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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第六章

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60/60

60 同じ歩幅で


 新学期の始業式の日、まだ夜の名残が残る薄青い空の下で、俺は家を出た。吐く息は白く、指先は手袋の中でもじんと冷えている。こんなに早く家を出る必要はなかった。ただ、じっとしていられなかっただけだ。白松さんに会いたい。その気持ちが、目覚まし時計よりも正確に俺を布団から引きずり出した。


 冬休みの間、何度も頭の中で繰り返した言葉がある。伝えなければならないと思いながら、口に出すたびにどこかが違う気がして、結局飲み込んできた言葉だ。今日こそは、きちんと向き合う。そう決めて、俺は駅のホームに立っていた。


 電車を待つ間、やけに鼓動が大きく感じられた。線路の向こうから近づいてくる車両の音と、自分の心臓の音が重なる。落ち着け、と何度も心の中でつぶやく。けれど、落ち着く理由よりも、緊張する理由の方がはっきりしていた。


 電車に揺られ、白松さんの最寄り駅で降りる。改札を抜けた瞬間、視界の端に見慣れた姿を見つけた。コートにマフラーを巻いた白松さんが、少しだけ背筋を伸ばして立っている。まるで、俺が来ることを知っていたかのように。


「桜井くん……」


 目が合った瞬間、彼女は小さく息を呑んだ。


「来てくれたの?」

「ああ」


 それ以上、気の利いた言葉は出てこなかった。俺は一歩、また一歩と近づく。


「会いたかった」


 思っていたよりも、声は震えていなかった。


「私も……」


 彼女はそう言って、静かに笑った。涙ぐむかと思ったが、涙は浮かばなかった。その代わりに、以前よりもずっと落ち着いた、芯のある表情がそこにあった。冬休みのあいだに、彼女の中で何かが変わったのだと、直感的にわかった。


「学校、行こうか」

「うん」


 並んで歩き出す。凍ったアスファルトを踏みしめる靴音が、やけに鮮明に響く。会えなかった時間の重さは確かにあった。それでも、不思議と気まずさはない。お互いに、話すべきことがあるとわかっているからだ。


「冬休み、どうだった?」


 俺が聞くと、白松さんは前を向いたまま答えた。


「色々、考えたよ。自分のことも、桜井くんとのことも」

「俺もだ」


 本当だ。考えない日はなかった。


「白松さんがいなくて、寂しかった。でも、それだけじゃなかった」

「うん?」


 彼女がこちらを見る。


「俺も、依存してたんだと思う」


 口にした瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。白松さんは足を止め、驚いたように俺を見つめる。


「白松さんが、自分は依存してるって言った時さ。あのとき、俺も同じかもって気づいた」


 守りたいと思っていた。頼られることが嬉しかった。必要とされることで、自分の存在価値を確認していた。それは優しさのつもりだったけれど、どこかで彼女を弱いままにしておきたい自分もいたのかもしれない。


