人のことは言えない
「遅いよ」
旧校舎二階、一番奥の東側にある教室の扉を睨んだまま佇立していた奈緒が、七海の姿を認めると小さく叱った。鞄はどこかに置いてきたのか、鞄から外されたシオンが奈緒の肩に乗っている。
悪い、と一言謝った後、七海は扉を睨んた。魔力は扉の奥から伝わってくる。ピリピリと焼けつくような、身体中を抉ってくるような感覚。歯でも食いしばって耐えなければ逃げたくなるような殺気の波が襲ってくる。
『今回の使い魔もかなり危険な相手だな。いつものことだが、今日は特に』
ポケットのなかからアルが姿を現し、ふわりと宙に浮かんだ。
「ああ、スゲエ魔力」
「……うん、ひとりじゃ勝てないかも」
奈緒の呟きと同時に、柔らかな感触が七海の指先に伝わってきた。見ると、奈緒の手が七海の手を握りしめている。その白い手が小刻みに震えていた。表情は強張り、恐怖と緊張の色が明らかに浮かんでいる。
「怖いのか?」
「うん。急がなきゃなのはわかっているけど、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ握っていて」
手を握りしめたまま、奈緒は大きく息を吐いた。長く吐息の後、その手を離し、顔をあげた奈緒の表情からは恐怖も緊張も消えて、戦闘時に見せるいつもの毅然さを取り戻していた。七海に振り向いて小さな微笑を浮かべてありがとうと言った。
「それはこっちも同じだよ」
強大な敵を前にして気持ちは奈緒と同じだった。だが、柔らかに感じた奈緒の指先が心強く、そして怯えを隠そうとしない奈緒を護らなければならないと意思をより強固なものとさせていた。
『二人とも、準備はいいか?時間がない。そろそろいこう』
「はい!」
シオンの言葉に二人は同時に答え、手を空に向かってかざした。
〝ジュエル・フォース!〟
銀色に輝く魔法陣が地面に浮かび上がると、一陣の風が巻き起こり銀色の光の渦が彼らを包んだ。
※ ※ ※
結界内は使い魔特有の精神状態を表す、陰鬱な光が照らす毒黒い瘴気に包まれた空間で、東京ドームをイメージさせる半球状の形をしていた。〝守護者〟に変身を終えた七海と桜は岩場が目立つ地面に降り立つと、〝魔眼〟を発現させて捕らえられているはずの生徒の姿を探した。
「……いた!」
奈緒は天井の端を見据え、その言葉に促されるように七海も視線を奈緒に合わせた。
瘴気によって視界が遮られているが、魔眼は光の糸によって身体を拘束されている女生徒の姿を確実に映し出していた。彼女は深い眠りにつかされ天井につりさげられている。奈緒は印を結び、自身の武器である〝スネイク・ブレイド〟を魔法陣から形成した。スネイク・ブレイドは剣と鞭の機能を併せ持った武器で名称は奈緒がつけた。遠距離の相手に有効なのだが、女生徒を拘束する光の糸を断ち切るにはまだ少し距離がある。
「早く行きましょ」
『奈緒、待て!』
翼を広げて飛び上ろうとした奈緒だったが、アルが叫んだのと七海が奈緒の肩をつかんで引き寄せたのが同時だった。空間の一部が歪んだかと思うと、暗闇の奥から耳を弄すような爆音と衝撃波が硬い岩場を粉砕しながら七海たちを襲ってきた。
「くっ……!」
奈緒の身体を抱き寄せたまま衝撃の波から辛くも退避したのだが、耳鳴りが止まず一瞬、意識も遠のきかけた。まともに喰らったら、と七海の背に冷たいものが流れた。
「大丈夫か?奈緒」
「うん。ありがと……」
奈緒に肩を貸して立ち上がると、やがてドスリ、ドスリと地響きのような揺れと音が響いた。見ると闇の奥から巨大な影が近づいてくる。おぼろげな淡い光に照らされた場所までくると、その輪郭がはっきりと目に映った。
『今回は、ヴァイオリンに憑依した使い魔か……』
アルの独白が七海の耳にまで届いた。巨大化したヴァイオリンのボディから棒きれのような細長い腕や下肢、それに反比例するかのように団扇のような白色の大きな手と、ゴム靴のようなずんぐりとした足。右手にヴァイオリンの弓を把持している。
