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第4話:魔王の影、生徒に取り憑く

 翌日。

 朝から胸の奥が重かった。

 昨日見た黒い影が、どうしても頭から離れない。

 胸の奥に沈んだ石のような違和感は、授業中も、昼休みも、ずっと居座り続けていた。


(……嫌な感じがする……)


 理由はわからない。

 だが、何かが近づいている――

 そんな直感だけが、妙に鮮明だった。


 今日は珍しく、優斗は大会前のミーティング。

 美咲は委員会の仕事で別行動。

 朔弥は完全にひとりだった。


 夕暮れの廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。

 窓から差し込む橙色の光が、床に長い影を落としている。

 その影が、どこか不気味に揺れて見えた。


 その時――


「やめろ!! 離れろ!!」


 屋上の方から、耳をつんざくような悲鳴が響いた。


「っ……!」


 朔弥は反射的に駆け出していた。

 胸の奥の違和感が、一気に鋭い痛みに変わる。


 階段を駆け上がり、屋上の扉を開けた瞬間――

 冷たい風とともに、異様な光景が目に飛び込んできた。


 男子生徒が壁にもたれ、肩を震わせていた。

 その体から――

 黒い影が、じわりと滲み出ている。


「……昨日の……!」


 影は生徒の背中に張り付き、寄生しているようだった。

 生徒の目は焦点が合わず、口元からは低い呻き声が漏れている。


「ア……ァ……」


 影に取り憑かれた生徒が、ぎこちない動きで朔弥に向かってくる。

 その足取りは人間のものではなく、操り人形のように。


「くそっ……! 優斗も美咲もいねぇ……レオンも……いねぇ……!」


 慌ててスマホを開くが、レオンのアイコンは灰色のまま。

 通信が繋がらない。


「……マジかよ……こんな時に……!」


 影の腕が、刃物のように鋭く伸びた。

 空気を裂く音が、耳の奥で嫌な残響を残す。


 ズバッ!


「っ……!」


 熱い痛みが肩を走り、制服が裂けた。

 遅れて、じわりと血が滲み出す。

 鉄の匂いが鼻を刺し、視界がぐらりと揺れた。


(……痛ぇ……! これ……本気で殺しにきてる……!)


 影は形を定めないまま、ぬるりと揺れ動く。

 その動きは人間のものではなく、悪意だけが形を持ったような冷たさがあった。


「火魔法は……使えねぇ……あいつを巻き込む……!」


 声に出した瞬間、喉が震えた。

 恐怖で声が裏返りそうになるのを、必死に押し殺す。


 影が再び襲いかかる。

 その速度は、先ほどよりも明らかに速い。

 それは朔弥の弱り具合を見透かしているかのようだった。


(くそっ……! 俺ひとりじゃ……無理だろ……!)


 胸の奥がズキズキと痛む。

 昨日から続く、あの嫌な気配が、今はまるで心臓の裏側を爪で引っかくように蠢いている。


(……なんなんだよ……なんで俺だけ……!)


 影の爪が頬をかすめた。

 細い切り傷から血が飛び散り、夕陽の光を受けて赤く輝いた。


 その瞬間、朔弥は悟った。

 ――影は殺意を持っている。


 風が止まり、世界が一瞬だけ静止したように感じた。

 屋上の空気は冷たく、重く、影の存在が空間そのものを歪めているようだった。


(……死ぬ……このままじゃ……本当に……!)


 影の輪郭が、夕陽の中で不気味に揺れた。

 その黒は、ただの影ではない。

 光を拒絶し、存在そのものを侵食するような黒だった。


 そして――

 影が腕を振り上げた。


 その動きは、まるで時間がゆっくりになったかのように見えた。

 黒い腕が空気を裂き、冷たい風が頬を撫でる。

 死が、ほんの数センチ先まで迫っている。


「……嫌だ……まだ……死ねねぇ……!」


 朔弥の声は震えていた。

 恐怖で喉が締め付けられ、息がうまく吸えない。

 それでも――

 その言葉だけは、胸の奥から絞り出された。


 その瞬間――


 バチッ!!


 胸の奥で、何かが弾けた。

 心臓の裏側で火花が散ったような感覚。

 熱ではない。

 冷たい電流が、血管の中を逆流するように走り抜ける。


「……っ!? なんだ……これ……!」


 手のひらが勝手に震えた。

 そこに、青白い光が集まり始める。


 火の魔力とはまったく違う。

 熱ではなく、鋭さ。

 温かさではなく、刺すような冷気。


 ――雷。


 それは怒りでも恐怖でもない。

 もっと原始的な、世界の根源に近い力。


 影が甲高い声で叫んだ。


「ギィィィィ!!」


 その叫びは、雷の気配を恐れているようにも聞こえた。


「……来るなぁぁぁぁ!!」


 朔弥の叫びと同時に――


 バチバチバチッ!!


 青白い雷が手のひらから溢れ出した。

 空気が震え、髪が逆立つ。

 雷光が屋上の床を照らし、影の輪郭が歪む。


 《雷光ライトニング》――


「……雷……!? 俺……雷も使えんのかよ……!」


 驚きよりも先に、体が動いた。

 影が飛びかかる。


「うおおおおお!!」


 朔弥は《雷光ライトニング》を生徒の胸元へ押し当てた。


 バチバチバチッ!!


