恵吾と美咲の嘘。そして樹生07
※
そして約束した恵吾の誕生日。
私はアパートに迎えに来た恵吾の車に乗り、そのままアトリエへと向かっていた。
午前の日差しが照り付けたアトリエのコンクリートの壁は白く反射し、私は眩しくて目を細める。
普段アトリエに訪れる時間帯は夕暮れ時だったから、その輝く外観は一見違う建物にも見えていた。でも玄関に近づけば、あの黒く重たそうなドアが私達を出迎える。
恵吾に手を引かれてアトリエの中へと踏み込むと、恵吾は私を強く抱き締めた。
強く互いの温もりを確認し合った後、私はキスをして欲しくて恵吾をじっとみつめる。恵吾は優しく落ち着いた顔で私に微笑んだ後、私の額に唇を近づけた。
じれったさを感じ、唇にキスをして欲しくて、私はそっと恵吾の首に腕を回す。焦がれるように恵吾の顔を見つめると、恵吾はまた優しく笑って、「もう少しだけ待って」と言って、今度は私の頬にキスをした。
私はその恵吾の態度に戸惑った。普段なら、毎回と言っていいほど私はすぐに恵吾に唇を塞がれていた。人目を気にして触れ合えないもどかしさが逢瀬の日までに限界へと達し、アトリエに到着した瞬間に私達は箍が外れていたからだ。
互いの唇が吸い寄せられる。求めあう肌はすぐに互いの体温と混じりたくて激しく焦がれ、キスをしながら中二階のベッドへと倒れ込む。その後は決まって、2人は互いの服を脱がしあって一糸纏わぬ姿になり、人生初めてのキスをするかのような初心なキスで気持ちを確認し合う。
それはアトリエに訪れた時に行う儀式のようなもので、私達は毎回その儀式を交わすことで、純潔であると虚言し、貞操であると妄信した。そうすることで罪悪感から免れようとしていた。
だけど、その日はアトリエに着いてすぐにその儀式をしなかった。普段の2人ならすぐに裸で抱き合っていたけれど、恵吾は私をすぐに抱こうともしなかった。
私は恵吾の誕生日パーティーを開くため、恵吾が作ってほしいといった料理を作り始めた。誕生日の割には質素になってしまったけれど、2人きりの昼食には十分な料理をカウンターに並べる。自宅で作ってきていた手作りのホールケーキを恵吾にサプライズして、バースデーソングを歌う。ろうそくを吹き消した恵吾に拍手をすると、恵吾は気恥ずかしそうに笑った。
「昼時の誕生日パーティーって、子供の頃を思い出すよ」
恵吾は切り分けたケーキを受け取りながら、子供の頃の話をする。
「小学生までは毎年、幼馴染を自宅に呼んでパーティーを開いてもらっていたんだ」
恵吾は昔を思い出しているのか楽しそうに笑った。
私はその恵吾の笑顔に胸が温かくなり、カウンターに置かれていた恵吾のカメラを手に取ると、恵吾にファインダーを向けていた。
「なあに?美咲が撮ってくれるの?」
「うん。すごく良い顔をしてるから」
「じゃあ、撮って」
写真に写りたがらない恵吾が珍しくファインダーを向けられても逃げずに、その変わらない笑顔を見せた。恵吾のその表情は普段よりもどことなくあどけなくて、子供っぽく見える。いつも大人びたポーカーフェイスを見せている恵吾が全ての仮面を剥がしてしまったかのようで、ドキドキした。
カシャとシャッター音が鳴る。
カメラのフィルムに焼き付けられた恵吾の笑顔は同時に私の心の中にも焼き付いていた。
私からの誕生日プレゼントのリボンをほどく恵吾をファインダーを通して覗く。箱の中から出てきたマグカップを取り出し、恵吾が目を見開く。そしてすぐに嬉しそうな顔をしてくれたから、思わずシャッターを押す。
恵吾が私に見せてくれたその表情は私のプレゼントによる効果なんだと思うと、とてつもなく心が舞う。その私だけの恵吾の表情を永遠に自分のものとして留めたい感情が私のシャッターを押す指を加速させた。
「このマグカップ。イギリスの陶磁器メーカーだね」
インテリア雑貨が好きな恵吾だけあって、恵吾は目を細めながらマグカップに描かれたデザインをしげしげと眺め出した。その恵吾の目を見て、恵吾はこのマグカップのデザインに込められた意味を知っているのだとすぐに分かる。
そのマグカップは線により精巧な模様が描かれていて、中心には逆三角形の洒落た絵柄が施されていた。描かれた線は複雑に絡み合っているけれど、実は1本の線で一度も途切れていない。そして、最終的にこのマグカップのモチーフになっている逆三角形に辿り着くようになっていた。
『そのマグカップを持っている人は辛い試練を乗り越えることができ、辿り着きたいところへ導びかれる』というジンクスがこのマグカップにはあるという。だから、私はこのマグカップを恵吾にプレゼントすることにした。
恵吾に聞かされた家庭事情、そして恵吾が願っている未来。恵吾が抱えている父親との問題を解決して、望む仕事ができるようになればいいなと願いを込めた。
「辿り着いた!」
恵吾は興奮混じりの少し音の高い声で呟く。
「え?本当に?どうやって辿るの?」
「ほら。ここからスタートして、ここを辿って……」
マグカップの模様を2人でしげしげと覗き込み、恵吾の指に沿って線を辿る。
「すごい!本当に辿り着いた!」
パッと見ではあまりに複雑すぎてこの模様が1本の線にはとても思えない。だけど、着実に線を辿れば、それが本当に途切れなく繋がっていることが分かる。