七海はいそいで〝王家の杖〟を取り出すと燃えさかるような紅蓮の刃を形成して縦杖に身構えた。
「俺が奴をひきつける。その間にあの子を」
使い魔から視線を離さず七海が言うと、わかったと頷く奈緒の気配がした。だが、その直後二人は使い魔に向かって猛進した。愚かな獲物が自ら飛び込んできたと思ったのだろう。使い魔は悠然と待ち構え弓を自身の弦にあてたときだった。衝撃波が起きる直前に七海が火炎系の中級魔法を地面に向かって放ち、噴煙が使い魔の視界を遮った。使い魔が衝撃波を放って噴煙を掻き消した時には二人の姿はそこにはなく、奈緒は上空へと飛び上っていた。
使い魔は予期しない攻撃に明らかに戸惑っていた。
「トロいんだよ!」
隙をついて、使い魔の直近まで迫っていた七海が刃を振りかざした。刃は使い魔の右足を切り裂き、咆哮する使い魔の横を駆け抜け、振り向いて身構えるとよろめいてバランスを失っている。いかに魔力が強かろうと攻撃が出せなければ無力も同然だった。
『次だ!畳みかけろ七海!』
「わあってるよ!」
翼を広げて推進力を加速させ、再び足元に狙いを定めると見せかけて、今度は使い魔の頭上まで飛翔した。七海の気配を使い魔も察しているだろう。振り向くと同時に攻撃の源となっている弦を断ち切り、無力化するのが狙いだった。振り返らなければそのまま使い魔の背を切り裂き、カウンターにも対処できるよう杖を八双に構えている。万全の構えのはずだった。
しかし。
直前で七海の動きが止まった。動きだけでなく、内側から噴き上がる闘志という感情も消えていた。七海は刃を手にした腕を静かに降ろし宙に佇んでいる。
それは七海だけでなく奈緒も同様で、女生徒を抱えたもう一方の手のスネイクブレイドが悲し気に垂れさがっている。
「なんだよ……。なんだよこの曲……」
『おい、どうした七海。しっかりしろ!』
七海との耳にヴァイオリンの音色が流れ込んでくる。悲しく切なく、胸の内に深くおさえこんでいたものを外にまで引きずり出してくるような力を持っていた。涙が自然と溢れ、ぼやけた視界の向こうに、使い魔が自分の身体をつかって音楽を奏でている姿が映った。ヴァイオリンの身体から紫色の波動が放たれ、その波に飲まれた七海や奈緒は、ある感情に揺り動かされていた。
「バルトーク二番……」
音色に混じり、奈緒の震えるような声が七海の耳に届いた。
舞い落ちる羽根のように、ゆらゆらと七海と奈緒は地面に降り立つとそのまま崩れ落ちた。使い魔の攻撃の一種だと頭では理解していたが、どうしようも無い感情が津波のように押し寄せてあらがうことも出来ず、涙が頬を濡らし倦怠感や無力感、恐怖、自己嫌悪といった負の感情が七海たちを支配していた。
母を死なせた無念さ、幼馴染へのやるせない想い、父母のいさかい、失った親友。
「……ごめんな、おふくろ。ごめん、ごめんな。桜、婚約者て、なんなんだよ……。クソッ……」
「みっちゃん……みっちゃん……。私、もう辛いよ。怖いよ。……お父さんも、お母さんもお願いだから仲良くしてよ」
『しっかりしろ、七海!』
『早く立て、奈緒! 相手が次の攻撃に移ろうとしているぞ!』
アルとシオンの叱咤も、使い魔の音色の前には無力で二人には届かない。立つこともできず、地面に伏すようにして身を悶え、むせび泣いている。二人の顔は涙とヨダレと埃で汚れきっていた。
不意に音色が止み、負の感情から解放された七海と奈緒が汚れた顔をあげた。その先には、弓を弦にあてた使い魔が不動立ちの状態で見下ろしている。
「……!」
再び、使い魔の身体から凄まじい衝撃波が放たれ、音の奔流が七海と奈緒の二人に襲いかかる。瞬間、七海と奈緒は正気を取り戻したものの空間転移までは間に合わず、二人は翼をひろげ、女生徒を護るために全エネルギーを翼に集中させてバリアを張ったがそれでも耐え切れなかった。衝撃と強烈な音波、土砂の渦に呑みこまれ、二人は数百メートル先の結界の壁際まで吹き飛ばされて行った。
「がっ……!」
