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罪と嘘  作者: 水沢理乃
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恵吾と美咲の嘘。そして樹生08

電気製品はメーカー同士の質と価格争いになっていることから、製造業も性能の良いものをいかに安く生産するかの熾烈なコスト競争にさらされる。国内製造はコストが高いし、アジアなどの新興国の需要を取り込む必要があった5年前は多くの企業が生産拠点を国外に移す動きが強まっていた。

 恵吾と私が勤めていた電気製造会社も、中国の北泰製造と提携することにより、順調に利益を上げ始めていた。

「以前はさ。いくらで造れるかを生産部とやり取りできたのに、今はこの金額じゃないと売れないから、いくらで造って欲しいと言わないといけない。その金額自体も安すぎるからさ、営業もやりずらくなったよ」

 恵吾の誕生日から数ヵ月が経ち、私は会社に戻る車内で営業部の大野と話をしていた。

 以前大野から通訳として営業に付き添ってほしいと頼まれていた件が正式に依頼となり、通訳の役目を終えた帰り。

「そういう意味じゃ、北泰製造との提携はかなり我が社にとっては大きいよな。社長もますます恵吾を離せなくなるんだろうな」

 話の中に恵吾のことが混じる度に、私は心なしかドキリとする。

「社長と遠野さんは仲が良さそうですよね」

 社長と恵吾が社内の廊下で話していた様子を一緒に見たことを思い出して、大野にさりげなく恵吾のことを尋ねた。

「社長と恵吾は家族だしね。それに社長と恵吾の父親は親友なんだって。だから、恵吾が産まれた時からの付き合いらしいよ。恵吾と香織さんは幼馴染になるのかな。2人が結婚した時、社長は大喜びだったらしい。後継ぎが出来たって」

 大野は恵吾のことをペラペラと話してくれる。

「後継ぎということは、遠野さんは会社を継ぐんですか?」

「ゆくゆくはそうなるんじゃないかな。社長の跡を継ぐのは恵吾以外、あり得ないと思うけど」

「でも、遠野さんはインテリアを……」

 私はそう言いかけて、慌てて口をつぐんだ。私が恵吾のやりたい仕事を知っていると大野が知ったら、私達の仲を勘ぐられてしまうかもしれない。

「恵吾のやりたい仕事について、聞いたんだ?」

 さほど大野は気にすることなく、サラリと恵吾のことを尋ねてくる。

「はい」と遠慮がちに尋ねると、「じゃあ、恵吾の父親のことも聞いた?」と付け足した。

 私は戸惑いながら、小さく頷く。

 大野は私のその戸惑った様子を恵吾への配慮だと勘違いしたらしい。「恵吾の家庭って複雑だよな」と、私が知らない恵吾の家庭事情を話し始めた。

「恵吾はさ。律儀な面、損な性格かもしれないな。恵吾の父親が事業に失敗して借金を作って、その借金を全額社長が肩代わりしてくれた。だから恵吾は社長に逆らえないし、恩がある。社長は息子がいないから、恵吾を絶対跡取りにしたいと思っている。香織さんとの結婚も、どちらかというと社長からの申し出だったらしいしさ」

 恵吾の父親の借金を全額肩代わりした社長。恵吾が社長からの連絡や申し出を断れない雰囲気があったのはそんな事情が絡んでるのかもしれない。

「恵吾がやりたいことをやるのは、なかなか難しいよな」

 恵吾の前に立ちはだかる父親との試練は生易しいものではないのかもしれないと、自分に置き換えて重苦しい気分になる。

 そして、途端に私は吐き気を感じた。

「すみません。車を停めてもらってもいいですか?」

 血の気の引いた顔でそう言うと、大野は私の体調不良をすぐに理解したらしく、車の速度を落とす。車が路肩に停まると、私は急いで車の外に出た。

 道脇にしゃがみ込み、嘔吐する。だけど胃の中は唾液ばかりだったから、痰ばかりが吐き出された。吐き気が幾分和ぎ、空気を吸って気分を紛らす。

 心配して車から降りてきた大野が私にビニール袋を差し出した。

「車酔いさせちゃった?ごめんね。運転下手だったかな」

「いいえ。そんなことは……。最近体調があまり良くないんです。ごめんなさい」

「もう退社時間も近いし、今日はこのまま早退したら?」

「そうですね。そうします」

「車に乗れそう?」

「はい。近くの駅まで送ってもらえますか?」

 私は車に乗り込み、ビニール袋を握りしめながら、吐き気を逃すために窓の外を眺める。

 最近起きていた自分の身体の変化を密かに感じていた私は、静かに自分の腹部に手を当てた。


 駅前で車を降りると、電車に乗らず、ドラックストアに入った。陳列棚に並んだある箱の前に立って、手を伸ばそうか悩む。『妊娠検査薬』と書かれた文字を見て、また吐き気をもよおしそうになる。私は思い切ってその箱を手に取った。


