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第2話『解析不能な空白。あるいは、鍵穴のない少女との再会』

ゴミ捨て場での出会い、そして「空白」の少女。

鉄壁の論理を誇る「逃がせ屋」有明が、自らの聖域で再び彼女と対峙します。


今回は、完璧なシステムの影に隠された、彼の「少しだけ人間臭い一面」を覗いていただければ幸いです。

あのゴミ捨て場から逃げ出したあとも、網膜には彼女の姿が焼き付いて離れなかった。

 有明はタクシーの中で何度も頭を振る。解析不能なデータは削除すればいい。関わるべきではない。あれはシステムのバグが見せた、一時の幻覚のようなものだ――そう自分に言い聞かせ、逃げるように「聖域」へと向かった。


 カクテルバー『レテ』。

 誰にも教えず、Labyrinthの監視網からも巧妙に外した、彼にとって唯一の空白地帯。

 重厚な扉を押し開け、琥珀色の静寂に身を浸そうとした、その時だった。


「――遅かったね、おじさん」


 有明の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 指定席であるはずのカウンターの隅。そこに、いるはずのない「空白」が座っていた。


「……なぜ、ここに」


 住所も、この店の名前も教えていない。物理的な障壁を無視してそこにいる彼女は、文字通り『鍵穴のない少女』だった。立ち尽くす有明をよそに、彼女は差し出されたばかりのマティーニ――有明が自分を律するために頼む、冷徹な「正解」――を覗き込み、残酷なほど無垢な瞳でこう告げた。


「綺麗だね、そのお酒。でも、計算通りすぎて隙がないよ。なんだか、味のしない水を飲んでるみたい」


「……味のしない水、だと?」


 有明は震える指先を隠すように椅子を引き、彼女の隣に腰を下ろした。

 普段の彼なら、こんな無知な挑発は鼻で笑って切り捨てる。だが、この少女の言葉だけは、なぜか彼のプライドの最も敏感な場所に、土足で踏み込んでくる。


「訂正してもらおう。この配合はLabyrinthが導き出した黄金比だ。君が『味がしない』と感じるのは、客観的な品質の問題ではなく、君の認知エラー、あるいは――」


「おじさんが、透明だからだよ」


 恵麻は、有明の言葉を柔らかく遮り、じっと彼の瞳を覗き込んだ。

「透明?」

「うん。正解ばっかり探して、自分がどこにもいない。だから、お酒もどうしていいか分からなくて、水になっちゃったんだね」


 彼女はそう言って、有明のグラスからオリーブをひょいとつまみ、悪戯っぽく口に運んだ。


「あ、そのオリーブ……っ。……君は、私の話を一文字でも理解しようとしたのか?」


 完璧だったマティーニの表面が、彼女のせいでひどく不完全に揺れている。

 有明は、自分でも驚くほど子供じみた声音で吐き捨てた。論理的に言い負かしたいのに、彼女を前にすると、これまで磨き上げた支配の言葉がことごとく空転する。


「おじさんの時計、変な音がする」


「……話を変えるな」


「ううん。その時計の音だけ、おじさんの代わりに『ここにいるよ』って、一生懸命走ってるみたいだよ」


 有明は反射的に袖を引いた。

 高級なスーツの袖口に隠された、少し型落ちしたアナログ時計。

 1秒の狂いもないデジタルの秒針ではなく、不器用に、しかし力強く時を刻む歯車の音。


 その瞬間、有明の脳裏に、今の彼には相応しくない「ぐちゃぐちゃ」な記憶が溢れ出した。

 泥だらけになって何かを追いかけていた、雨上がりの公園。

 誰かに分かってほしくて、でも言葉にできなくて、ただ必死に走っていたあの頃の、熱を帯びた自分の息遣い。


「……君は、やっぱり毒だ」


 有明は絞り出すように言った。

 自分の築き上げた論理の世界が、彼女の言葉ひとつで侵食されていくことへの恐怖。

 そして――もう正解を出し続けなくていいのだと、その不確かな音の中に逃げ込めることへの、許し。


「あ、おじさんの指先。さっきより少しだけ、あったかくなったね」


 彼女がその小さな指で、有明の指先に一瞬だけ触れる。

 ――熱かった。

 氷点下のマティーニを、冷徹な論理を、そして1話で「逃がした」女性の人生を書き換えてきた、自分の傲慢な救済。そのすべてを溶かすような、生身の熱。


 有明は、自分の指先がひどく不格好に震えていることに気づいた。

 慈愛とは、理解を極めし支配の糸で管理することではない。だが、今の有明にはまだ、その熱の正体が分からなかった。


 その直後、有明のポケットの中で、冷徹な機械音が一度だけ短く震えた。


『有明。……懐古趣味は、判断を鈍らせるよ』


 スマホの画面に浮かぶ、かいからの監視の記録。


 有明が反射的に画面へ目を落とし、再び顔を上げたときには、隣の席はすでに最初から誰もいなかったかのように「空白」に戻っていた。


 手元に残ったのは、冷たいカクテルの結露が滴り、まるで涙のように濡れたコースターだけ。

 有明はその雫を、震えの止まった指先でそっとなぞる。


「……解析、不能か」

第2話をお読みいただきありがとうございます。


「味のしない水」という恵麻の言葉。それは、有明がこれまで積み上げてきた『完璧な正解』への、彼女なりの答えでした。


慈愛とは、理解し尽くして管理することなのか。それとも、その先にある何かなのか。

狂い始めたアナログ時計の音と共に、有明の静かな日常が少しずつ変質していきます。


次回、第3話。彼を監視する「カイン」の影が、より色濃く現れます。

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