翼がクッション代わりとなり、壁に叩きつけられても致命的なダメージは受けずに済んだもの、それでも背中に受けた衝撃は尋常ではなく、息がつまって足に力が入らなかった。それでも追撃を警戒して前方を見据えたが、足を負傷させたのが功を奏し、足を引きずりながら近づいてくる姿が遠目に映るだけだった。
この距離ではあの〝バルトークの二番〟も効果がなく衝撃波も威力が無いらしいと、意識はおぼろげながらも七海はそこまでは考えることができた。
「奈緒、その子は大丈夫か?」
「……?」
「奈緒?」
七海の問いに、女生徒を抱きかかえながらよろめく奈緒は顔をしかめて見返してくる。
女生徒は奈緒と七海の翼と、身体を拘束する光の糸が反対に防護役となったようで、ダメージはほとんどなく眠りについたままだった。
奈緒の口元は動いているが七海には届いて来ない。
わからないと言っているように見えた。アルにしてもこの非常事態にも関わらず、顔を近づけてくるだけで何も聞こえてこない。代わりに耳の奥で異様な耳鳴りと突き刺すような激痛が奔った。思わずうずくまってしまうほどの激痛だった。この痛み、以前にも記憶がある。
(鼓膜がやられたか)
傍らでアルとシオンが、回復魔法でそれぞれ治療にあたっている。次第に痛みは和らぎはしたものの、耳鳴りは酷く聴覚の回復までには至っていない。キインと電子音のような耳鳴りが延々と頭に響いてくる。奈緒も同様に鼓膜に相当なダメージを負っていたらしく、目を見張ったまま耳元を抑えている。
(衝撃波よりも、あの音楽が厄介だな)
正気を取り戻した七海の頭は、先ほどの〝バルトークの二番〟を思い出していた。
今回の使い魔は、感情を強制的にコントロールしてしまう特殊能力を持っている。おそらく他にもコントロールする曲の種類はあるのだろうが、どちらにせよ安易に近づけない。
その時、アルが目の前に浮かび、身振り手振りで何か伝えようとしてくる。様子からしっかりしろだとか、気合を入れろなどと精神論を伝えようとしているらしい。
(やかましい。さっきの音楽の時も……)
そこまで考えた時、脳裏に閃光のようなものが奔り、七海は顔をあげた。
自分達が使い魔の特殊攻撃にさらされている間も、同じ曲を聞いていたはずのアルとシオンはいつも通りだったことを思い出している。アルとシオンの身体は布と綿で構成された、どこにでもあるぬいぐるみである。しかし、物を知覚し、会話によるやりとりや動作ができるのは内に収まる魂とアル達が持つ強大な魔力によるものだ。そんな二人に使い魔の特殊攻撃の効果がなかったのは何故なのか。
ある推測が七海の頭に過った。
「……奈緒」
声が届かないのも構わず、七海は奈緒の肩をつかむと慌てた様子で奈緒が振り向いた。目を見開き呼吸が荒く深呼吸を何度も繰り返している。内心の動揺を抑えつけようとしているのがありありと伝わってくるようだった。
いくぞ。
口の動きだけでその言葉を告げると、奈緒は一層、目を見開き、正気を疑うといった表情を浮かべたが、まっすぐに瞳を見つめる七海を見て、奈緒は口を硬く結び力強く頷いた。真意が伝わったかはわからない。だが、自分を信じてくれたという意思が充分に伝わってくる。
推測でしかないが七海は確信していた。
このピンチをチャンスとしなければ。
七海は女生徒の周りにバリアを張ると使い魔に目を見据え、届いたかどうかも確認せずにアルとシオンの名を呼んだ。
「しっかり、ついてこいよな!」
横目でアルとシオンが身振り手振り使いながら、何かを訴えていたがそれも無視した。七海が翼を広げ、魔眼を発動させるとともに全魔力を集中させると、奈緒も七海に倣い、翼を広げて横に並ぶ。それを見たアルとシオンは泡を食った様子で二人の肩に乗ってくる。お互いの目が合い、飛翔したのがほぼ同時だった。
自分に向かってくる七海と奈緒に気がつくと、使い魔は照準を定めるようにして衝撃波を放った。二人は土砂を巻き上げながら迫る衝撃波をかわしながら、使い魔に向かって猛進した。びりびりと凄まじい圧力を感じたが、あの耳をつんざくような金属音は聞こえてこない。
