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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第六章

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69 いい距離


 新学期が始まって、10日ほどが過ぎた。


 カレンダーの数字はまだ一月のままなのに、冬休み前とは空気の質が違う。教室の窓から差し込む光も、廊下を駆けていく足音も、何一つ変わっていないはずなのに、俺の胸の奥だけが、凪いだ海のように静かだった。



 木曜日の昼休み。


 弁当の蓋を開けると、白い湯気がほわりと立ち上った。今日は白松さんと一緒ではない。朝、彼女は少し申し訳なさそうに言った。


「今日は、葵たちと食べるね」


 以前の俺なら、きっとどこかで寂しさを隠せなかったと思う。笑って「そっか」と言いながらも、心のどこかがちりりと疼いていたはずだ。

 でも、今は違う。寂しくないと言えば嘘になる。けれど、それは決して嫌な感情じゃなかった。


 教室の後方から、白松さんの笑い声が聞こえる。

 図書室で伏し目がちに本を読んでいた頃とは違う、明るくて、迷いのない声。俺はその響きを耳の端で受け止めながら、冷めかけた卵焼きを口に運んだ。


「よう、桜井」

 不意に、購買袋を片手にした鈴木が、俺の前の席を反対向きに引いて座った。


「今日は白松さんと一緒じゃねえのか?」

「ああ。友達と食べるってさ」


「へえ」

 鈴木は焼きそばパンの袋を破りながら、じっと俺の顔を覗き込んできた。


「なんかさ、お前ら最近いい感じだよな」

「いい感じ?」


「余裕があるっていうか」

 その言葉に、箸を止める。


「前は、どっちかがいないと片方が不安そうに見えたんだがな」


 焼きそばを頬張りながら、鈴木は「いいね、めちゃくちゃ」と続けた。

 いいね、か。俺は小さく鼻で笑った。


「俺たちも、まだ手探りだけどな」

「それでもさ、最近のお前、表情が違うぞ」


 その言葉は、まっすぐ胸に落ちた。

 確かにそうかもしれない。以前の俺は、白松さんが少しでも離れていきそうになると、無意識にその裾を掴もうとしていた。今は、手を伸ばさなくても彼女は戻ってくると、どこかで確信している。


「なあ、日曜暇か?」

 鈴木が急に話題を変えた。


「まあ、特にはないけど」

「4人で遊ばねえ? 俺と宮田、お前と白松さんで」

 鈴木が両手で不格好なダブルピースを作る。


「またダブルデートか?」

「言い方が気持ち悪いんだよ」

 思わず吹き出す。


「ボウリングとかどうだ。久しぶりに体動かそうぜ」

「いいな。白松さんにも聞いてみるよ」


「決まりな。伝えとけよ」


 放課後、クラスメイトと談笑している白松さんのところへ行く。俺の気配に気づくと、彼女はいつもの、あの柔らかい笑みを浮かべた。


「どうしたの?」

「日曜、鈴木が四人でボウリングに行かないかってさ」


「いいね。楽しそう」

 即答だった。その自然な反応が、たまらなく嬉しかった。


 帰り道、夕暮れがゆっくりと街を染めていく。

 並んで歩きながら、白松さんがぽつりと言った。


「今日ね、葵といっぱい話したの。進路のこととか、将来やりたいこととか」

 少し照れくさそうに彼女は続ける。


「私、自分の考えをちゃんと言えた気がする」

「それは、すごいな」


「前はね、桜井くんに聞いてもらうだけで満足しちゃってた。でも今日は違ったの」

 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「でもね」

 彼女は少しだけ視線を落とした。


「やっぱり、桜井くんと話す時間は特別だよ」

「特別?」


「うん。……好きだから」

 自然に手が重なった。指先は冷たい。でも、その冷たさが今は、ひどく心地よかった。


 その夜、自室の机に向かって問題集を開く。

 静かな時間。ページをめくる音だけが部屋に響く。

 一人の時間が、怖くない。むしろ、この静寂があるからこそ、誰かと笑えるのだと感じる。



 日曜日。駅前のボウリング場に、いつもの4人が揃った。


「おはよう!」


 宮田が明るく手を振る。隣では鈴木がすでにやる気満々だ。

 ゲームが始まると、笑い声が絶えなかった。鈴木は豪快にガーターを出し、宮田は意外な勝負強さを見せる。白松さんは投げる前に小さく深呼吸し、ピンが倒れるたびに「見て、5本!」と嬉しそうに振り返った。


 その笑顔は、あの頃よりもずっと、風のように軽やかだった。


 ゲームの後、近くのカフェに入った。


 窓際の席で、温かいココアを両手で包み込む白松さん。その横顔を見ながら、俺は静かに思った。

 隣にいる。でも、もたれかかるのではなく、お互いに自分の足で立って、並んでいる。



「ゆり、最近明るくなったよね」

 宮田がふと言う。


「そうかな」

「うん。前よりずっと、自信がある感じ」

 白松さんは少し考えてから、俺をちらりと見て答えた。


「自分で決めることが、増えたからかも。桜井くんといっぱい話したの。お互いに、ちゃんと自立しようって」


「いいねえ。俺らも見習わなきゃな」

 鈴木が笑い、場が和む。


 帰り道、駅までの道を白松さんと二人で歩く。


「今日、すごく楽しかった」

「俺もだよ」


「みんなといる時間も好き。でも、こうして二人で帰る道も、やっぱり好き」

 彼女は小さく笑った。


「私ね、ちゃんと一人でも立てる。でも、桜井くんと並んで歩くのは、やっぱり特別だよ」


 冬の夜空を見上げると、星が一つだけ強く瞬いていた。

 スマホに届いた「今日はありがとう」という短いメッセージ。その奥にある確かな安心感をポケットにしまい、俺は歩き出す。


 依存でもない。

 離れているわけでもない。


 俺たちはまだ未完成で、傷つきやすいままだ。

 でも、未完成のまま、同じ方向を向いて歩いていける。


 それが今の俺たちにとって、いちばん心地いい距離だった。


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