「守ることで、自分を保ってたんだと思う」


 白松さんは、ゆっくりとうなずいた。


「私もね、似たようなこと考えてたの」


 彼女の声は落ち着いている。


「一人で過ごしてみて、気づいた。桜井くんがいなくても、私は私でいられるって」


 寂しくなかったわけじゃない、と彼女は笑う。


「でもね、本を読んだり、家の手伝いしたりしてるうちに、ちゃんと毎日が進んでいったの。私、一人でも大丈夫なんだって思えた」


 その言葉を聞いたとき、なぜか安心した。俺がいなくても大丈夫だと言われて、傷つくどころか、ほっとしたのだ。


「でもね」


 白松さんは続ける。


「一人でも大丈夫だけど、桜井くんと一緒の方が、ずっと幸せ。それは依存じゃなくて、たぶん、好きってことなんだと思う」


 胸の奥が熱くなる。冬の冷たい空気の中で、その言葉だけがあたたかかった。


「私、変わりたいの」


 彼女の目はまっすぐだった。


「頼るだけじゃなくて、一緒に成長したい。対等でいたい」

「俺もだ」


 自然に手が伸びた。彼女の指先は冷たかったが、その冷たさが心地よかった。


「守るだけじゃなくて、隣に立ちたい」


 互いに自立して、それでも選び合う関係。それがどんな形なのか、まだはっきりとはわからない。でも、目指す方向は同じだと感じられた。


 学校に着き、昇降口で靴を履き替える。廊下は始業式特有のざわめきに満ちている。教室に入ると、鈴木が手を振った。


「よう、桜井。久しぶり」

「ああ」


「白松も。なんか雰囲気変わったな」


 にやりと笑う。


「前より、いい感じ。なんていうか、ちゃんとしてる」

「ちゃんとしてるってなんだよ」


「知らねえよ。お前がやろうとしてることだよ」


 思わず笑ってしまう。


「お前、口下手か」

「俺だって彼女いるしな」


 鈴木の軽口に、教室の空気が少し和らいだ。


 始業式が終わり、ホームルームで新学期の予定が告げられる。受験の話、進路の話。現実は着実に迫っている。でも、不思議と不安よりも期待の方が大きかった。白松さんとなら、どんな季節も越えていける気がした。


 昼休み、俺は彼女を誘って屋上へ向かった。冬の屋上は人が少なく、風が強い。ベンチに並んで座り、弁当の蓋を開ける。


「久しぶりだね、こうやって一緒に食べるの」

「ああ。なんか、安心する」


 言葉が途切れても、沈黙は重くならない。ただ隣にいる。それだけで十分だと思えた。


「私ね、決めたことがあるの」

「なに?」


「もっといろんなことに挑戦する。勉強も頑張るし、友達ともちゃんと向き合う」

 彼女は少し照れたように笑う。


「今まで、桜井くんに甘えてた部分、あったから」

「俺もだよ」


「だからね、桜井くんも友達とたくさん遊んで。私がいない時間も、大切にしてほしい」


 その言葉に、うなずく。


「じゃあ約束な。お互い、一人の時間もちゃんと楽しむ。でも、二人の時間も大事にする」

「うん」


 冬の空を見上げる。薄い雲の向こうに、淡い青が広がっている。


「春になったら、桜見に行こうね」

「ああ」


 その頃には、今よりもっと自然に隣に立てているだろうか。


 放課後、約束どおり図書館へ向かう。静かな空間に足を踏み入れると、紙の匂いがふわりと漂った。本棚の間を並んで歩く。


「ミステリーがいいな」

「じゃあ一緒に探そう」


 背表紙を指でなぞりながら、時折顔を見合わせる。些細なやりとりが、やけに楽しい。


 本を借りて外に出ると、空はすっかり夕焼けに染まっていた。白松さんの家までの道を、ゆっくり歩く。


「今日、楽しかった」

「俺も」


 それは、特別なことをしたからじゃない。ただ、同じ方向を向いて歩いている実感があったからだ。


「じゃあ、また明日」

「うん。気をつけてね」


 手を振る彼女の姿を見送りながら、俺は思う。依存ではなく、選び続ける関係へ。簡単なことじゃないかもしれない。でも、今日のこの静かな確信があれば、大丈夫だと信じられた。


 胸の奥で、鼓動が穏やかに鳴っている。あの朝のような焦りはもうない。代わりに、ゆっくりと育っていく予感があった。これから先、ぶつかることもあるだろう。それでも、そのたびに話し合って、考えて、並び直せばいい。


 新学期の始まりは、ただの区切りじゃない。俺たちが、自分の足で立ちながら、同じ歩幅で進むと決めた日だ。


 冷たい夜風の中で、俺は小さく息を吐いた。白い息はすぐに消えたけれど、胸の中のあたたかさは、消えそうになかった。


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