第8話:朔弥、修行開始
休日の朝。
家の中には、まだ眠気の残る静けさが漂っていた。
階段を降りると、リビングには柔らかな朝日が差し込み、淡い光が床をやさしく照らしている。
その中心で――
レオンが正座していた。
背筋は一直線。
両膝を揃え、微動だにしない。
まるで修行僧か、武家の師範のような気迫が空気を張りつめさせていた。
「……なんで朝から正座してんの……?」
寝ぼけ声で朔弥が呟くと、レオンはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、冗談の欠片もない戦士の光が宿っている。
「朔弥。今日から修行を始める」
静かな声だった。
だが、その静けさが逆に重い。
「……は?」
朔弥は間の抜けた声を漏らす。
レオンは淡々と続けた。
「君には――戦士としての素質がある」
軽い励ましではない。
事実を告げるような揺るぎない響きがあった。
朔弥は慌てて手を振る。
「いやいやいやいや!! 俺はただの中学生!! バスケ部だけど幽霊部員!! 実質、帰宅部!!」
声が裏返る。
必死の否定とは裏腹に、レオンの表情は微動だにしない。
「だが、君は魔物と戦った。そして……生き残った」
その一言が、朔弥の胸に重く落ちた。
レオンの視線は真っ直ぐで、逃げ場がない。
朔弥は口を開きかけて――
言葉を失う。
火球を放ったときの熱。
胸を締めつけた痛み。
アーマーオークの咆哮。
あの瞬間の恐怖と必死さが、脳裏にちらつく。
「それは……まあ……」
朔弥は視線をそらし、曖昧に答えるしかなかった。
否定したいのに、完全には否定できない。
その矛盾が胸の奥でじわりと広がる。
レオンはその揺らぎを見逃さない。
「朔弥。君は“選ばれた”わけではない。 だが――“選ばれ得る者”だ」
その声音には、戦士としての経験と、仲間を見極めてきた者の重みがあった。
朔弥は息を呑む。
自分の知らない何かが、ゆっくりと動き始めている気がした。
あの時、美咲を守りたかった。
雫を守りたかった。
ただ、それだけだった。
だが、レオンの目には別の可能性が映っている。
レオンは静かに立ち上がる。
その動きは迷いがなく、まるで決意そのものが形になったようだった。
「今日から鍛える」
短い言葉なのに、部屋の空気が一瞬で引き締まる。
「やだ」
朔弥は即答した。
反射的というより、本能的な拒否だった。
「やる」
レオンの声は揺れない。
決定事項を告げるような口調。
「やだ!!」
朔弥は一歩後ずさる。
声が裏返り、完全に追い詰められた小動物のようだ。
「やる」
レオンは淡々と繰り返す。
その静けさが逆に恐ろしい。
「やだああああああ!!」
朔弥の悲鳴が部屋に響く。
レオンはふっと息を吸い、最後の切り札を静かに放った。
「……昨日の君は勇者だった」
その一言は、剣より鋭く朔弥の胸に突き刺さる。
逃げ道を塞ぐような、重くて優しい真実。
「そのセリフずるい!!」
朔弥は頭を抱えた。
否定したいのに、否定しきれない。
先日の自分が確かに誰かを守ったという事実が、じわじわと胸の奥で熱を帯びる。
レオンはその揺らぎを見つめ、静かに微笑んだ。
「だからこそ、鍛える価値がある」
その声は、強制ではなく信頼だった。
―公園―
結局、近所の公園を走ることになった。
朝の空気は本来なら涼しいはずだった。
だが朔弥にとっては――
肺を焼くような地獄そのものだった。
アスファルトを叩く足音が、無情にリズムを刻む。
「朔弥、もっと速く!」
前を走るレオンは、まるで風そのものだった。
汗ひとつ見せず、一定の速度で軽々と進んでいく。
「むりむりむりむり!! レオン速すぎ!! お前絶対人間じゃないだろ!!」
朔弥は息を切らしながら叫ぶ。
肺が悲鳴を上げ、足は鉛のように重い。
「勇者は人間だ」
レオンは淡々と返す。
その余裕が逆に腹立たしい。
「お前の世界の勇者は基準がおかしい!!」
朔弥の抗議は、もはや泣き声に近かった。
ちょうどそのとき、通りすがりの主婦が笑顔で声をかける。
「光野くん、朝から元気ねぇ〜」
「元気じゃないです!!」
朔弥は即答した。
声が裏返り、完全に限界が近い。
呼吸は荒く、視界は揺れ、足の震えはもはや止まらない。
そして――
