第3話:「毒の茶会と、黒く染まる救済」
光の神々の加護を謳う王都において、ローゼンバーグ公爵家の別邸は、ため息が出るほどに豪奢で、そして吐き気がするほどに淀んでいた。
「さあ、ルナ様。本日の午後の紅茶でございます。南方の特別特区から取り寄せた、最高級の茶葉を使用しております」
白磁のティーカップに琥珀色の液体が注がれる。
うやうやしく頭を下げる初老の男は、この別邸を仕切る筆頭執事のクラウスだ。
彼の顔には非の打ち所がない完璧な笑みが張り付いているが、その細められた眼の奥には、ルナに対する明確な『侮蔑』と『嘲笑』が隠しきれずに淀んでいた。
「……ありがとう、クラウス」
ルナは感情の抜け落ちた声で応え、力なくティーカップを手に取った。
最近のルナは、慢性的な魔力低下と体調不良に悩まされていた。透き通るような白い肌は不健康なまでに青ざめ、本来なら膨大であるはずの魔力も、今はろうそくの火のようにか細い。
「ところで、そちらの……薄汚れた野良犬は、いつまでそこに立たせておくおつもりですか? 格式高き別邸の空気が、スラムの泥の臭いで穢れてしまいますな」
クラウスが、ルナの背後に無表情で控える十歳の少年――ノアを一瞥して、わざとらしく鼻を覆った。
新入りの従者としてノアを連れ込んだルナに対する、遠回しな、しかし明確な嫌がらせだった。
ルナは言い返さない。ただ、わずかに伏し目がちになり、冷めた紅茶に口をつけた。
彼女は気づいている。
この別邸の人間が、すべて自分を憎む『継母』の息がかかった監視者であることに。
そして、自分の体調不良がただの病ではないことにも。
(……どうせ、誰も助けてはくれない)
ルナの心は、氷のように冷たく麻痺していた。
抵抗すれば、さらに陰湿な報復が待っている。ならばいっそ、このまま緩やかに衰弱して死んでいく方が、どれほど楽だろうか。
自分が傷つくことにすら鈍感になってしまった彼女は、絶望という名の猛毒を、ただ静かに飲み込み続けていたのだ。
だが、ルナの背後に立つノアは違った。
ノアの瞳は、まるで深海の底のように一切の感情を映していなかった。しかし、その胸の奥底では、凍てつくような『絶対零度の怒り』が静かに、そして激しく渦を巻いていた。
(……あの男の目。五年前、俺の両親をゴミのように見下ろした奴らと、全く同じ目だ)
権力を笠に着て、抵抗できない弱者を嬲り、緩やかな死へと追いやる。
心を殺して諦めているルナの背中が、かつて全てを奪われ、雨の路地裏で泥水をすすっていた五歳の自分自身と重なった。
ノアは無表情のまま、ルナが飲み終えたティーカップを下げるためにテーブルへと歩み寄った。
その瞬間、誰にも気づかれないように、指先からドス黒い魔力をティーカップの縁へと流し込む。
【冥界神の捕食】。
視界が反転し、ノアの脳内に『ノイズ混じりの映像』が流れ込んでくる。
それは、クラウスが厨房でティーカップを用意している光景だった。
クラウスは、空のティーカップの内側に『透明な魔力の釉薬』を丁寧に塗り込んでいた。
その釉薬は、高温の熱湯――つまり熱い紅茶が注がれた瞬間にだけ化学反応を起こし、無味無臭の『遅効性の毒』へと変化する特殊な暗殺用の魔道具だった。
水や冷たい飲み物では反応しない。だからこそ、医者が調べても毒の痕跡は一切出なかったのだ。
『……ふん。このまま少しずつ魔力を枯渇させて、惨めに狂い死ねばいい。この出来損ないの呪われた令嬢め』
現場の魔力に残されていたクラウスの『悪意(思考)』を喰らい、ノアの中で、最後のパズルがカチリとはまった。
完璧な暗殺のロジック。
そして、救いようのないクズの心理。
「……おい、執事」
静寂に包まれたサロンに、低く、冷たい少年の声が響いた。
クラウスが眉をひそめ、不快そうにノアを睨みつける。
「なんだ、野良犬。身の程を弁え――」
「そのティーカップに塗った毒、なかなか手が込んでるな。熱に反応して遅効性の毒を生み出す魔力釉薬なんて、お前みたいな三流の執事に用意できる代物じゃない。本邸にいる継母の入れ知恵か?」
ピタリ、と。
クラウスの動きが止まり、その顔からスッと血の気が引いた。
「な……何を狂ったことを言っている! スラムのゴミが、ルナ様のお茶の時間を邪魔するな!」
「俺の目は誤魔化せない。お前が厨房で小細工をしている時の魔力の匂い、全部『喰って』視せてもらった」
ノアがティーカップを指先で弾くと、隠されていた魔力釉薬が黒い靄となって空中に浮かび上がった。
動かぬ証拠を突きつけられ、クラウスの顔が屈辱と焦燥で醜く歪む。
「……ええい、黙れ黙れ! どこまで知っているかは知らんが、たかが十歳のガキと、実権のない操り人形の小娘が! 誰かある! この狂犬を不敬罪で斬り捨てろ!」
クラウスが叫ぶと同時に、サロンの扉が乱暴に開き、完全武装した三人の私兵がなだれ込んできた。
ルナの顔に絶望が走る。
結局、真実を暴いたところで、暴力の前には無力なのだ。彼女はぎゅっと目を閉じ、理不尽な死の気配に身をすくませた。
だが、ノアは一歩も退かなかった。
「……斬り捨てる? お前らが、俺をか?」
私兵の一人が、容赦なく大剣をノアの頭上へと振り下ろす。
しかし、その剣がノアに届くことはなかった。
パキィィィンッ!!
