恵吾と美咲の嘘。そして樹生10
自分の戸籍を片瀬の戸籍に入れ、『片瀬美咲』として出産するという書面上の手続きを終えた後、私は派遣されていた電気製造会社にも事務手続きを済ませた。
樹生の条件は、仕事を辞めること。そして、恵吾と別れること。だから、私はこの条件をしっかりと果たさないといけなかった。
苗字が『田辺』から『片瀬』に突然変わり、私が派遣終了になることを知った恵吾は私をすぐに会議室に呼び出していた。
「苗字が変わるってどういうこと?派遣社員を交代?僕に相談もなく?」
恵吾は訝しい顔をして問いただす。
「相談しなくてごめんなさい」
「何か事情があるんだよね?話してくれるよね?」
「ごめんなさい。恵吾に話すことは何もないの」
私はそう言った後、一度、言葉を区切って小さく深呼吸した。
「恵吾との関係も終わりにしたい」
心の奥底ではそれを願わない自分が居るのに、別れの言葉はすんなりと口から零れた。自分から、そんな嘘を告げる日がくることを私はずっと意識していたのかもしれない。
恵吾は一瞬、目を見開くと、顔を更に歪ませた。そして静かに口を開く。
「僕たちの永久に愛し合うっていう誓いは?」
私は静かに息を呑んで、恵吾を見つめ返した。
恵吾のその質問に無言で返し、誓うとも、誓わないとも答えない。
そうやって態度では恵吾に嘘をつき、心の中では『ずっと愛している』と誓った。
2人の間に訪れる暗く重たい沈黙。その酷く胸を締め付ける苦しさが私の心を追いつめ始めて、子宮まで痛み出す。その痛みが吐き気を喉まで迫らせたから、私は慌てて会議室を飛び出した。
「美咲!」
恵吾の呼び止める声が背中をさするけれど、吐き気は抑えられなくて、近くの女性専用トイレに駆け込む。洗面台の水を流し、音に隠して、痰ばかりの嘔吐を吐き出した。
吐き気が落ち着いて顔をあげた時、私はビクっと身体を強張らせ、悪夢を見た気がした。目の前にある鏡に私以外の人影が写っていて、それが恵吾だったからだ。
「ここ、女性トイレ……」
「美咲、まさか子供できた?」
ギクリと息を呑み、恵吾の驚きながらも探るような目に、更に身体の温度が1度下がったような気がした。その恵吾の目がどことなく、私の父が事実を知った時に見せた目と重なって、恐怖を覚える。
「僕の子?」
「違う!」
私の口は勝手にすぐにそう答えていた。
恵吾の子だとばれてしまったら、私はお腹の子を守れなくなってしまう。
不倫の末に身籠った子の行く末は、表沙汰になれば元凶でしかない。私はこの罪を隠すために嘘を塗り固めたのだから、恵吾に気付かれるわけにはいかないのに。
「恵吾の子じゃない」
私は恵吾の強い視線に負けないよう、目を見開いて見つめ返した。
「じゃあ、彼の子だというの?だから、結婚したってこと?」
恵吾の声はまさに浮気をした彼女を責めるかのような剣幕で、胸の内は怖さと悲しさと理不尽さが入り混じる。私は震える唇をギュッと噛みしめて、恵吾から目をそらさずに耐えた。
「そうよ。お腹の子は彼の子なの。だから、私は彼と結婚した。仕事も辞める」
複雑な感情を押し返す勢いで、口調が強くなる。自分から告げたその言葉に、自分自身が震えたくなった。恵吾は私の言葉を聞くと、途端に酷く寂しそうな目をした。
「美咲……」
恵吾の身体がゆっくりと動き出し、私の側に近寄ろうとしていることが分かる。私が恵吾を拒否すれば、恵吾は決まって私を強引に抱きしめていた。
私は慌ててトイレの外へと身体を向ける。恵吾に抱きしめられて、なし崩しになっていた今までの自分を思い出し、そうなってはいけないと気持ちを振るい立たせる。
「さようなら」
私は急いでその場から逃げ出した。
恵吾と出会い、恵吾を好きになって、恵吾を好きな気持ちだけは嘘をつけなかった。
でも好きになればなるほど、愛すれば愛するほど罪は重くなって、恵吾の側にいるためには嘘が必要になった。
自分の気持ちを置き去りにして、嘘をつかないと恵吾の側に居れなかった。嘘をつかないと愛する恵吾の子を守れなかった。
5年前、私は塗り固めた嘘を恵吾に告げて、そのまま恵吾の前から姿を消した。




