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幻のなかで 〜名誉を教えた男は、送り出した教え子の顔を一つも覚えていない〜  作者: 星喰ゆう
第一章 マチルダ

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第一話 準備は出来ている

 馬車に揺られて、五日が過ぎた。


 石畳の道は、二日目の昼で終わっていた。

 そこから先は、踏み固めただけの土の道だった。


 車輪が石を踏むたびに、馬車の揺れが体の芯まで響く。


 心地よい旅ではないことは、あそこを出てからすぐにわかった。


 山が少しずつ低くなっていく。

 振り返って見たけれど、もうベルク山は見えなかった。


 首都アルトに生まれた私は、あの山を見なかった日は一度もなかった。

 アルトを出たことがないからだ。


 いや、厳密にはでたことはある。



 膝の上で、私はもう一度紋章を磨いた。


 支給されたばかりの、鉄でできた紋章。

 ベルク山が、深く刻まれている。


 これを持つ者だけが、シュタイン隊を名乗れる。


 布で拭くたび、彫られたベルク山が輝いている。


 向かいに座ったマルコが、それを見て少し笑った。


「なあマチルダ。さっきから何回磨くんだよ」

「汚れてたら、隊の名に傷がつくから」


 教官の言葉を、そのまま借りた。


 マルコはもう笑わなかった。

 自分の紋章を、そっと撫でていた。


「教官がよく言ってたな。『シュタイン隊として、恥ずかしくないように振舞え!』ってな」


 ゲルナーが、教官の口ぶりを真似た。


「ゲルナーさん、あんまり似てませんよ」

「そうか? 自信あったんだけどな」


 馬車の中には、小さく笑いが起こった。


 訓練学校での日常と変わらない。


 誰かが教官を馬鹿にして、みんなが笑う。

 もちろん私は、教官のものまねなんかしたことはない。


 怖かったからだ。


 でも、辛かった訓練の日々も、仲間と過ごした日々も、今となってはいい思い出だ。


 あの二年があったから、私はここにいる。


 名誉ある、シュタイン隊の一員として。



 国境の砦に着いたのは、日が傾いてからだった。


 砦、と聞いていた。


 実際には、石を積んだ低い壁と、掘っただけの長い溝が続いているだけだった。


「おいおい、まじかよ」

「はあ、せっかくシュタイン隊になったのに、こんなとこに配属されるなんて」


 二人が露骨に落胆している。


 たしかに、思っていたものと違った。

 でも、私はそれは言わなかった。


 言えば、期待していた自分が恥ずかしくなる気がした。



 迎えに出てきたのは、女の人だった。

 私より頭ひとつ高い。

 髪は短く、右の眉に傷がある。


 胸にあるのは、同じ紋章。

 ただし、私のよりずっと汚れていた。


「君たち、新入り?」

「はい。マチルダです。本日付で、この砦に配属を――」

「あー。そんな畏まった挨拶はいらないよ。誰も気にしないから。わたしはアメリ―。ここのシュタイン隊の中では一番長いかな」


「そうなんですか?」

「そうだよ。もう三年になるかな」

「三年……」


 三年が長いのかどうか、そのときの私には分からなかった。


「まあ、緊張することはないよ。戦時でもないし。案内してあげる」


 私たちはアメリ―に続いて、砦の中を歩いた。


 溝の中に、たくさんの兵がいた。

 剣を持った兵士、弓を持った兵士。


 私たちが通ると、彼らは手を止めて背筋を伸ばした。


 何人かは、胸に手を当てて頭を下げた。


 敬礼だった。


 私にしてくれている。

 まだ、何もしていない私に。


「アメリ―さん。さっき誰も気にしないって……」

「そうだよ。わたしたちはシュタイン隊だからね」

「どういうことですか?」


 アメリ―は、前を向いたまま言った。


「シュタイン隊は才能のある人間しかなれない。誇張して言うなら、選ばれた人間。誇張せずに言うなら、替えの効かない戦力だ。彼らと違ってね」

「……選ばれた人間」


 誇らしかった。

 胸の紋章が、少し重くなった気がした。



 その日の夕食時、アメリ―は、いろいろなことを教えてくれた。


 水は、沸かしてから飲むこと。

 食事は食べられるときには、すぐに食べること。

 夜間は交代制で見張りにつくこと。

 魔法を使う時は、周囲に知らせること。

 少しでも体に違和感があったら、すぐに詠唱をやめること。


「それを超えて魔法を使おうとしないで。ここでは死を意味するから」

「魔素酔いは、訓練学校で何度か経験しましたよ」


 ゲルナーがアメリ―に言った。


「すぐにわかるよ。忘れないで」


 アメリ―は、それ以上は言わなかった。


 私も聞かなかった。


 その時のアメリ―の目は、さっきまでとは違っていたから。



「質問いいですか?」


 マルコが聞いた。


「ここが砦ってことは、なにかから守っているんですよね?」


 アメリ―は少しため息をした。


「そんなことも教わってないとは。たるんでるね、最近の教官たちは」


 アメリ―は、月明かりで照らされている丘を指差した。


「あっちがゼーラント。私たちの隣国。なにかと小競り合いが起きている連中だ。まだ、本格的な戦いは起きてないけどね」


 今度は、その少し東側を指差した。


 月明かりでも、黒く濁っている森がある。


「夜はあの森から、別のものが来る」

「……魔物、ですか」

「そうだよ。平和そうに見えて、ここは敵に囲まれている。だから、気を抜かないで」


 アメリ―は、空を見上げた。


 薄い雲の向こうに、月の輪郭が白く滲んでいた。


「今日は明るいね。嫌な感じだ」

「そうなんですか?」

「一年もここにいれば、あなたたちにもわかるようになるよ」


 その言い方があまりに軽かったので、私はうまく笑えなかった。


 私たちには見えていないなにかが、この人には見えているんだ。


 軽く言えるほど、何度も。


 ――だが、その夜を待つ必要はなかった。


 丘の向こう側で、角笛が鳴った。


 低く、長い音。


「アメリ―さん。あれは一体――」


 アメリ―のほうに目をやると、立ち上がっていた。

 その顔には、さっきまでの軽さが消えた。


「……ついに来たね。戦闘配置! 松明を全部つけて!」


 兵士たちが、一斉に武器を取る。


 剣が鞘を離れる音が、壁沿いに波のように走った。


「あんたたち、早速で悪いけど働いてもらうよ」


 その言葉を聞いた瞬間、足が震え出した。


 心の準備はしてきたはずなのに。


 実戦。

 殺し合いが、これから始まるんだ。



 丘の上に、月明かりに照らされた旗が見えた。


 あれば、私たちフェルゼンの旗じゃ、ない。


 たぶん、ゼーラントの旗だ。



 準備は出来ているか。


 教官が、私たちを送り出すときに言った言葉を思い出した。



 準備は……出来ている。

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