38、決行
私はディロン伯爵卿が退出した扉から出る。
目の前には庭へと降りる階段が設置されており、私は伯爵卿の指示通りに下へと降りていく。着いた先には広場があり、奥には薔薇の迷宮と呼ばれる迷路のような庭園があるそうだ。現在は広間の光もそこまで届かないためか、目を凝らさないと見ることはできないが。
庭の隅にはいくつかベンチが置かれていた。迷宮側のベンチは男女のカップルが静かに愛を囁き合っているように見える。しかしディロン伯爵卿の姿はない。ここからは、他の者の誘導になるのだろう。
私は指示通り、椅子へと座る。すると突然、広間で叫び声が上がった。
思わず立ち上がって広間のバルコニーを見上げる。その間に奥で睦み合っていた男女たちは居なくなっていた。避難したのか、逃げたのか……私には分からないけれど。
相変わらず広間では怒声が響き渡る。どうやら声を聞いていると、鏡が給仕によって盗まれたらしい。あの鏡は偽鏡ではあるし、鏡の場所を把握できるような仕組みになっているので、すぐに捕まるだろう。
それよりも伯爵卿とのやり取りで「私が庭を訪れたらすぐに騒ぎが起こります」と書かれていたが……どうやら偽鏡を盗むことだったようだ。確かに広間内を撹乱させるのには、一番手っ取り早い。
広間の扉が閉められる。それだけではなく、バルコニーの窓も全てだ。これで広間にいた貴族たちは、その場に留まることとなってしまう。
庭には私一人……。
――皇帝陛下の予想通りに、ことは進んでいた。
「ブレンダ様、こちらでございます」
私の後ろから声をかけてきた者がいた。彼は燕尾服を着て礼を執っている。彼の顔が私を見据えると、私は誰? と言わんばかりに首を傾げた。
「伯爵卿の手の者です」
本来であれば、私はこの男の後ろについて、馬車へと移動しなくてはならない。そして伯爵邸や他の者たちの所有する屋敷を転々としながら、王国へ戻ることになるのだろう。
「さあ、こちらへ」
相手の男は足早に歩いていく。彼は私が付いてくるものだと思っていたはずだ。数歩進んだところで、私が足を出していないことに気がついたのか、首を傾げながら私へと振り向いた。
「時間がございません。早くお願い――」
「……ないわ」
「えっ?」
怪訝な表情を浮かべる相手に、私は再度告げた。
「申し訳ございませんが、私は王国には戻りませんわ」
「なっ……?!」
にこやかに告げる私に、相手の男は「話が違う」と言わんばかりの顔で、私を睨みつけている。それはそうだ。言葉を喋った上、その第一声が王国には戻らないだったのだから。この驚きようを見ると、伯爵卿からは「素直に言うことを聞いてくれると思いますよ」とでも言われているかもしれない。
相手の男は眉間に深い皺を刻みつけて色々と言いたげな表情をしている。しかし、私を説得するよりも連れ去った方が良いと思ったのだろうか……男は腰に二本の短刀を身につけていたが、それを抜くことなく動き始めた。
相当な腕利きなのだろう。目にも留まらぬ速さで動くため、私はその場に留められてしまう。
逃げることも叶わず、思わず目を瞑ったその時――。
金属と金属のぶつかる甲高い音が聞こえるのと同時に、私は何か温かい物に包まれた。そして次に聞こえたのは、相手の男の悲鳴のような声。
「なぜだ! 先ほどまで気配は全く無かったはずだ……?!」
その言葉に恐る恐る目を開けて上を見ると、私を包んでいたのは公爵様だった。私の腰に手を回した公爵様の腕は力強いが……気を使って下さっているのか、苦しくはない。まるで私を離さない、と言わんばかりにマントで私の身体も隠れている。
声だけしか聞こえないが……先刻から予想外のことばかりが発生したのだろう。相手も混乱しているようだった。そんな悲痛な声とは裏腹に、公爵様とは違う空気を読んでいるのか、読んでいないのか分からない声が遠くから聞こえる。
「……おやぁ、私の魔道具が効いていたようですねぇ。これは丁度いい研究結果が手に入りましたね」
どことなく楽しそうな声色で話す男――そう、セヴァルである。
「公爵様、ありがとうございます〜。目の前で実験ができるなんて、最高の職場ですねぇ」
「……良かったな」
公爵様もどこか呆れ声だ。こんな時でも実験なのか……と改めてセヴァルの研究好きを実感する。問題ないと判断したのだろう、公爵様はマントを私の前から取り払う。真っ暗だった視界が晴れてすぐ目に飛び込んできた光景は、男が拘束されている姿だった。
私は一歩進もうと足を出したが、公爵様の腕に引き留められてその場にとどめられる。
「何が起こるか分からない。私の側にいるように」
「分かりました」
そうよね、私は誘拐されようとしていたのだもの。仕方ないわよね。
公爵様の温もりを私は全身で感じていた。彼には悪いのだけれど……この状態を少し嬉しく思っている私がいる。何故だろうか、と考えてみたけれど……幼い頃のお母様の温かさを思い出すからかもしれない。
もちろん、お母様と一緒の時の気持ちと同じではない。けれど……私はこの気持ちがどのような名前なのか、未だに確信が持てないでいた。
少しだけ、彼の逞しい腕にそっと身体を寄せてみる。公爵様はそんな私の行動に驚いていたようだけれど……優しく肩を抱いてくれた。