使い魔に接近すると、使い魔は弓を刀代わりにして振りかざし、奈緒に向かって上段から撃ちおろした。空気をも切り裂くような鋭く重い一撃だったが、割って入った七海が弾き返し、その隙に奈緒が使い魔の右肩を狙ってスネイクブレイドを放った。でかい図体に似合わず、柔らかな動きで身をひねると、わずかにダメージを与えた程度で避けられてしまい、続けて正面から斬りつけてきた七海の攻撃もスウェーでかわしてしまった。
たたらを踏むような形で、刃をかわされた七海は正面がガラ空きとなる。
「……ただで転ぶかよ!」
七海は刃をふった勢いそのままに身体を回転させ、振り向きざまに柄から離した右手で印を素早く結んだ。
「〝ラストライド〟!」
炎撃魔法の名を叫ぶと、右手に紅い光が生まれ、光の塊は凄まじい量の炎の柱が使い魔を襲った。七海の必殺魔法ではあったが、力が制限された状態では与えるダメージもさほど期待できない。足止め程度にすぎないとわかっていたが、それは七海が次の動きを既に予測していたからだった。呪文の反動で弾き飛ばされるように七海が使い魔からしりぞくと、七海の背中に踏まれるような感触があった。
七海が予想した通り、それは七海の背を踏み台代わりに飛び越えて行った奈緒で、視線の先にはスネイクブレイドを使って印を結び、〝アトミックバスター〟と呼ばれる隕石魔法を放つ姿が映っていた。魔法陣から現れた巨大隕石を正面から受け、今度は使い魔が数百メートルほど吹き飛ばされていったが、仕留めるといえるほどのダメージを負っているようには見えず、呻き声をあげながらも立ち上がっている。
――なら、直接攻撃で叩き潰すか、刻印を削るしかない。
体勢を立て直し七海は地面に降り立つと翼のエネルギーを放出させ、七海は地を縫うようにして再び使い魔に向かって直進した。真横に奈緒が並ぶ。
奈緒と目が合い、使い魔を顎で示すと小さな口を素早く動かした。だが、そのひとつひとつははっきりとした文字となって七海に伝わってくる。
〝コ・ク・イ・ン〟。
その四文字が何を示しているのか、七海は奈緒のわずかな口の動きだけですぐに察することができた。
使い魔の命の源となる魔法の刻印。
それを奈緒が見つけた。
七海はうなずくと王家の杖をつかんだその手に力を込め直し、速度を増した。
(これでケリをつけてやる……!)
奈緒が使い魔を動かしている刻印を発見した以上、自分が何をすべきかわかっていた。
再び、突撃を仕掛けて来た七海に、待ちうけるかのようにして使い魔が滑らかに弦を鳴らし始める。紫色の波動が使い魔の周囲から放たれるのが魔眼を通して見えたが、その波をまともに浴びても先ほどのような感情が湧いてこない。
――やはり、そうか。
突進しながら七海は考える。
使い魔の特殊な音波は人間の聴覚系の器官を刺激し、一種の催眠術のように感情を強制的にコントロールしてしまう効果があるのだろう。人の身体を持たないアルとシオンには当然、聴覚もない。何故、魂の存在である彼らに通用しないのかまではわからなかったが、七海にはどうでもいい。
聴覚の回復を待つよりも、それを逆手にとり、使い魔の特殊攻撃を無効化させることが今の七海と奈緒には重要だった。
効果がないと覚った使い魔は奇声をあげ、衝撃波を次々と乱れ撃つ。
「おせえんだよ!」
焦りのあまりに奏でた衝撃波はどれも威力や速度がそれほどでもなく、七海と奈緒は軽やかな動きでかわし続け、そのまま前に突き進んでいく。
二人は間合いを詰めると、使い魔が手にした弓が上から叩き伏せるように襲い掛かって来た。速い攻撃だったが、七海は横にかわして懐に踏み込み、再び使い魔の右足を深々と斬ると、使い魔は体勢を崩して突っ伏すような姿勢で倒れ込んだ。
