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罪と嘘  作者: 水沢理乃
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恵吾と美咲の嘘。そして樹生06

 恵吾がアトリエにある大皿の話をした時、私は恵吾と恵吾の両親の温かい食卓をイメージした。その食卓の風景はもちろん存在していたんだろうけれど、それはもう無いのかもしれない。

 そして、事業に失敗し、妻にも愛想をつかれて、自宅に引きこもっている父親がいる家というのはどんなものだろう。母に先立たれた私と同じように、ふとした時に孤独を感じる家なんだろうか。以前存在した温かさを思い出して、侘しくなる家なんだろうか。

 塞ぎ込んでいる父親を励ましたいという恵吾の思いにも、私は胸が詰まってしまった。

「僕の話は終わりにしよう。美咲のこと、聞かせて。美咲は何で通訳になったの?」

 雨を含んだ薄墨色の雲が重苦しく垂れ込めたような車内の空気。それを変えようとするように、幾分明るい声で恵吾は私に問いかけた。

「私?通訳になった理由は結構単純で……」

 私は通訳になるきっかけとなった出来事を思い出しながら、話し始めた。

「中学生の時、道に迷っていた外国人が年配の女の人に道を聞いているところに、たまたま通り掛かって。その女の人は英語が分からなくて、私は助けを求められたんです。私も英語ができるわけじゃなかったけど、授業で習ったばかりの単語を並べて何とか対応したら、2人からとっても感謝されて、それがなんだか凄く嬉しくて……」

「それで通訳になりたいなって?」

「はい。単純ですよね?」

 私はあまりに単純な動機を説明して、恥ずかしくなった。

「うん。でも、すごく分かりやすい」

 恵吾は単純な私がおかしかったのか、楽しそうに笑った。

「でもだからって、通訳に簡単になれるもんじゃない。美咲は勉強家だもんな」

「そうなのかな」

「うん。普段の様子を見ていれば、それがよく分かるよ」

 確かに勉強はたくさんしたと思う。でも、私が通訳に慣れたのは私の努力だけじゃどうにもならない。通訳になるための勉強ができる環境を作ってくれたのは母だった。

「でも、母には凄く苦労をかけてしまったから、これで良かったのかは今でも悩みます」

 私が通訳になりたいなんて思わなければ、もしかしたら母はまだ生きていたかもしれなかった。

「美咲の両親は何をしている人なの?」

 恵吾に私の両親について尋ねられて、私は静かに深呼吸した。

「うちは母子家庭なんです。母は私を留学させるために死にもの狂いで働いてくれました。でもそのせいで、ちゃんとした病気の治療を受けず、亡くなりました」

「え?」

「母はギリギリまで病気のことを私に黙っていて、いつも笑顔だったから、私はぜんぜん気付けなかった。この会社に入社するちょっと前です。本当に落ち込んでいたから、それで、あの……泣いちゃって…」

 私は入社初日に恵吾の前で大泣きしてしまったことを思い出して、伏せ目がちに恵吾を見た。

「入社初日の泣いた理由はそれだったの?」

「はい。だから、お父さんのために、自分の夢をまだ追いかけられるって少し羨ましいです」

 私は恵吾を励ましたくて、そう言った。そして、逆に自分はもう母に何もしてあげられないことを実感した。

「母にもやりたいことがあったのかな。母は私を育てるためにひたすら働いてくれたのに、私は母に何もしてあげられなかった」

 あまりにも早い死だった。私は何も親孝行できなかった。

 恵吾は泣き出しそうな私の手を強く強く握った。

「何もしてあげられなかったってことはないんじゃないかな?」

 恵吾の指の力強さに、私は恵吾と目を合わせた。

「美咲のお母さんは、美咲の夢を叶えるために頑張ってたんだろう? そして、美咲はちゃんと夢を叶えた。僕の『鳶と鷹』で例えるなら、美咲はすでに『鷹』であることは証明してみせた。美咲のお母さんは大切な娘が素晴らしい娘だって自慢できたと思う。そしてそんな娘に育て上げた自分に誇りを持ったと思う。お母さん、いつも笑顔だったんだろう?それなら、絶対、満足した人生だったと思う」

 恵吾の目が優しく垂れる。恵吾の力強い言葉が心に入ってくる。私は胸が熱くなって、また涙が溢れてしまっていた。

 母は確かに死に際まで笑っていた。『幸せになりなさい。ありがとう』って言ってくれた。母の顔を思い出して、恵吾の言葉がより深く心に染み込んだ。

 身動きを取らせないよう身体を強張らせていた木枯らしが静かに止み、風のなくなった暖かい陽だまりに包まれて、心まで解れていくようで。

 その日から私は、その恵吾の言葉のおかげで、『母はもしかしたら、ちゃんと満足した人生を送れたのかもしれない』と思えるようになっていた。母の死を悔やむ日々から、少しずつ離れることができるようになっていた。

 恵吾は、その日、涙が止まらなくなった私を優しく抱きしめて、背中をさすってくれた。入社初日の時のように、私が泣き止むまで、ずっと静かに見守っていてくれた。

「美咲って、本当に泣き虫だね」

 私の涙が止まった後、恵吾が思わせぶりな顔で私の顔を覗き込んだから、私は少しふて腐れてみせた。

「別にからかっているわけじゃないんだ。ただ、ずっとそうやって僕の前では遠慮しないで泣いてほしい」

 恵吾は泣き続けたせいで腫れぼったくなった私の目元を指で軽く撫でると、頬を両手で包んだ。

「美咲まで強がらないで。僕に弱さを見せて」

 恵吾の目の中の瞳が微かに揺らめいて、私の心も微かに揺れた。近づいてきた恵吾の唇が、私の唇を優しく塞ぐ。そして、唇を離した恵吾はすぐに私の身体を強く抱き寄せた。

「美咲は僕が居ないと生きていけないくらいになればいいのに……」

 小さく呟いた恵吾の声が耳をくすぐった。

 恵吾が居ないと生きていけないくらいに、実際、私がそうなってしまったらどうなるんだろう。この先ずっと一緒に居られる保証はないのに、私がそこまで恵吾に溺れたらと思うと怖くなった。

 私は恵吾の呟いた言葉に不安を抱いてしまって、そっと恵吾の胸に腕を突っ張ると、恵吾の顔を伺った。恵吾はそんな私の顔をみて、優しく笑った。

「僕は美咲のそばに、ずっと居るよ」

 恵吾は真っ直ぐに私の目を見て、そう言った。

 でも私はとても信じられなくて、不安な表情を変えることはできなかった。すると途端に、恵吾はあの意地悪そうな笑顔を見せた。

「嘘だと思ってる?」

 恵吾の問い掛けは、私を迷いの渦へと呼び込んでいく。どう答えていいのかなんて分からなくて、私の気持ちは声にならない。

「美咲が僕だけをずっと好きでいてくれたら、ね?」

 自分の心を読ませないようなバリアを張った顔でにっこりと笑う恵吾。その笑顔で、私だけをより溺れさそうとする。

 心の中はグラグラと揺れ始めて、私はその動揺を恵吾に悟られたくなくて、恵吾の胸に顔を隠した。

「ねぇ、美咲。僕の誕生日もうすぐなんだ。一緒にお祝いしてくれる?」

 恵吾は私をぎゅっと抱きしめて、髪を撫でた。私は顔をそのまま伏せたまま、恵吾の腕の中で、ただ大きく頷いた。

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