【エドガー視点】自分が消えていく
エレノアとの婚約解消から一ヶ月。
縁談の話は、一つも来なかった。
父に尋ねると、冷たい目で告げられた。
「どこの貴族家も、お前との縁談を断った。全てだ」
僕の評判は最悪らしい。
婚約者を監視し、束縛し、仕事を辞めさせようとした男。
しかも相手は王女付きの侍女だ。王女様の耳にも入っている、と。
結局、僕に与えられた選択肢は一つだけだった。
リゼッタ・ヴェルナー。ヴェルナー商会の一人娘。平民。
伯爵家の借金を肩代わりする代わりに、僕を婿に寄越せという取引だった。
嫡男の座は弟に移された。
僕は、もうこの家の人間ではなくなった。
*
結婚して最初の数日は穏やかだった。
リゼッタは優しかった。甘い言葉をかけてくれた。
『素敵ですわ』『あなたがいてくれて嬉しい』『愛していますわ』
ああ、やっと。やっと、僕を愛してくれる人に出会えた。そう思った。
変化は、少しずつ訪れた。
散歩に出ようとしただけで、どこへ行くのか、誰と会うのかと問われた。
愛しているから心配なの。そう言われて、僕は頷いた。
誰と話したか報告するようになった。
女の人とは話さないで。そう言われて、約束した。
商会の仕事を手伝いたいと申し出ると、微笑まれた。
「あなたは何もできないでしょう? 黙って座っていればいいの」
外出には許可が必要になった。
今日は駄目、明日も駄目。そう言われて、一人で外に出ることはなくなった。
季節が一つ過ぎた頃。
僕は、ほとんど部屋から出なくなっていた。
*
ある夜。リゼッタが出かけた後、窓の外を見つめていた。
息が、苦しい。
ここにいると、自分が消えていくような気がする。
でも、僕にはここしかない。
逃げる場所がない。一人で生きていく術がない。
彼女がいなければ、僕は生きていけない。
そう思った瞬間、ふと、エレノアの顔が浮かんだ。
『ずっとそうやって、私を繋ぎ止めてきましたよね』
その言葉が、頭の中で響いた。
リゼッタも、同じことをしている。
『あなたが怖いのは、私を失うことじゃない。自分の思い通りになるものがなくなることです』
リゼッタは、僕を思い通りにしている。
『私は人間です。あなたの不安を埋める道具じゃない』
僕は今、リゼッタの道具になっている。
全身から、血の気が引いた。
僕は、エレノアに、これを、やっていたのか。
この息苦しさ。この絶望感。自分が消えていく感覚。
エレノアは、二年間、これを感じていたのか。
涙が溢れた。止まらなかった。
愛だと思っていた。
心配だと思っていた。
でも、違った。
僕がやっていたのは、これだったのだ。
謝りたかった。
エレノア、ごめん。そう言いたかった。
でも、声が出なかった。
喉の奥で言葉が凍りついて、音にならない。
いつからだろう。
リゼッタの許可なく声を出すことが、怖くなったのは。
扉が開いた。リゼッタが戻ってきた。
泣き腫らした僕を見て、小首を傾げる。
「あら、泣いていたの」
近づいてきて、顎を持ち上げられた。
品定めするような目で、覗き込まれる。
「何か言いたいことがあるなら、言っていいのよ?」
口を開いた。
声を出そうとした。
——出なかった。
喉が震えるだけで、何も音にならない。
エレノアへの謝罪も、この檻から出たいという叫びも、全部、喉の奥で死んでいく。
リゼッタが、満足そうに微笑んだ。
「ふふ、よくできました」
頭を撫でられる。
「あなたは何も考えなくていいの。私の言う通りにしていれば、幸せでしょう?」
僕は、頷いた。
頷くことしか、できなかった。
窓の外で、鳥が飛んでいた。
声を上げて、自由に、空を渡っていく。
僕の喉からは、もう何も出ない。