 雷が生徒の体の表面を通り抜け、影だけを焼き払う。

 影が悲鳴を上げ、生徒の背中から剥がれ落ちた。

 黒い霧が苦しむように揺らめく。


「今だ……!」


 《雷槍サンダースピア》――

 雷光が槍の形へと変わる。

 雷が形を持つ瞬間、空気が一段と冷たくなった。


「これでどうだ!!」


 ズドォォォン!!


 雷槍が影を貫いた。

 衝撃で屋上の床が震え、黒い霧は一瞬で霧散した。


 影は悲鳴を残すことすらできず、空気に溶けるように消えた。


 生徒はその場に崩れ落ちた。

 だが、胸は上下し、呼吸は正常だった。


「……助かった…………っ……!」


 朔弥はその場に膝をつく。

 肩から流れる血が制服を濡らし、雷の余韻で指先が痺れている。


 胸の奥では、まだ何かが脈打っていた。

 雷の残滓ではない。

 もっと深い、もっと暗い――

 昨日から続くあの気配が、確かに蠢いていた。


 ズキッ――!


 鋭い痛みが胸を貫いた。

 呼吸が一瞬止まり、肺が空気を拒む。


「……また……あの気配……!」


 朔弥は震える手でスマホを取り出した。

 指先は血と汗で冷たく、画面をタップするだけで精一杯だった。


 画面が光り、レオンが現れる。


『……朔弥? どうした、その血……!』


 レオンの声は落ち着いているようで、どこか焦りが滲んでいた。


「レオン……! 影が……生徒に取り憑いて……俺……ひとりで……!」


 言葉にすると、恐怖が遅れて押し寄せてきた。

 膝が震え、屋上の床が遠く感じる。


『なに……!? なぜ俺に連絡しなかった!』


「お前がオフラインだったんだよ!!」


 レオンが言葉を詰まらせた。

 その一瞬の沈黙は、ただの驚きではない。

 何かを隠しているような、重い間だった。


「……っ!」


「それより……レオン……また感じたんだ……黒い気配……絶対……魔王の……!」


『気のせいだ』


 その即答が、逆に不自然だった。

 まるで反射的に否定したような硬さがあった。


「またかよ!! 俺、マジで感じてんだって!!」


 レオンは黙り込んだ。

 その沈黙は、否定ではなく――迷い。


 やがて、重い声で言った。


『だが……断言は……できない』


「……え?」


 夕陽がスマホの画面に反射し、レオンの瞳を赤く染める。

 その瞳には、いつもの冷静さとは違う焦りが宿っていた。


『朔弥。おそらくお前の存在魔力量は……俺より多いかもしれない』


「……は?」


 その言葉は、雷槍の衝撃よりも深く胸に刺さった。


 屋上の空気が一瞬で冷え込んだように感じる。

 風の音すら遠のき、世界が静止したかのようだった。


『普通の魔法使いではありえない量を内包している。だからこそ……お前だけが何かを感じている可能性はある』


 レオンの声には、わずかな迷いが滲んでいた。

 勇者としての冷静さではなく――

 仲間を失いたくない者の苦悩に近かった。


(存在魔力……レオンより多い……?)


 朔弥は自分の胸に手を当てた。

 そこには、まだ雷の残滓と、あの黒い気配が混ざり合っている。


 まるで二つの力が、同じ器の中でぶつかり合っているようだった。


『だが――やることは変わらない』


 レオンの瞳が強く光る。


『朔弥。お前には一刻も早く戦える魔法使いになってもらう。優斗は前衛、美咲は回復。そしてお前は魔法攻撃。俺と四人なら――最強のパーティになれる』


「……レオン……」


『だから朔弥。強くなれ。お前が――必要だ』


 朔弥は拳を握りしめた。

 その手はまだ震えていたが、瞳だけは迷いなく前を向いていた。


「……ああ。絶対強くなる」


 その言葉を聞いた瞬間、レオンの表情がわずかに緩んだ。

 だが、それはほんの一瞬。

 すぐにいつもの冷静な顔へ戻る。


 朔弥が画面から離れたのを確認し、レオンはゆっくりとスマホを閉じた。

 カチリ、と小さな音が部屋に響く。


 夕陽が差し込む部屋は静かだった。

 窓から射し込む橙色の光が、レオンの影を長く伸ばしている。

 その影は、どこか疲れたように揺れていた。


(朔弥……お前は希望か……それとも災厄か……)


 その言葉は、誰に向けたものでもなく、自分自身への問いのようだった。


 存在魔力が高すぎる者は、世界を救うか、滅ぼすかのどちらか。

 中間はない。

 それがレオンの世界での絶対の理だった。


(だが――私は信じる。お前が救う側であることを)


 レオンは静かに目を閉じた。

 まぶたの裏に浮かぶのは、必死に戦い、傷だらけになりながらも立ち上がった朔弥の姿。


 彼はまだ弱い。

 だが――折れない。


 その強さを、レオンは誰よりも知っていた。


「……朔弥。お前は……必ず守る」


 その声は、決意というより祈りに近かった。


 だがその背後で――

 誰にも見えない黒い霧が、静かに揺れていた。


 まるでレオンの言葉を嘲笑うように、ゆらり、と形を変えながら。

 その存在に、レオンはまだ気づいていない。

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