39.鍵しっぽ
「あの虎猫は出産経験があるようなんです。それもごく最近です」
猫の背中を見送った後、すぐに獣医がやって来た。
若い獣医が猫の様子を話すと、獣医は眉間に皺を寄せて口を開いたのだ。
「だけど子猫はいないのよね?」
いるなら女王に猫と共に報告されるはずだ。
「ええ、探してはみたのですが、どこにもおりませんでした。推測でしかないのですが、子猫を亡くした後にここにやって来たのでしょう」
「そう…」
「ここなら、食べ物もあるし人間もいるので安全だと判断したのでしょう」
王都でさえも猫の親子が生きていくのは過酷なのだ。
「母猫がいない間に子猫が保護されたってことは…」
「保護する人も母猫が巣に帰って来るのを待つでしょうから、それはないと存じます」
「そうよね…」
女王は分かっていても聞かざるを得なかった。
万が一があるかもしれないと思いたかったのだ。
「子を亡くしたところで、群れからはぐれた子狼と出会ったのね」
「最初は嫌がっておりましたが、何だかんだ遊んでくれていたのは、おやつが貰えるからだけではなかったのかもしれません」
「…あの子にも早く家族が出来るといいわね」
女王がしんみりと言ったが、すぐに獣医から驚きの言葉を聞いた。
「ああ、食糧庫の方に雄猫が住み着いたの大丈夫でしょう」
「ええっ!」
「え!そうなんですか?」
女王と若い獣医が声を上げた。
どうやら彼も知らなかったらしい。
「はい。私は先ほどまで、その猫を検診してきたのですよ」
そういえば獣医が部屋に戻ってきた時に、手には聴診器など診察に必要な道具を持っていた。
「そういえば、鼠が出るので猫を飼おうかと話が出ていたそうですよ。ですけど自然に住み着いたのですね」
侍女のジャンナが言うと、獣医は頷いた。
「ええ、そのようです。まだ若い雄猫ですね。まだ巣立ってさほど時間は経っていないでしょう」
「…見に行っちゃ駄目かしら?」
女王はどうしても猫と遊びたいようだ。
「私に触られて気が立っているでしょうから、見るだけになさってください」
「ええ、分かったわ」
女王は侍女達と食糧庫に向かった。
食堂に近いので、周囲にはいい匂いが漂っている。
これは夕食の匂いなのか、それとも遅い昼食なのだろうか。
色んな匂いが混ざっている。
「どんな柄の猫さんなのか、聞くのを忘れちゃったわ」
「人に聞いてみましょう。…あっ!」
女王達の目の前に小さい影が横切っていった。
「何?今のは何?とても小さかったわ!」
女王は興奮気味で言った。
子狼も小さいと思っていたが、それよりもずっと小さかった。
「鼠でございます」
「まだあちらにおりますよ」
侍女のリンダとジャンナから教えられ、女王は鼠を遠くから見た。
「あっ本当ね。あんなに小さなほ乳類がいるのね。そうだわ。一番小さい哺乳類って齧歯類だったわよね」
女王達が鼠の様子を伺っていたら、草陰から何かが飛び出してきた。
その何かはあっという間に鼠を咥えていた。
「……これが弱肉強食、食物連鎖なのね」
女王は動物が狩りする場面を初めて見た。
「もしかしたら、あの猫が獣医殿が言っていた雄猫かもしれませんね」
「え?あの子も猫なの?それにしては尻尾が短いし折れ曲がっているわよ?」
「あれは鍵しっぽでございますよ。幸運を呼ぶと言われております」
「どうして?…珍しいからとか?」
「財産を守ってくれるからとか、幸運を引っかけてくれるからだそうです」
リンダは事前に猫について調べていてよかったと思った。
女王もそれなりに調べていたが、主に生息域や生態について調べていたので、言い伝えなどは調べていなかった。
「あら?こちらに来たわね。どうしたのかしら?」
雄猫は鼠を咥えたまま、ゆっくりと女王達に近づいて来た。
「…ウニャ」
雄猫は女王の足元に鼠を置いた。
鼠は今にも絶命しようとしている。
「え?何?その捕まえたのをくれるの?」
「……」
雄猫は女王を見て前足を動かし、早く仕留めろと促してきた。
「…いいわよ。あなたが食べて」
「……」
雄猫は女王に早く仕留めろと合図してくる。
「……私は他に食べ物があるから平気よ。ええ、本当に大丈夫よ。知っているわよ。あなた、私が弱いと思っているのでしょう。大丈夫よ。私には鼠以外の食べ物があるから平気よ」
女王と雄猫はじっと睨み合っている。
「陛下、鼠は私共で処分しておきますよ」
「猫にも勝てないなんて…アレクセイに馬鹿にされちゃうわ」
「可愛いとは思うが、馬鹿にはしないぞ」
女王の後方から王配の低い声がした。
「え?アレクセイいるの?」
「…猫と睨み合うのをやめて振り返れば確認出来るだろう」
王配は女王と雄猫が睨み合っている不思議な場面に出くわして困惑していた。
そんな王配に侍女達はお辞儀をした。
「それは出来ないわ。今はこの鍵しっぽ猫さんと戦っているんだから」
女王は雄猫を睨みつけているが、あまり効果はないようだ。