胸の奥が、チクリと痛んだ。
一瞬だけ、心臓の奥で黒い何かが脈打つ。
――魔王因子の微かな反応。
だがレオンはまだ気づかない。
朔弥自身も、その痛みの意味を理解できずにいた。
ただひとつ確かなのは走るという単純な行為すら、今の朔弥には命懸けだということだった。
レオンは砂利を踏みしめ、ゆっくりと構えを取った。
その動きは流れるようで、無駄が一切ない。
朝の光を受けて立つその姿は、まさに戦士だった。
「次は格闘だ」
低く落ち着いた声が、朔弥の背筋を凍らせる。
「いやいやいやいや!! 俺、殴り合いとか無理!!」
朔弥は両手をぶんぶん振って全力拒否。
声は裏返り、すでに半泣きだ。
レオンは淡々と告げる。
「大丈夫だ。殴らない」
「ほんと!?」
朔弥の顔に一瞬だけ希望が灯る。
「蹴る」
「もっと無理!!」
希望は一秒で砕け散った。
レオンは静かに足を開き、重心を落とす。
その姿勢は美しく、鋭く本物の戦士だけが持つ緊張感をまとっていた。
「では構えろ」
「構えって何!? どうすればいいの!? 俺、バスケ部だぞ!? 殴り合いの知識ゼロ!!」
朔弥は完全にパニック状態。
足は震え、腕は上がらず、呼吸は荒い。
レオンは朔弥の肩の上下を見て、静かに息を吐いた。
「……呼吸が乱れすぎている。このままでは怪我をする」
「そうだよ!! 危険だよ!! やめよう!!」
朔弥は全力で同意する。
レオンは姿勢を正し、いつになく真剣な声で告げた。
「まずは心と呼吸を整える。それが戦士の基礎だ」
その声音には、朔弥を本気で育てようとする指導者の覚悟が宿っていた。
「え、じゃあ……?」
「精神統一だ」
レオンは地面に座り、手で合図する。
「座れ。呼吸を整え、心を無にする」
朔弥は言われるまま座り、ぎこちなく足を組む。
体力はすでに限界。
まぶたは重く、意識はふわふわと浮いていた。
朔弥はそっと目を閉じ――
「……ふぁ……」
小さな欠伸が漏れた。
「……朔弥?」
レオンの声が遠くに聞こえる。
「すぴー……」
完全に落ちた。
「寝るな!!」
レオンの怒号で朔弥は跳ね起きる。
「精神統一って寝るやつじゃないの!? 俺の知ってるアニメでは寝てたぞ!!」
「違う!!」
レオンは即答した。
朔弥は肩を落とし精神統一=睡眠という浅い知識が粉々に砕け散るのを感じた。
レオンは静かに手を差し出した。
「朔弥、手を出せ」
朔弥は手のひらを上に向ける。
「こう?」
「魔力を感じろ。体の奥にある熱……流れ……それを意識するんだ」
レオンの声は深く響く。
朔弥は目を閉じ、集中しようとするが――
腹がきゅるると鳴った。
「……うーん……」
「どうだ?」
「……お腹すいた」
「違う!!」
レオンのツッコミが鋭い。
「魔力とか言われてもわかんねぇよ!! 俺、魔法少女でもないし!!」
「魔法少女とは……?」
「説明すると長い!!」
レオンは深く息を吐く。
(……確かに魔力はある……あるが、未熟だ……)
朔弥の手のひらには、本人が気づかないほど微弱な熱が脈打っていた。
精神統一の訓練が終わる頃には、太陽はすっかり傾き、空は赤く染まり、公園の影が長く伸びていた。
その一角では、朔弥は地面に大の字で倒れ込んでいる。
呼吸は荒く、胸は上下に激しく揺れ、汗が頬を伝って地面に落ちる。
「……死ぬ……今日一日で人生の体力全部使った……」
レオンは腕を組み、静かに言った。
「……朔弥……君は……本当に……」
「本当に……?」
「本当に……体力がない」
「知ってる!!」
朔弥は叫び、咳き込む。
レオンは淡々と続ける。
「だが……素質はある」
「どこに!? 俺のどこに戦士の素質が!?」
朔弥の抗議は力なく地面に吸い込まれる。
レオンは夕焼けを背に、静かに告げた。
「……昨日の君は勇者だった」
「またそれかあああああ!!」
朔弥は頭を抱えて転がる。
だが――
その顔には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
(……美咲を守れるくらいには……強くなりたい……それくらいなら……やってみてもいいか……)
夕焼けの中、
レオンと朔弥の影が並んで長く伸びていく。
その影はまだ頼りなく、まだ細い。
だが――
確かに前へ進んでいる影だった。