苦痛で歪んだ咆哮をあげる使い魔が上体を起すと、目の前には空間転移によって移動を済ませていた奈緒が静かに佇んでいる。予想もしない位置に奈緒が現れたことに驚いたのか、使い魔の動きが固まった。狭いエフ字孔の隙間を縫って刻印を削るには、相手の動きを止めなければならず、それは自分の役割だと七海は任じていた。
奈緒は狙いを定めてスネイクブレイドをしならせると、使い魔の右腕側にあるヴァイオリンの狭いエフ字孔に向かって刃を奔らせた。刃はらせん状に孔へと向かい、蛇が巣穴に潜り込むかのように身をくねらせて侵入していった。
そして刃の先端が刻印に到達した瞬間、使い魔の身体は真っ白な灰と化していた。
※ ※ ※
「……それでさあ、カエデちゃんが可愛い声で歌い出してさあ。玉を転がすつうの、あれ」
片耳にイヤホンを装着した坪井が幸福感に満ちた顔で窓の外を眺めていた。眼下の校庭では昼休みのひとときを過ごす生徒たちの姿があった。時々、笑い声が教室まで響いてくる。
「小倉さんはともかくとしてさ、お前も軽音楽部からの誘い断らなくても良かったのに。文化祭のアレ、評判良かったんだろ?」
「まあ、そうなんだけどさ。イマサラつう感じがするし、それに……」
「それに?」
「部活で忙しくなったら、カエデちゃんに会える機会が少なくなるじゃん!」
「お前な……」
七海は呆れて、溜息を吐き、坪井に倣って窓の外を眺めた。
場つなぎとして、七海が思いつきで提案した坪井と桜の即席コンビは無事成功した。
桜の歌声とピアノの腕前は以前から承知していたが、法螺だと思っていた坪井のギターは意外な腕前を披露し、かつ思わぬ美声で彼らの歌は観客を沸かせていた。女生徒を連れた七海と奈緒が体育館に戻った時には、観客は総立ちでアンコールまで起こっていたのだ。
文化祭後、軽音楽部や他のバンドから坪井にメンバーの誘いがあったのだが、それを坪井は全て断っている。
「小倉さんもお前の曲に感動したて言ってただろ。それならバンドでカッコイイとこ見せれば良いのに」
「それじゃダメダメ。ダメよ、ダメダメ」
チッチと舌を鳴らして人指し指を立てて振ってみせた。
「カエデちゃんが褒めてくれたって、彼女、本当は演歌が好きなんだからさ。バンドなんて軽薄なもんじゃ、あの子のハートなんか掴めないっての。大事なのは日本人の心、てやつ?」
「……」
「意外だよなあ、演歌女子なんて。……泣いて甘えるゥ~、あなたがいぃたらあ~」
イヤホンから曲が流れたのだろう、会話の途中で坪井は藤あやこの〝こころ酒〟を口ずさみ始めた。
それほどの声量でもなかったのだが、近くで雑談していた女子たちが坪井の歌声に気が点くと、坪井を道端に落ちている雑巾でも見るかのような目を向けて離れて行く。
七海は知っている。
離れて行った女の子たちは文化祭後、坪井を「かっこよかったよね」と好意を持った眼で話していた女の子たちだ。何の活動もせず魔法が解けた今となっては、好意の反動か、失望に満ちた眼差しに変わっている。
一カ月に満たない期間でギターの技術を習得し、人を魅了するほどの歌声を持ちながら、坪井は自分の才能に気がつかず、相変わらず「何もかもが軽い」という評価のまま、冴えない学園生活を過ごしている。
――人のことは言えねえけどよ。
七海はパートナーの奈緒を思い出している。文化祭での戦闘時に額を重ね合わせた仕草が気に入ったらしく、屋上に来るたびに「おでこ、ごっつんこしようよ」と言ってくる。
あまりにしつこいので一度は仕方なく応じたものの、そのままキスをしてきたので以来、屋上へ行くのを躊躇するようになっていた。昨日、帰宅した時も家にいて何故来ないのかと詰め寄り七海が返答する前に「絶対来てよね」と口を尖らせて帰っていったから、今日も屋上で待っているのだろう。
そんな奈緒から積極的にアプローチされながらも、未練たらしく幼馴染に気を引かれている自分の情けなさを七海はわかってはいる。
しかし、ロクに話もできない女の子のために、明らかに無駄な日々を費やしている男が目の前にいると思うと、自分のことを棚に上げておいても、坪井が苛立たしくも哀れでしかたなかった。
終




