第17話:闇が息づく場所へ
―第45階層:???―
階段を下りきった瞬間、四人の肺が同時にきゅっと縮んだ。
空気が……違う。
冷たさでも湿気でもない。
濁りが、皮膚の内側にまで入り込んでくるような圧として沈み込む。
壁を這う影は液体のようにゆらぎ、天井からは黒い滴が垂れ、床の影は波紋のように脈打っていた。
まるで、この階層そのものが呼吸している様に……。
辺りを見た朔弥の声が震える。
「……な、なんだよ……ここ……」
優斗は目を細め、闇を睨む。
その表情は普段の軽口とは違う、戦士の顔だった。
「真っ暗……いや、暗いってより……黒い。光が……死んでるみたいだ……」
美咲は胸の前で手を握りしめ、足がわずかに震えていた。
「ここ……息が……重い……怖い……」
レオンが一歩前に出た瞬間、背骨の奥に何かが触れたような冷たい感覚が走った。
「ここは──!」
危険を感じ取り、声が自然と荒くなる。
「みんな、一旦上の階へ戻るぞ! 急げ!」
四人はその声に慌てて振り返った。
だが──
降りてきた階段の入口が、影に飲まれるように壁と同化していく。
階段への入り口が目の前で消え、朔弥は驚きの声を上げた。
「えっ……えっ……どういうこと……?」
優斗はその光景に目を見開き、美咲は動揺を隠せないでいた。
「階段が……消えた……」
「なんで……こんな……」
レオンは歯を食いしばり、壁を睨む。
「間に合わなかったか……。ここはまずい。今までとは明らかに違う……強者の気配がする」
その言葉に、3人が息を呑む。
朔弥は壁に触れ、拳で壁を叩いた。
「なんとか……戻れないのか……?」
「無理だ。もう壁と完全に同化している」
朔弥の言葉にレオンは首を振る。
優斗は周囲を見回し、眉をひそめた。
「ていうか……こんなに真っ暗じゃ……戦うにも戦えないぞ……」
美咲の足元から淡い光が広がっている。
聖浄歩護の光膜が、4人の位置だけをかろうじて照らしていた。
だが、その光さえも──
闇に触れた瞬間、じゅ……と音を立てて溶けるように弱まる。
「《光灯》」
レオンが手を掲げると、ふわりと光の球が浮かんだ。
しかし光はすぐに濁りに吸われ、まるで光そのものが腐っていくように弱々しく縮んでいく。
その光を見て朔弥がため息交じりに小さく呟く。
「……無いより……ましか……」
美咲は朔弥の服の裾をそっとつまんでいた。
その手はかすかに震えている。
レオンは深く息を吸い、仲間たちを見渡した。
「みんな……後ろに戻れないなら先へ行くしかない。覚悟を決めろ」
言葉にうなずくと、4人は暗闇の中を歩き出した。
歩くたび、足音が遅れて返ってくる。
半拍……いや、それ以上遅い。
まるで別の誰かの足音が後ろからついてくるようだった。
朔弥が恐る恐る振り返ると、優斗も振り返り眉をひそめた。
「……おい優斗。今、足音……」
「聞こえた……気がした……」
美咲は朔弥の服の裾を掴んだまま唇を噛む。
「誰も……いないのに……」
レオンだけが、前を見据えたまま動かないでいた。
「……みんな、何か……いる」
その声は、勇者である彼ですら震えていた。
前方の闇が、ゆっくりと濁った紫に染まる。
影が二重に揺れ、まるで別の位相で震えているようだった。
朔弥が揺れる影を見て息を呑むと、優斗は刀に手をかけ戦う準備をする。
「なぁ……あれ……なんだ……?」
「魔物……か……?」
美咲は大きく息を吸い、小さく頷いた。
「準備は……できてるよ……」
レオンは影を見据えていたが、急に表情が強張りみんなに声をかけた。
「……っ! みんな構えろ! あれは危険だ!」
勇者の勘が、死の気配を告げている。
影がゆらりと立ち上がった。
濁紫の影の欠片。
――シャドーの使い魔。
その影が、ゆっくりと四人を見据えた。
『……勇者……か……』
『勇者は……殺す……』
レオンが焦りを隠せずに叫ぶ。
「来るぞーー!!」
影の欠片が、ゆらりと揺れる。
その揺れは風でも気配でもない。
影そのものが意思を持って脈動している──
そんな異様な動きだった。
次の瞬間、空間がひしゃげるような音が響く。
──ギチ……ギチギチギチ……
壁・天井・床に張りついていた影が、まるで押し出されるように前へ伸びる。
それを見たレオンは叫んだ。
「迎撃!!」
影の欠片が腕を広げるように揺れた瞬間、影が一斉に形を変える。
『……《影刃生成》』
影から刃が生まれた。
無数の黒い刃が、波のように押し寄せてくる。
刃は金属ではない。
光を吸い、濁りをまとい、存在そのものが歪んだ黒だった。
優斗が前に飛び出す。
「うおおおおっ!!」
影刃の群れに向かって一直線。
レオンは制止の声を上げた。
「優斗、待て──!」
だが優斗は止まらない。
影刃が襲いかかる。
優斗は《霞流し》で受け流しながら前へと進む。
キィィィン!
