第1話:異空間の玉座にて
異空間――魔王城。
そこは地球でもアルティリアでもない。
二つの世界が擦れ合う境界に生まれた、歪んだ領域だった。
空気は重く、色彩は薄れ、音は遅れて響く。
まるで世界そのものが壊れかけているような、不安定な空間。
崩れた城壁が宙に浮かび、黒い霧が床のように揺れ、時間すら脈動するように歪んでいる。
その中心に――
朽ちた玉座があった。
玉座に座る魔王ヴォルネクサスの姿は、黒い霧が辛うじて人型を保っているだけの不完全体。
かつて世界を震わせた威容は、今は影の残滓にすぎない。
「……まだ……足りぬ……」
魔王の声が空間を震わせた。
声が響くたび、周囲の霧が波紋のように揺れる。
「忌々しい女神め……転移中に介入してくるとは……貴様が我を弾き飛ばしたせいで……異界に落ちた際の魔力流出が……大きすぎる……」
魔王は敗北を認めていない。
あくまで――
女神の妨害で計画が狂っただけだと考えている。
本来なら、事前に用意していた予備核へ転移した後そこから復活し、再び世界を侵略するはずだった。
だが女神レティシアの干渉により、魔王は異界――
地球へと弾き飛ばされた。
落下地点は地球の地脈の源。
後に《狭山ダンジョン》と呼ばれる場所である。
落下の衝撃で魔力が暴走し、魔王の欠片が世界中へ飛び散った。
それらがダンジョンの種となり、各地にダンジョンが発生した。
魔王自身は魔力を大きく失い、肉体を維持するために異空間へ退避するしかなかった。
「この世界の地脈は……豊かであるというのに……今の我では……直接吸うことができぬ……ゆえに……この狭間で器を保つしかない……」
魔王の胸奥で、黒い光が脈打つ。
それは魔王の核の名残。
しかし今は弱々しく、かつての力の影もない。
「……む……? 異界に……魔力の波動……?」
微弱な存在魔力が、異空間の魔王城にまで届いた。
細く、しかし鋭い波動。
魔王の核を刺激する。
「この波動……懐かしい……これは――」
魔王の目が赤く光る。
「勇者レオンの魔力……!」
怒りが空間を震わせた。
「忌々しい勇者レオンめ……なぜ異界で動いておる……我の気配を追ったか……それとも女神の差し金か……」
魔王の声には、怒りと焦りが滲んでいた。
今の不完全な状態では、勇者と戦うどころか、側近すら満足に呼び出せない。
「……今の我に呼べるのは……二人の側近のうち……王影シャドーのみ……吸血姫メフィストを呼ぶには……魔力が足りぬ……」
魔王は手をかざし、黒い魔法陣を展開した。
魔法陣は歪み、軋み、空間を削るように広がっていく。
「来い……我が影……シャドー……!」
黒い霧が渦を巻き、人影がゆっくりと形を成す。
有象無象の魔物とは比べ物にならない濃度の影。
空間そのものが拒絶するように歪む。
シャドーが跪いた。
「……魔王様。お呼びに応じ、参上いたしました」
その声は低く、冷たく、闇そのものが言葉を発しているようだった。
魔王の声が低く響く。
「シャドー……我はまだ……不完全……メフィストを呼ぶ力も……ない……」
「承知しております。魔王様の魔力は、まだ器に戻りきっていない」
「……ゆえに……お前に命じる……」
魔王の赤い瞳が細められる。
「異界にある世界中のダンジョンから、地脈エネルギーを回収せよ。勇者レオンが動く前に……我が復活を早めるのだ……!」
「御意」
シャドーの影が揺らぎ、その一部が黒い霧となって分離する。
「……まずは我が使い魔、影の欠片を送り込みましょう。この世界の地脈に触れ、道を開くために」
霧は細かく砕け、影の粒となって異界へと落ちていく。
「行け……我が分身よ。地脈を汚染し、魔王様の復活の礎となれ」
影の粒は現実世界へと滲み出し――
その一つが、狭山の雑木林で目を覚ますことになる。
「私は地脈の源に向かうとしよう」
シャドーの姿は霧となり、玉座の間から消えた。
魔王はゆっくりと立ち上がる。
その動きだけで空間が軋み、霧が震える。
「レオン……貴様が動くというのなら……我も応じよう……」
魔王の体が黒く脈打つ。
その脈動は空間そのものを侵食するようだった。
黒い霧が玉座の周囲で渦を巻き、異空間の壁が低く唸る。
「いずれ……貴様の存在魔力も……我がものとしてやる……フフ……フハハハハ……!」
魔王の笑い声が響くたび、空間がひび割れ、黒い稲妻が走る。
その威圧感は、かつて世界を滅ぼしかけた魔王の片鱗を確かに示していた。
だが――
その笑いの裏には、焦りと苛立ちが混ざっていた。
不完全な肉体、欠けた魔力、そして勇者レオンの気配を感じたという誤認。
魔王はまだ知らない。
その、感じた魔力は――
レオンではなく、朔弥のものだということを。
玉座の間に漂う黒い霧が、魔王の脈動に合わせて波打つ。
(勇者レオン……貴様が異界で動くというのなら……我が復活も早めねばならぬ……)
魔王の赤い瞳が細められる。
その視線は、異界のどこかにいる敵を睨みつけていた。
しかしその敵は、魔王が思う勇者ではない。
狭山に立つひとりの少年――
朔弥の存在が、静かに世界の均衡を揺らし始めていた。




