第105話 王都の降伏条約と、冷たき新秩序
オーベルニュ平原の穀倉地帯が白霜に呑まれ、南部貴族連合が天文学的な投機負債によって一夜にして破産してから、わずか五日後のことであった。
王都ルミナスは、完全な麻痺状態に陥っていた。
ローゼンバーグ商会がオーベルニュ平原の全物流拠点と穀物サイロを競売で一括掌握したことにより、王都への食糧供給権は百分の一ミリの狂いもなくノア・アスターの掌中へと収まっていた。
さらに、南部貴族を支援していた王都貴族院の主戦派重鎮たちも、投機への巨額出資と闇金融の連帯保証が仇となり、次々と資産差し押さえの令状を突きつけられて失脚。
王宮に残されたのは、老衰し切った国王エドワード六世と、戦意を完全に喪失した官僚貴族たちだけであった。
その王宮大広間へ、北方より一通の【最終協定案】が届けられた。
届けたのは使節団ではない。
深紅のドレスを優雅に翻すローゼンバーグ商会会頭、ルナ・ローゼンバーグただ一人であった。
「――これが、アスター侯爵閣下からの最終通告よ」
円卓の中央に投げ出されたのは、純白の羊皮紙に青白い氷の封蝋が施された『王都・アスター領新秩序協定書』。
玉座のエドワード六世は、震える老躯を支えながら、かすれた声で問いかけた。
「……内容は」
「至って寛大で、合理的なものよ」
ルナは扇子の先で協定書をツンと弾いた。
「第一に、アスター領に対する王国政府の徴税権、徴兵権、ならびに司法権の一切を永久に放棄し、完全な独立自治領国として承認すること。
第二に、オーベルニュ平原から王都に至る主要街道の関税を全廃し、全物流管理権をローゼンバーグ商会へ恒久委託すること。
そして第三に……旧クロムウェル派および南部貴族連合に連座した貴族院議員二十八名の全財産を没収し、追放処分とすることよ」
「な、なんと傲慢な……! それでは王家の主権が半分奪われたも同然ではないか!」
残余の老貴族が悲鳴を上げたが、ルナの冷徹な一瞥によって即座に喉を詰まらせた。
「拒絶なさるなら、それでも結構よ。……協定書に署名がなされない場合、今夕六時をもって、王都への全小麦および極低温冷却触媒の搬入を無期限停止いたします。明日の朝、パンを求めて暴徒と化した市民十万人が王宮の門を破った時、あなた方を守る近衛騎士が何人残っているかしらね?」
もはや交渉の余地など、最初から存在しなかった。
エドワード六世は重い溜息とともに羽ペンを取り、協定書の末尾へと署名と王家の玉璽を捺印した。
「……認めよう。アスター卿の要求を、すべて受け入れる」
王権の完全なる屈服。
かつて辺境の生贄として追放された一族の末裔が、血を流すこともなく王国の心臓を完全に掌握した瞬間であった。
◇
一方、はるか東方――雪煙の舞う神聖帝国の帝都ヴィルヘルム。
重厚な黒鉄の尖塔が立ち並ぶ帝国中枢では、地下第三工廠の完全破壊と【始原の氷核】強奪から始まった大粛清の嵐が、いまだ吹き荒れていた。
だが、その血みどろの内紛を冷淡に見下ろす、一握りの影が存在していた。
地下数百メートルの暗黒の回廊。
かつて解体された第三工廠よりもさらに深層に位置する、帝室直属の極秘実験場『第零研究所』。
「……レオポルトの二万五千を呑み込んだ局所泥流、地下第三工廠の瞬時過冷却脆化、そして大気ジェット気流の偏向干渉。すべて同一の魔導物理パターンだ」
白銀の長髪をなびかせ、黒い軍服を隙なく着こなした長身の偉丈夫が、冷酷な眼差しで空中に投影された魔導解析スクリーンを見つめていた。
帝国軍最高幹部の一角にして、帝室直属魔導軍団長――ハインリヒ・フォン・ファルケンハイン上将。
レオポルトのような直情の猛将とは異なり、帝国最高の頭脳と称される冷徹な戦略家であった。
「貴族院の無能どもは身内のクーデターだと騒ぎ立てて同士討ちを続けているが、真実は違う。……我が帝国から古代遺産【始原の氷核】を奪還し、その力を完全に掌握した怪物が、北方アスターの地に覚醒したのだ」
ハインリヒの背後で、三人の異能の副官たちが膝をついた。
いずれも通常軍の階級を超越した、古代魔導兵装の適合者たち。
「上将閣下、いかがなさいますか。北部軍は再編に最低二年の猶予を要しますが」
「正面からの進軍など愚者のすることだ。怪物を仕留めるには、より鋭利な毒と、逃げ場のない檻を用意せねばならん」
ハインリヒの口元に、冷酷な愉悦の笑みが刻まれた。
「アスターの怪物が築いた『完全自給の絶対領国』……その内部に巣食う最も脆い変数(急所)を突く。――【死相の猟犬】を放て。王国の王都謀略を嘲笑っているノア・アスターの喉元に、帝国の真の暗殺術を叩き込んでやる」
暗黒の研究所から、三つの不気味な黒い影が、音もなく北方の空へと放たれた。
◇
アスター侯爵公館、最上階執務室。
夜の帳が降りた静寂の中、ノアは王都から届いたルナの署名済み協定書を一瞥し、書類棚へと収めさせた。
「ノア様、王都の貴族院二十八名の財産没収が始まりました。ローゼンバーグ商会より、接収資産の一部として金貨三万枚がアスター領の手元金庫へ送金されます」
リアが温かな紅茶を差し出しながら、静かに報告する。
「うむ。これで領内の手元金庫は七万九千八百枚に達する。……防衛結界の多重化と、零氷硬化鋼による新鋭魔導砲の配備を前倒しで進めろ」
「かしこまりました。……ですが、ノア様」
リアが翡翠色の瞳をわずかに細め、北東の空をじっと見つめた。
その卓越した暗殺者としての本能が、大気のわずかな揺らぎを捉えていた。
「風が……冷たすぎます。自然の雪風ではない、乾いた殺意の匂いが混じっています」
「気付いたか」
ノアは静かに立ち上がり、窓の外の漆黒の山嶺を見据えた。
胸元のアスター・コア第5段階が、チリリと微かな共鳴音を立てる。
「帝都で同士討ちに明け暮れていたはずの帝国軍部……その中で、唯一数式の真実に気付いた者が動いたな。帝室直属の特務部隊が、この氷壁へ向けて接近中だ」
ノアの瞳の奥で、蒼氷の幾何学陣が静かに回転を速めた。
王都を屈服させた復讐者に対し、帝国の真なる闇が牙を剥く。
知略と冷気、そして暗殺術が交錯する、次なる死闘の幕が静かに上がろうとしていた。
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