甲高い音と共に、私兵の大剣が空中で『氷漬け』になり、粉々に砕け散ったのだ。
「なっ……!?」
驚愕する私兵たちの隙を、ノアは逃さない。
昨日、プロの暗殺者から喰らい尽くし、己の血肉へと変えた『強靭な生命力と筋力』。
十歳の小柄な身体が、物理法則を無視したかのような爆発的な速度で宙を舞った。
ノアは無造作に私兵の顔面を掴むと、そのまま大理石の床へと脳天から叩きつけた。
床がクレーターのように陥没し、私兵が白目を剥いて沈黙する。
残る二人が魔法を放とうとするよりも早く、ノアは奪った『氷の魔法』を床に這わせ、彼らの両足を絶対零度で床に縫い留め、手刀で容赦なくその首を刈り取った。
時間にして、わずか数秒。
圧倒的で、一方的すぎる蹂躙。
「ひっ……あ……ば、化け物……っ!」
腰を抜かし、無様に床を這いずりながら後ずさるクラウス。
先ほどまでの慇懃無礼な態度と絶対的な優越感は完全に消え失せ、残っているのは、理解不能な暴力に対する純粋な恐怖だけだった。
ノアは無表情のまま、ゆっくりとクラウスに近づいていく。
そして、逃げようとするクラウスの首根っこを掴み、軽々と宙に持ち上げた。
「がはっ……!? ぐ、ゆる……許して……ルナ様、お助けを……っ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に命乞いをするクラウス。
だが、ノアの瞳に一切の慈悲はない。
ノアはもう片方の手で、ティーポットに入っていた熱湯に近い紅茶を、新しいティーカップに波々と注いだ。
もちろん、クラウスが毒の釉薬を仕込んでいたカップだ。熱に反応し、致死量の毒が急速に生成されていく。
「そんなにこの紅茶が好きなら」
ノアはクラウスの口を強引にこじ開けた。
「残さず、全部飲めよ」
「あぶっ、ぐがっ!? ごぼぉぉぉっ!!」
煮えたぎる熱さと、遅効性の猛毒が混ざった液体が、クラウスの喉の奥へと強制的に流し込まれていく。
クラウスは白目を剥いて痙攣し、床に転がって自身の喉を掻き毟りながら、醜いカエルのような呻き声を上げた。
その惨状を、ルナは特等席のソファから見下ろしていた。
これまで自分を見下し、陰湿に嬲り、緩やかな死へと追いやろうとしてきた男が、今、自分より小さな少年の足元で、鼻水を垂らしながら惨めに命乞いをしている。
普通なら目を背けたくなるような残酷な光景。
しかし、ルナの胸の奥底で、氷のように固まっていた何かが『ドクン』と熱い音を立てて溶け出した。
(……ああ。なんて……なんて美しいのかしら)
恐怖ではない。同情でもない。
それは、心を殺されていた彼女の魂に流れ込んできた、どす黒く、しかし圧倒的な『救済』だった。
「……すごいわ、ノア。あなた、本当に最高よ」
床で泡を吹いて気絶したクラウスを見下ろしながら、ルナは頬を紅潮させ、うっとりとした、狂おしいほどに美しい微笑みを浮かべた。
「俺に手を出したこと、後悔させてやる」
冷たく言い放つノアと、その隣で妖艶に微笑むルナ。
憎悪と絶望を共有する底辺の少年と悪逆令嬢は、こうして貴族社会の表舞台において、決して引き返せない血塗られた反逆の第一歩を踏み出したのだった。
お読みいただきありがとうございます!
3話目にして、ようやくルナと本格的に手を組むことができました。
前半の執事のヘイトをどうやって晴らそうかと考えた結果、ノア君には容赦なくいってもらいました(執事のクラウス、書いていて結構楽しかったです)。
ここから二人の反撃が本格的に始まっていきます。
もし「スッキリした!」「ノア容赦ないな」「二人のコンビが好き」など、少しでも楽しんでいただけましたら、
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