キィィィン!
キィィィン!
影刃が霧のように散るたび、優斗はさらに踏み込む。
「とった──!」
《風切り》が閃き、影の欠片へ斬撃が走る。
ザシュッ──
だが。
手応えが……ない。
影の膜が波紋のように揺れ、斬撃を吸収していく。
「……効かねぇ、のか……マジかよ……!」
「影の膜が衝撃を吸収している……! 優斗、下がれ!!」
レオンが影刃を弾きながら叫ぶが、言い終わる前に影刃が一斉に形を変えた。
刃が槍に、槍が鎖に、鎖がまた刃に。
そして──
影の欠片が低く呟く。
『……逃がさない……』
影刃がハンマーの形に変わり、優斗の横腹へ振り下ろされた。
ドゴォッ!!
「ぐあああああっ!!」
優斗の体が地面を転がり、影の床を滑っていく。
朔弥はそんな優斗を見て、慌てて叫んだ。
「優斗!!」
美咲が優斗に駆け寄り、癒しの光を放つ。
「《上位治癒》!」
「いてて……っ……くそ……影のくせに……重すぎだろ……」
優斗の傷は塞がるが、呼吸は荒いままだ。
レオンが影刃を弾きながら言う。
「物理攻撃が……ほぼ効かない様だ……!」
優斗は悔しげに歯を食いしばると、朔弥が前に出ながら言い放った。
「俺には……相性が悪いってか……」
「なら、俺がやる……!」
魔力を練りこみ、影の欠片目掛けて解き放つ。
「《火弾》!」
だが影刃が高速で揺れ、火弾は空を切る。
「こいつ、速すぎ……っ!」
その時、影の欠片がゆらりと揺れた。
その揺れは、まるで水面に落ちた一滴のように広がり──
次の瞬間、影の中へ沈んだ。
音はなかった。
ただ、闇が一瞬だけ濃くなり、そのまま欠片の姿が消えた。
朔弥はそれを見て息を呑んだ。
「……消えた……?」
「落ち着け。周囲を警戒しろ……どこかに潜んで──」
レオンはすぐに聖剣を構え直すが、言葉が終わる前に背後の闇が裂けた。
──ズルッ……
空気が引きちぎられるような音。
影の層がめくれ上がり、その奥から濁紫の影が浮上する。
姿を現した瞬間、その腕が鎖の形に変わった。
黒い鎖が、まるで生き物のようにうねり、四人へ一斉に襲いかかる。
レオンが美咲の前に飛び出し、聖剣で鎖を弾く。
優斗も横から鎖を斬り払う。
だが──
朔弥だけが、一歩遅れた。
逃げ遅れた朔弥の足に鎖が絡みついていく。
「うわっ──!」
影の鎖が体を引き裂こうと締め上げると、朔弥の顔が苦痛に歪む。
「くっ……離れろ……!」
レオンは聖剣を構え、光を刃に集中させた。
「飛べ、光刃──
《光刃飛翔》!!」
光の刃が一直線に走り、影の鎖を断ち切った。
鎖が霧のように散り、朔弥は地面に転がり込む。
「はぁ……はぁ……助かった……!」
レオンは間髪入れずに、影の欠片へ距離を詰めた。
「逃がすか──!」
光を纏った聖剣が振り下ろされる。
「《光刃》!!」
だが──
影の欠片はまた影に沈み、レオンの一撃は空を切った。
影が波紋のように揺れ、別の場所で再び浮上する。
まるで空間そのものが敵の味方をしているようだった。
優斗が歯を食いしばり、美咲は震える声で呟く。
「くそ……どこにでも潜りやがる……!」
「影が……全部つながってる……どこからでも……来る……」
影の欠片が再び腕を広げると、影が床から、壁から、天井から、無数の刃となって伸びてきた。
レオンが叫ぶ。
「みんな陣形を崩すな……来るぞ……!」
影刃が、4人を飲み込むように迫ってきた。




