59 解放(回想10/10)
翌日。俺は、いつもの公園で幸子と会う約束をしていた。午後2時。冬の日差しが、弱々しく公園を照らしている。ベンチに座りながら、何度も手を組み直した。心臓が、うるさいほど鳴っている。
これから、幸子に全部話す。覚悟は、できている。そう思っていた。それでも、怖かった。幸子がどんな顔をするのか。どんな言葉を言うのか。想像するだけで、胸の奥が鈍く痛んだ。
10分ほどして、幸子が現れた。
「桜井!」
明るい声。幸子が手を振りながら駆け寄ってくる。そして、何も迷わないように俺の隣に座ると、腕にしがみついた。
「久しぶりだね。受験、お疲れ様」
「ああ」
「どうだった? 手応えは?」
「まあまあ」
曖昧に答えると、幸子が不思議そうな顔をする。
「桜井、なんか元気ないね。どうしたの?」
「ちょっと……話したいことがあって」
「話したいこと? 何?」
俺は深く息を吸った。そして、ゆっくり言った。
「実は……俺、春青高校を受けたんだ」
その瞬間、幸子の表情が止まった。
「え……春青高校?」
「ああ」
幸子の目が揺れる。
「でも……私と同じ高校に行くって……どうして……?」
俺はもう一度、深く息を吸った。
「ごめん。俺、やっぱりお前とは別の学校に行きたいんだ」
幸子が、信じられないという顔で俺を見る。
「一緒の高校に行くって、約束したじゃない」
「わかってる。でも……」
言葉が見つからない。何を言っても、言い訳になる気がした。
「でも、何? 私じゃ、ダメなの?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、何?」
幸子が一歩近づく。俺は、反射的に一歩下がった。その動きに、幸子が気づいた。
「桜井……どうして?」
声が、かすれている。目に涙が浮かんでいた。その涙を見た瞬間、胸が痛んだ。それでも、もう止まれない。
「俺、もっと勉強したいんだ。春青高校は進学校だから」
「勉強なら、私と一緒の高校でもできるじゃない」
「それは、そうだけど……」
「嘘でしょ。本当は、私から離れたいんでしょ」
何も言えなかった。図星だった。幸子の目から、涙がこぼれ落ちる。
「やっぱり……私、邪魔だったんだ」
「そんなことない」
「嘘つき! ずっと一緒にいるって言ったじゃない!」
「ごめん」
それしか言えなかった。幸子が、崩れるように泣き出す。その姿を見て、胸が引き裂かれそうだった。
でも――同時に、どこかで軽くなっている自分がいた。やっと言えた。やっと、言ってしまった。その事実が、胸の奥の重りを少しだけ外していた。
「桜井……お願い。やっぱり、私と一緒の高校に来て」
「ごめん。もう受験した」
「じゃあ……落ちて。お願い、落ちて」
俺は耳を疑った。
「落ちてくれたら、私と同じ高校に行けるでしょ」
「幸子……」
「お願い。私、桜井がいないとダメなの」
幸子が、俺にしがみつく。その重さが、胸にのしかかった。物理的にも、精神的にも。
「ごめん。俺、受かったんだ」
幸子の体が止まった。
「……受かったの?」
「ああ」
「嘘……じゃあ、もう決まってるんだ。私と……離れるって」
「ごめん」
幸子は再び泣き出した。今度は、声を上げて。その泣き声が、公園に響く。俺は、ただ立ち尽くしていた。何も言えなかった。
やがて、幸子は泣き止んだ。真っ赤な目で、俺を見る。
「桜井、私のこと嫌いになったの?」
「そんなことない」
「じゃあ、どうして離れるの?」
俺は、思わず言っていた。
「俺……自由になりたいんだ」
幸子の顔が、傷ついたように歪んだ。
「私といると、自由じゃないの?」
「そういうわけじゃ……」
「嘘。そういう意味でしょ」
幸子は俯いた。
「私、桜井を縛ってた。わかってた。でも……やめられなかった。怖かったの。桜井がいなくなるのが」
「ごめん」
「謝らないで。桜井は悪くない。私が、おかしかったんだ」
その言葉に、何も返せなかった。
幸子は立ち上がる。
「じゃあ……もう行くね」
背を向けて歩き出す。俺は呼び止めようとして――やめた。これでいい。これで、終わったんだ。
幸子の姿が、公園の出口で消えた。その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。解放された。やっと、解放された。
ベンチに座ったまま、空を見上げる。灰色の冬空。重い色の空だった。それでも、心は少し軽くなっていた。あの一言で、自分を縛りつけていた鎖が外れた気がした。もう、幸子の束縛はない。竹中の脅威もない。新しい高校で、新しい自分になれる。そう思った。
――それでも。胸の奥には、罪悪感が残っていた。幸子を傷つけた。裏切った。その事実は消えない。それでも、俺は前に進むしかない。そう決めて、公園を後にした。
それから、幸子とは話さなくなった。朝、教室に入っても、幸子は俺を見ない。昼休みも、別の友達と弁当を食べている。放課後も、先に帰る。俺たちは、まるで最初から他人だったかのように、距離を置いた。
怒っているのか。悲しんでいるのか。それとも、諦めたのか。幸子の表情は、最後まで読めなかった。ただ一つだけ確かなことがあった。俺は、幸子とは違う世界へ行く。そのために、ここまで来た。
卒業式の日。俺は、幸子を探した。でも、結局話さなかった。いや――何を話せばいいのか、わからなかった。
三浦が声をかけてきた。
「桜井、高校でも頑張れよ」
「ああ。三浦も」
三浦は少し黙ってから言った。
「幸子のこと、ちゃんと話したのか?」
「ああ」
「そうか」
三浦は複雑な顔をした。
「お前、やっぱり逃げたんだな」
「逃げてない」
「嘘つくな。まあいいけど。お前が決めたことなら」
それだけ言って、三浦は去った。
そして春。春青高校の教室で、俺は鈴木と再会する。
「またお前と同じクラスかよ」
そう言って、鈴木は笑った。あの事件を覚えているのか。それとも、もう気にしていないのか。わからなかった。でも、鈴木にとって俺は――ただの「同じクラスの友達」なのかもしれない。
……そして、俺の意識は現在に戻る。
ベッドに横になったまま、天井を見つめる。中学時代の幸子。竹中の脅威。鈴木の怒り。三浦の事なかれ主義。そして、俺の逃避。すべてが繋がっている。
でも、今は違う。白松さんがいる。白松さんとなら、過去と向き合える。そう思えた。
三浦は、今、幸子のそばにいる。そして鈴木は、今では親友だと言える。
過去は消えない。でも、前には進める。そう思えた。




