なんでこうなったか、解説しますね
普通の現代語訳から色々いじってしまったので、そういった部分や、違和感を覚える部分などを最後に書いておこうと思います。
先に、普通の現代語訳とは変えてしまった部分を書いていくと
① 観自在菩薩が舎利子に語りかける形式ではなく、観自在菩薩は・・・だよね。舎利子は・・だよね。菩薩は、・・だよね。という形式にしました。観自在菩薩が全てを語っているというのは、少し無理があると思ったからです。
② ボダイサッタの前のイムショトクコをわたしの持つ般若心経の通り、己無所得故を直訳して、舎利子は、・・己には何も得るところが無い、と訳しました。つまり、幽霊にはハンニャハラミタをゲットできないよ、ということです。幽霊にとって残酷な一言ですが、これが無いと、彼岸に行きなさい、に繋ぐことが難しいところです。
③ ハンニャハラミタを大いなる智慧の深淵と訳さないで、そのまま、ハンニャハラミタと表記しました。智慧という言葉が多いのでハンニャハラミタと表記した方が分かりやすいからです。
ものすごい私的なこじつけですので、まぁ、表現の自由と解釈していただきたいところです。
さて、般若心経の一番大事な部分は、ギヤーテーから始まる最後の真言の部分で、この部分だけ、サンスクリット語に漢字で音を当てています。サンスクリット語で聞いてみた場合、ガーテーに近い発音になっています。
ところが、このギヤーテーの部分は、ハンニャハラミタにはあまり関係ない、彼岸に行きなさい、という命令形の文になっています。ハンニャハラミタの真言かなぁ、と思っていたら、単に彼岸に行きなさい、と命令されているわけで、違和感がありますよね。
また、命令文というのば、命令する相手がいるわけで、この場合、舎利子に対して、彼岸に行きなさい、と言っているわけですよね。
つまり、舎利子は、三途の川を渡らずに現世に留まって幽霊となっているから、そのままじゃ何も得るところは無いよ、三途の川を渡って行きなさい、と教え諭している、という風に勝手に解釈させてもらったわけです。
最後に、お経としての文章の構成が拙いような気がして、その拙い感じを出すために、「だよね」調にしてみました。
以上、真面目なお坊さんが読んだら怒り出しそうな、単なるわたしの感想を、ここまで読んでいただきありがとうございます。
メンタルが豆腐なので、怒ってしまった人は怒りの感想など書かないで、低評価するだけで、勘弁してくださいね。




