37 森の轟き、死の囁き
「何でアンタがそれを」
あのタロットカードはクロエからナインに渡ったはずだ。
ナインはグロウ側の悪魔だった。
それなのに、なぜサキュバスが持っている。
「これは元々わたしの武器だったのよぅ。まさかキングがおじいちゃんに預けたなんて思わなかったから、盗られてからはずっと探し続けて、グロウが預かってるのをやっと取り返したの。おじいちゃんはわたしの武器ってことすら知らずに持ってたみたいだし、苦労したわぁ」
ただ嫌な予感がした。
ほとんど直感で真横に飛ぶ。
先程まで自分がいた場所に、青白い光線が突き刺さった。
その光線は、正義のタロットカードから発せられていた。
「へーこれは避けちゃうんだ」
サキュバスがタロットカードを天にかざす。
すると、カードから生み出された光線が自分の方へ向かってきた。
凄まじい速さだった。
全力で逃げないと、追いつかれる。
角で曲がってみても、自分に合わせて曲がってくる。
かわしても、またサキュバスが生み出す光線が追いかけてくる。
高低差をつけるとわずかな時間を稼げる。
障害物にぶつけると、サキュバスが新しい光線を生み出すまで、少しの時間差が生まれる。
分かったのはこれだけだ。
未来を読めない限り、闇雲に逃げるしかないのか。
『この先ゼフィランサス村』という看板が一瞬見えた。
クレセント町を出てしまう程走り続けたらしい。
ゼフィランサスはクレアラッツから大きく離れた農村で、障害物はほとんどない。
つまり、時間稼ぎができない。
ここを抜けると森と山があり、そこから先はラムツェルだ。
もはやサキュバスの姿は見えない。
サキュバスを倒せば、この光線は消えるだろうか。
この光線が自動追尾弾でなければ、新しい光線を生み出す為に近くにいるはずだ。
このままでは体力がもたない。
考えがまとまらないまま、セヴィスは大きな賭けに出ることにした。
うまくいくか分からないが、やるしかない。
セヴィスは目の前に広がる森に向けてナイフを投げ、木にワイヤーを打ち込む。
そのままワイヤーを収縮させて森に突入し、奥の木にもナイフを投げ、同じことを繰り返す。
入り口が見えない程奥まで飛び、高い木の枝の上に立つ。
自分を追尾する光線は木を貫通し、別の木に当たって消えた。
それから光線は来なくなった。
サキュバスの追尾光線は、視界にセヴィスが入らなければできないことが分かった。
「ちょっとぉ、かくれんぼ?」
かすかに声が聞こえる。
サキュバスが森に入ってきたらしい。
来い、暗くて深いこの森で、決着をつけてやる。
おそらくサキュバスはロザリア同様、夜目がきくだろう。
反対に明るいクレアラッツで暮らしているセヴィスは、視力では悪魔に劣る。
だが、この場所なら木を使ってうまく隠れることができる。
暗闇で気にするナイフの命中率は関係ない。
ナイフは元々サキュバスには当たらない。
攻撃するなら、直接サキュバスに近づくしかないのだ。
「いいわよ、わたしが鬼ね?」
サキュバスが自分に気づいていない今、ここで逃げることもできたかもしれない。
サキュバスは依頼を使って自分を呼び出した。
それはグランフェザーのように自分を探し出せないことを意味する。
だが、それはしない。
ここで逃げたところで、サキュバスと戦う未来は避けられないのだから。
息を押し殺し、サキュバスが近づいてくるのを待つ。
それが運命の分かれ目だと知らずに、ただ集中していた。
「どこかしらぁ」
来た。
サキュバスが、自分のいる木の下を歩いている。
セヴィスはすぐに木から飛び降り、サキュバスの後ろの地面に空中からナイフを打ち込む。
