止められていたことも。

 樹生が何故、私を無理やり自宅に連れて帰り、母と一緒に食事する時間を作っていたのかをやっと知った。そう長く生きられない母と私の時間を作ろうとしてくれていたのだということを……。


 母はもう自宅に帰ることはできなかった。

 私は気まずい気持ちのまま、うまく話すこともできないまま、病院には顔だけを毎日出した。

 身体はみるみるうちに痩せていった。 痛そうに苦しむのに、私と目を合わせる時は必ず笑う母。

「美咲は幸せになりなさい。ありがとう」

 死に向かう人が死を当たり前に受け入れるように優しく笑う。

 私は不安で仕方がなかった。

 母はもっと長く生きたかったんじゃないだろうか?私が通訳になりたいと思わなければ、母と私、2人だけの家族だとしても、もっと長く一緒に居られたんじゃないだろうか?私を産まなければ、もっと別の生き方があったんじゃないだろうか?私が居なければ、母は満足した人生を送れたのではないだろうか?

「なぁ、お袋。親父に会いたい?」

「あの人は絶対ここには来ないわ」

「だって、最後ぐらい……」

「あの人は、あなたのお母さんの夫なの。夫は妻を大事にしなければいけない。それでいいのよ」

 私が席を外していた病室。樹生と母が話している声を病室の外で聞く。

 私を父に紹介した時の母の女の顔。私が父のことを母に責めても、父のことを庇っていた母。私はそれが嫌で母と口を利かなくなったけれど、母が父のことを愛していることは十分に分かっていた。

 それでも、母は父に会うことはしない。出来るわけがない。愛している男に最期すら会えないそんな人生が満足だったんだろうか?

「それなのに、樹生君にこんなことをお願いするのは、本当に申し訳ないことだって思ってる」

 病室の外で樹生に話しかける母の言葉に耳を澄まし、『お願い』とは何だろうと考えた。

「だけど、本当に大切な私の娘だから、お願いしたいの」

 母の繋いだ言葉を聞いて、私はハッとなって、思わず病室の扉を開けて中に入った。

「や、やめて!お母さん!」

「私の代わりに、美咲をお願いします」

 私は母の発した言葉に固まり、その場に立ち止まって泣き出した。

 母は私達が犯した罪は知らない。それなのに、そんなことをお願いしたら、樹生は余計に重荷を背負うことになる。

 樹生は病室に入ってきて泣き出した私に気付くと、近づいてきて私の頭を撫でた。

「安心して、お袋。美咲には俺がずっとついてるから」

 樹生は母の願いをするりと聞き入れてしまった。

「だから美咲。約束して。何があったら、美咲は俺を絶対頼ること。いいな?」

 樹生は私を軽く抱きしめて、私の涙をあやすように背中を撫でた。

 母にとっては、亡くなる母に苦しむ娘が兄に宥められているように映るんだと思った。

 でも、樹生と私にはそれだけで済む感情ではないものが混じっている。



 恵美を妊娠し、樹生に『俺の籍に入らないか』と言われた時、私は正直戸惑った。そして、『私と恵美を俺が養いたい』と樹生は言葉を繋ぐ。

 樹生は父と私の母が犯した罪によって起きた現実を背負ったまま、私が恵吾と犯した罪まで背負うつもりがあるのだと気付いた。私はもう恵吾のことが好きで好きで仕方がなかった。それなのに、樹生はもしかしたら、まだ……。

 結婚している恵吾の間にできてしまった私の子が、恵吾の周りの環境を狂わす原因となってしまうのならば、私もすべての罪を嘘のベールに包んで背負う覚悟はできていた。

 樹生が私達の罪を一緒に一生背負うつもりでいるなら、私も、恵吾への気持ちを封印して、好き合えない2人だとしても、 樹生と共に生きていくことが宿命なのかと、私はあの時、思ったのだ。

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