 駅のトイレに駆け込み、嘔吐をした後、検査薬の箱を眺める。箱には朝一に検査した方が良いと書いてあったけれど、朝まで身体に起きた現実を曖昧にしておく余裕はなかった。

 検査結果が出るまでの数分間。駅のトイレに籠ったまま、震える手を腹部に当てて、生命の有無を身体に問う。

 普段は避妊をしっかりしていた恵吾が誕生日は避妊をしていたかどうかを振り返る。生理予定日から何日経過してしまったかを数える。

 この時の私は、検査結果を見る前から、お腹の中に恵吾の子供が宿ったことを確信していた。 


「妊娠した?」

「うん」

 妊娠検査薬の結果はくっきりと陽性に反応した。

 自宅の食卓で向かい合わせに座っている相手に正直に白状する。こんな時相談する相手が1人しかいないことに切なくなった。

 私の激白を聞いた樹生は一気に怪訝な顔をして、椅子から立ち上がり、バンとテーブルを叩いた。

「下ろせ。アイツの子だろ?」

 思い返しても、樹生が私に対して怒りを向けたのはこの時だけだったように思う。

 アパートに鳴り響いた重い音がズシンと胸に突き刺さる。だけど、その音がかえって、私の決意を強くさせた。

「私、産みたい」

「ありえない!不倫相手の子を産むなんて!お前、お袋さんと同じ運命をたどりたいの?」

 樹生が声を荒げても私は不思議なくらい冷静だった。母と同じ体験をして、母の思いを知ることができたからかもしれなかった。

 私の母は妻子ある男と愛し合い、私を身ごもった。そしてその男とは別れ、1人きりで私を産み、育てたのだった。

 私はずっと自分の父は病死したと聞かされていた。父が健在していると知らされたのは私が18歳になってからのこと。

 自分が不倫をして産まれた子だと知った時、自分の存在意義を見失い、母を汚らわしいと思い、実の父を憎んだこともあった。

 だけど、母はそんな私を清々しいくらい受け止めた。父を恨むようなことは決して言わなかった。逆に父を庇うくらいだった。

「子供がどんなに苦しい思いをするか分かって……」

「私、絶対産む。私は不倫して出来た子だけど、産まれてきて良かったと思ってる。お母さんは私をいっぱい愛してくれた。苦しいこともあったけど、私は幸せだった。だから、私も同じように自分の子をいっぱい愛したい」

 樹生の言葉を遮って、私は真剣な気持ちを真っ直ぐに樹生に伝える。

 私達は決して不幸ではない。産まれてきたことを悔やみたくない。悔やませたくない。

 樹生は私の目をじっと見つめ返して、口を噤んだ。

 真剣な眼差しを反らさない私を見て、深く息を吐く。そして、私から視線を一度外すと静かに食卓の椅子に座った。

 私の決断にどう答えようと考えているのか、唇を噛みしめて、テーブルを眺める。しばらくの沈黙の後、樹生はしずかに口を開いた。

「美咲は言い出したら聞かないからな……」

 樹生は怒りを抑え、呆れながらも優しい顔をして見せてくれた。

「美咲がそこまで決意しているなら、俺は美咲の気持ちを汲むよ。でも一生のことだから、真剣に考えてほしい。もし、美咲が1人でお腹の子を育てるなら、俺の籍に入らないか?」

「え?」

「無理をして美咲も早死にしたら、俺は一生後悔する。俺はこの先、誰も好きにならない。だから俺は美咲とお腹の子を養いたい。でもその条件は仕事も辞めて、アイツと別れること。よく考えてみて」

 樹生は私に新たな選択肢を与え、私の頭を優しくポンポンと叩いた。

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