攻撃できるのは、音に気づいて、サキュバスが振り返るまでの刹那の間のみ。
そのまま収縮する勢いを利用して、振り返るサキュバスの頭部を蹴る。
「いたっ」
攻撃は命中した。
ズボンが透けて、足に直接衝撃が伝わってきた。
サキュバスが少し体制を崩す。
その隙にもう一発蹴りを叩き込む。
「ふふふ、みぃつけた」
サキュバスは木に打ち付けられたにも関わらず、笑い始めた。
二十二枚のタロットカードが、おもむろにサキュバスの周囲に漂う。
それを見た瞬間、全ての思考が飛んだ。
「じゃあね」
暗い森を、隙間なく、無数の光線が走った。
どこに避けても、無駄だった。
光線に貫かれた身体に迸る熱。
視界を覆う、自分の血の色。
両膝を地面につき、息苦しさから逃れようと咳をすると、口から多量の血が吐き出された。
「やっと……分かった」
ダイヤモンドを盗み出さなければならない理由。
それは、この怪物を阻止する為に。
たったそれだけの為に、クロエと栄光の翼は抗争してきた。
たったそれだけ、でも、たったそれだけが人類全てに関わるなんて。
「もう終わり? つまんないんだけど」
俺はこんなにあっさり死ぬのか。
吐き気と共に、意識が遠のいてきた。
やめろ、俺はまだ何も知らない。
全てを知り、葬るまでは。
「人間って相変わらず脆いわねぇ」
最期に、彼女に伝えたかった。
抱き締めるだけじゃなくて、言葉で。
初めて会った時から、好きだった。
自分の興味を彼女に向けたのはサキュバスの性質かもしれない。
それでも。
「泣かないの? 強情ねぇ。あなたのそういうところ、気に入っちゃった」
サキュバスは自分の顎に手をかけ、顔を持ち上げる。
「っ!」
サキュバスは顎にかけていた親指を、口の中に入れてきた。
そのまま、舌を弄る。
さらに血の味が広がった。
「唇も柔らかいし、ミルフィちゃんが好きになるわけだわ。でもわたし強欲だから、キスが効かない所持者たちの恋人を奪っちゃいたくなるのよねぇ」
ほとんど力の入らない手でサキュバスの腕を掴むと、親指が抜かれた。
赤い糸が引いた。
「どう? わたしとひとつになってくれたら、命だけは助けてあげるわよぅ」
「……は?」
もう片方の手が、服を透けて肩と腰を直接触ってくる。
目の前の悪魔に対する憤りと、おぞましい寒気が走った。
「まあ脱走しないように手足縛っちゃうけど、わたしの舌が好きだった男、すごく多いのよぅ。あなたはキス一回じゃ効かなかったから、他の男よりも時間をかけて調教してあげないとね。何回もすればそのうちわたしの虜になるわ。ミルフィちゃんのことなんか考えられないぐらい、気持ちよくなれるから。いい提案だと思わない?」
「ふざけるな」
右手の力を振り絞って、それを振り払う。
サキュバスの手はあっさり解けた。
今まで何人の男たちが、この誘惑に乗り、所持者を生み出してきたのだろう。
こんな悪魔と交わって奴隷同然になるくらいなら、死んだ方がマシだ。
「あら怖い、そんなに睨んじゃって。まだ抵抗するの?」
大量の未練を残したまま死ぬなんて、悪魔以下だ。
重い瞼の隙間から見えたのは、サキュバスのつまらなそうな表情だった。
「仕方ない子ねぇ。じゃあここで死んでもらおうかなぁ」
こんなところで終わるのか。
グロウが育てた怪盗は、所詮ダイヤモンドを盗むだけの存在で、この程度だったというのか。
悪魔の頭領に誘惑されて、簡単に殺される。
この人生は、こんな屈辱で終わるのか。
「このまま殺しちゃうのは、ちょっと面白くない気もするけど」
じゃあ俺は何をした?
今まで、何のために生きてきたんだ?
生きている間に何をした?
まだ――――生きたことに、満足してないだろ?