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第3話『不完全な旋律。あるいは、最初の選択』

完璧な楽譜には、余白がありません。

システムが導き出す「最適解」という名の旋律は、あまりに無垢で、けれど、あまりに冷たい。


かつて神の座にいた男は、今、迷宮の暗がりに立っています。

その手にある糸が、誰かを繋ぎ止めるためのものか、あるいは棄てるためのものか。

彼自身もまだ、その答えを知りません。

深夜の事務所。窓の外にはLabyrinthラビリンスの恩恵を受けたトウキョウの街が、計算し尽くされた静寂の中で光り輝いている。

 有明は、自作の潜伏用端末に指を走らせた。かつて設計の根幹を担ったシステム。その防壁の隙間を縫い、深層海流に流れる「ノイズ」を掬い上げる。それが、脱退した彼がこの街で「逃がせ屋」を続ける唯一の手段だった。


 モニターに、AIが弾き出した赤いアラートが浮かび上がる。


【検体:羽住はずみ れん

【事由:生体信号の乱れ。自己否定感情の増幅による社会不適格リスク:87%】

【推奨処置:記憶の「再構成」。当該音楽因子の消去による、労働リソースへの転換】


(……相変わらず、容赦のない効率主義だ)


 Labyrinthにとって、人の夢や絶望は、計算を狂わせる摩擦係数に過ぎない。

 有明の指が、実行キーの前でわずかに止まる。脳裏をよぎったのは、数日前に記憶を書き換えた依頼人の泣き顔だ。絶望を消し去り、空虚な安らぎを与えた。その「処理」を終えたあとの彼女の瞳には、もはや光も陰りもなかった。

 それを最適解だと信じて疑わなかったはずの自分の指先が、今は恵麻が残した微かな熱に、ひどく焼かれている。


『……やめなよ。その古い傷をなぞるのは、君の精神衛生上よろしくない』


 不意に、スピーカーからノイズ混じりの声が響いた。有明は舌打ちし、回線を遮断しようとする。

 カイン。街の管理者を自称する、かつての半身。


「……勝手に私の私設回線へ介入するなと言ったはずだ、魁」


『冷たいな。君を心配しているんだよ。……それとも今は、組織を裏切った女神、**「アリアドネ」**と呼んだ方がいいのかな?』


 有明は奥歯を噛み締めた。


「その名で呼ぶな。……私はもう、お前たちの迷宮の部品ではない」


『いいや、君は逃げられない。君が誰かを救おうと「コード」を紡ぐたび、その波形はLabyrinthの深淵に響き渡る。……君の救済は、ただの「置き去り」だ。神話のアリアドネがそうであったように、君もまた、救った相手から「自分」を奪い、無垢な廃人として棄てているに過ぎない』


「黙れ……!」


 有明は通信を力任せに切断した。

 静まり返った部屋。カインの言葉は、正論だ。これまでの「逃がせ屋」としての活動は、社会に適応できない者を、別の何かに書き換えて棄てる作業ではなかったか。


 ふと、視線を感じた。部屋の隅、いつの間にか開いていた窓の縁に、恵麻が座っていた。


「おじさん、また怖い顔してる」


「……君は、神出鬼没すぎるな」


 有明は溜息をつき、モニターを指し示した。

「今からこの男のところへ行く。……彼の記憶を最適化し、この絶望から『逃がして』やるために。それが私の、これまでの正解だった」


 恵麻はふらりと有明の隣に歩み寄り、モニターに映る羽住の、泣き出しそうな顔を見つめた。

「……この人、まだ歌ってるよ」


「歌っている? 彼はもう半年以上、ピアノに触れてもいないはずだ」


「ううん。心の中の音が、すごく不器用だけど、必死に鳴ってる。……おじさん、それを消しちゃうの?」


 有明は答えられなかった。これまでの彼なら、「絶望を消すことが慈愛だ」と断言できただろう。しかし、昨夜触れた彼女の指先の熱が、それを拒んでいた。


「……行くぞ。ついてくるなら、邪魔はするな」


 有明はコートを掴んだ。

 自分の紡ぐ糸が、カインの言う通り「置き去りの糸」なのか。それとも、彼女が予感させる「導き」になり得るのか。


 夜のトウキョウ、その冷たい迷宮の深淵へと、有明は足を踏み出した。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


第3話では、主人公・有明が抱える「アリアドネ」という名の呪い、そしてカイン(魁)との絶望的なまでの価値観の乖離を描きました。

カインが提示する「置き去りの救済」は、ある意味で効率的な優しさです。しかし、恵麻が聞き取った「不完全な旋律」を前にして、有明の指先は初めて実行キーを叩くことを躊躇いました。


彼が選ぼうとしているのは、システムへの服従か、それとも――。

「最初の選択」をした彼の行く先を、共に見届けていただければ幸いです。

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