「恵吾の未来も、この線みたいに良い方向に導かれるかな」
「うん。そうだといいね。美咲、ありがとう」
恵吾は満足気に真ん中に描かれたモチーフを指でなぞり、マグカップの底を見る。そして、何かに気付いたらしく、恵吾はそのまま動きを止めた。
「どうかしたの?」
「美咲‥‥。このマグカップのもう一つのジンクス知ってる?」
「もう一つのジンクス?」
「このマグカップは『プシュケ』という販売名がついてるんだけど、このデザインはギリシャ神話を基に描かれているんだ。この真ん中に描かれた逆三角形は神であるエロスと人間であるプシュケを永久に結び付けてくれる聖酒の入った杯を表している。このマグカップを持っていると、辛い試練を乗り越え、辿り着きたいところへ導びかれるという意味があるけど、このマグカップをお揃いで持っている2人は辛い試練を乗り越え、強い絆で結ばれるという意味もあるんだって」
ギリシャ神話『エロスとプシュケの恋物語』。
神であるエロスが人間であるプシュケに見惚れ、謝って自分自身に恋の矢を射ってしまったことにより、エロスはプシュケを愛してしまう。だけど神と人間の恋は許されない。エロスはプシュケを森に軟禁し、暗闇に姿を隠してプシュケを愛した。だがプシュケは姿を見せないエロスを疑い、暗闇に光を灯して、エロスの姿を見てしまう。姿を見られたエロスはプシュケのもとを去る。エロスを取り戻すためにプシュケはたくさんの試練を乗り越え、ゼウスに不老不死の聖酒を貰い、エロスと結ばれるという神話。
「このマグカップ。物によって実はペアがあって、線が繋がるようになってるんだ」
恵吾がマグカップの取っ手に描かれている線の始まりを指で差す。
「え?でも、単品でしか販売してなかった」
「そう。これはこのメーカーの遊び心でさ。全部のマグカップにペアがあるわけじゃないんだ。そして客もペアの商品を自ら選べない。このマグカップの底に番号が書いてあるだろう?」
マグカップの底を見ると、『201』と番号が書かれていた。
「この番号の末尾が『1』の場合、ペアが存在しているらしい」
「じゃあ、このマグカップもペアがあるっていうこと?」
「そういうことになるね」
「でも、もう売れちゃってるかもしれないんですよね?」
「その可能性もあるけど‥‥」
すると恵吾はマグカップからアトリエの中へと視線を移し、壁に掛かっている時計を確認し始めた。私は突然、また不安に襲われる。
恵吾は大概タイムリミットが狭っている時に時計を気にすることが多かったから、また強制的に2人の時間を中断されるのかと怖くなる。
時計の針はもうすぐ13時を差そうとしていた。
私は時計から視線を戻してきた恵吾の顔色を伺った。 募り始めた不安で小さく唇を噛み締める。
恵吾は曇り出した私の目を見ると、目元と口元をゆっくり緩ませて優しく笑う。そして、私の髪に手を延ばした。
アトリエに着いた時以降、私に触れようとしなかった恵吾の手が私の身体に直に触れず髪の毛を弄る。その間接的な接触が妙に気持ちをそわそわさせた。
「愛と疑いは一緒にいられない。 疑えば、愛は去り、愛すれば、疑いは消えるか……」
恵吾の口から零れた言葉は耳に残ったけれど、意味は汲み取れずに、私は「え?」と聞き返した。
「美咲の誕生日に、このマグカップのペアをプレゼントするね」
「私の誕生日?」
「うん。美咲の誕生日も一緒に祝おう。僕はそれまでに、このマグカップのペアを手に入れる。そしたらその時は、僕たちは永久に愛し合うって約束しよう」
「永久に?」
「そう。永久に」
恵吾の指が私の顎を引き寄せて、2人の視線が鎖のように繋がった。『永久に』という響きに期待と恐怖が入り混じる。
その永久の意味を私は聞いていいのだろうか。永久に愛し合うとは、不倫をしたままでもこの関係を続けようということなのだろうか。アトリエという限られた空間だけの永久なのだろうか。
「僕は誓うよ。美咲だけを永久に愛する」
真剣な目で見つめられ、恵吾の誓約が全身に突き抜けるようで意識がクラクラとした。
「美咲は誓う?」
恵吾の確認が胸の鼓動を早くする。私の恵吾に対する気持ちは単純明解過ぎて、偽りようがなかった。
「私も誓う。恵吾だけをずっと愛してる」
どうしようもなく、どうすることもできず、私は恵吾を愛していた。もし恵吾が離れていってしまうとしても、そして私から離れることになるとしても、私が恵吾を愛さなくなる日は決して来ないと分かっていた。
だけど、そう思えてしまうほどに深く恵吾を愛するほど、私の不安は募るばかりで、私は恵吾の気持ちを疑っていた。
この時の恵吾の誓約を心から信じることなど出来ず、私はただアトリエでの逢瀬の罪から免れる儀式なのだと受け止めていたように思う。
その後私達は肌を重ねた。それは快楽を求めあうというよりも、お互いの存在を確かめ合うようなゆっくりとした行為で、私の中に納められた恵吾のものは刺激を求めるのではなく、重なる温かさを求めた。
寂しさ、切なさ、虚しさを隠すように激しく互いの愛をぶつけ合うような交わりばかりをしていた私達。だけど、この時の恵吾からは焦りや寂しさをまったく感じなかった。
私達の身体は本当に一つになってしまったかのように不思議な感覚で、申し合わせたように共に高みへと向かっていた。