「俺は猫に負けたのか…」
「アレクセイなら勝てるわよ。アレクセイに睨まれたら一溜まりもないもの」
「まあな」
王配はそういう意味じゃないのだが、と思いながら身を屈めた。
「ンニャ?」
王配は右手で雄猫の首の後ろを掴んで持ち上げ、左手で尻を支えた。
雄猫は持ち上げられたまま大人しくしている。
「こんなに簡単に持ち上げられちゃうなんて…」
「エレオノーラに気を取られていたから、そんなに困難ではなかった」
雄猫は抵抗せず大人しいままだ。
「なんでも出来ちゃうのね…。お帰りなさい」
「…ついでのように言わないでくれるか?ただいま」
「…じゃあ感動の再会をやり直す?」
「いや、いい」
王配は雄猫を解放した。
雄猫は鼠を置いたまま逃げて行ってしまった。
「…あの尻尾の下についている二つの丸い物体は何かしら?」
女王は雄猫の尾の下、正確に言うと肛門の下にある不思議な物体が目についた。
先ほどの虎猫にはなかったであろう物だ。
「大体の生き物の雄にはついているものだ」
「ああ…。随分と違うのね」
「何と比べたんだ?もしかして…」
「何って馬さん達よ。他にいるかしら?」
「…ああ、そうだな。鼠は猫のねぐらに置いておくか」
王配が鼠を拾い上げようとしたら護衛の兵士達から止められ、王配の代わりに兵士が鼠を猫のねぐらに置きに行った。
女王と王配は侍女達を連れて渡り廊下を歩きだした。
「彼らもだが、俺も手を洗わねばな。まぁ、どのみち着替えるのだからいいんだが」
「子狼ちゃんは遊んでくれたけど、猫さん達は遊んでくれなかったわ。何が違うのかしら?」
「群れで暮らす動物か否かかもな」
「そうなのかしら?」
「…なぁ、エレオノーラいつまでマスクをしているんだ?美しい顔が見えないじゃないか」
女王は厩舎に行ってから今まで、ずっとマスクをしていたのだ。
悲しそうな顔をする王配からの指摘で、女王はやっとマスクを外した。
「ああ、忘れていたわ。ああ、涼しい」
女王がマスクを外すと風が吹いてきて、彼女の口元を冷やした。
少し汗をかいていたので、余計に涼しかった。
「んー…」
「……え?なぁに?」
王配は大きな体を屈めて真剣な顔つきで、女王の顔中をくまなく見つめた。
女王はそんな王配に驚いてしまった。
「久しぶりに愛しい妻の顔を見るんだ。凝視もしたくなる」
「それもそうね。私もアレクセイの顔をよく見たいわね」
女王も王配の顔をよく見ようと、じぃっと見つめてみた。
相変わらず、良い顔立ちをしていると女王は思った。
「そうだろう?いつものように抱きしめあいたいが、俺は先ほど猫を触ってしまったから、念のため止めた方がいいだろうな」
「猫さん…。いつか遊んでくれるかしら?マスクで顔が見えないのが不審に思われているのかしらね」
「…そのうち仲良くなれるさ」
渡り廊下が終わり、二人と侍女と兵士は王城の中に入った。
ここで侍従も加わり、かなり大勢で移動している。
「他の動物にも会ってみたいわね。あっ!牧場はどうだったの?」
「ああ、大丈夫そうだったな。俺が視察した以外のところでも厩舎の増設がほぼ完了したらしい」
「野生の動物の目撃情報は?」
「大型の動物は目撃されていないらしいが、小動物なら見られている。俺も何匹か見た。大型獣が見られていないのは、中央領はケレース王国で唯一国境の山々と接していないからだろう」
「中央領はその名の通り真ん中にあるものね」
二人は食事の前に一旦寝室に向かった。
王配は自身の寝室で手を洗い、着替えを済ませ女王の寝室に行った。
「何をしているんだ?」
女王は何かを振る動作をしている。
もしや剣舞のつもりかと王配は思った。
「猫じゃらしの練習よ」
よく見ると女王の白い手には猫じゃらしが握られていた。
女王はいつか猫と遊べる日のために練習していたのだ。
「そうか、楽しそうだな…」
「そのようには聞こえないわよ?…もう少し興味がひけるような物をつけるべきかしらね」
「そうかもな」
「アレクセイ、拗ねてるのね」
「ああ、拗ねてる。匂いを嗅いでもいいか?」
「匂い?…ひゃあっ」
王配は女王のうなじに自身の鼻をつけた。
「ああ…いい匂いだ。甘い香りがする…」
女王の耳に王配の低い声が響き、吐息もかかった。
「っそれは、髪油の匂いよ!」
女王は必死で王配の胸板を押したが、びくともしなかった。
「そうなのか?では、確かめるためにも全身の匂いを嗅がないとなぁ」
「なっ!…そうだわ!ワルツの練習をしましょう。手紙に書いたでしょう?」
女王は王配の肩を力一杯押してみたが、さらに近づいてくるだけだった。
「それは明日でも出来るだろう」
「それだったら、匂いを嗅ぐのも明日出来るわよ?」
「いや、今日の、今の匂いを嗅ぎたい」
「ええっ?!」
王配は照れた女王を見たかったので、見返されるとは思わなかったのです。なので、匂いを嗅いで困らせようとしたのです。




