安堵
三浦から電話がかかってきたのは、火曜日の夜だった。
白松さんを最寄り駅まで送り、改札の前で手を振って別れてから、まだ10分も経っていないころだった。帰りの電車は部活帰りらしい学生たちでほどよく混んでいて、どこかから汗と制汗スプレーの混ざった匂いがする。吊り革につかまりながら、今日の白松さんとの会話を思い返していた。図書室での午後。彼女が本のページをめくるときの仕草。差し込む光の中で、少し眩しそうに目を細めた顔。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、わずかに息を呑む。
三浦。
「もしもし?」
「桜井、今、大丈夫か?」
いつもより、声のトーンが少し違う。弾んでいる、というか、どこか覚悟が決まったような声だった。
「ああ、大丈夫だよ」
「報告がある」
その一言で、胸の奥に小さな緊張が走る。良い報告なのか悪いのか、声色からだけでは判断がつかない。
「幸子と、付き合うことになった」
一瞬、車内のざわめきが遠のいたように感じた。
予想していなかったわけではない。三浦が幸子のそばにいることは知っていた。あいつがどんな目で幸子を見ているかも、なんとなくわかっていた。それでも、実際に言葉として聞くと、胸の奥で何かが小さく揺れる。罪悪感に似た、重さ。
「本当か?」
「ああ」
三浦は淡々としていたが、その奥に芯のようなものが感じられた。
「まだ、完全じゃない。幸子、お前のこと、まだ忘れきれてないと思う」
正直な言い方だった。取り繕わないところが、三浦らしい。
「そうか……」
それ以上、うまい言葉が見つからなかった。
「でもな、前を向こうとしてる。あいつなりに、ちゃんと区切りをつけようとしてる」
「俺が支える。だから、安心してくれ」
「ありがとう、三浦」
自然に言葉が出た。本心だった。
「お前が側にいてくれて、本当に良かった」
「礼はいらない。俺のためでもあるし、幸子のためでもある。……それだけだ」
短い沈黙が流れる。電車がトンネルに入り、窓の外が暗闇に変わった。自分の顔が、うっすらとガラスに映る。なんとも言えない顔をしていた。
「あとさ」
「ん?」
「週末、幸子がお前たちを見かけたらしい」
心臓が、どくりと音を立てた。
「駅前のモールで。白松さんと一緒にいるところ」
あの日の午後が、鮮明に蘇る。カフェのガラス窓。向かい合って座って、何かくだらない話をして、笑っていた。誰かに見られているなんて、考えもしなかった。
「そうだったのか……」
「ああ。それで、決心したみたいだ」
三浦は静かに続けた。
「お前、すごく幸せそうだったって。それを見て、やっと諦めがついたって言ってた」
胸の奥に、複雑な感情が広がる。良いことのはずだ。幸子が前を向けるなら、それ以上望むことはない。それでも、どこかに残るざらつきを否定できなかった。幸子が泣いていた場面を、俺は見ていない。でも、想像はできた。
「幸子、泣いてたよ」
三浦の声が、少しだけ柔らかくなる。
「でもな、泣きながらも、前に進むって言った。だから、お前もちゃんと前を向け」
「……ああ」
「白松さんを、大切にしてやれ」
「ああ」
短い返事だったけれど、その中に込められるだけのものを込めた。
「じゃあな」
「三浦。本当に、ありがとう」
「気にすんな」
通話が切れた。ちょうど電車が最寄り駅に滑り込んで、ドアが開く。人の流れに押されるようにホームへ降り立つと、夜風が思ったより冷たくて、思わず首をすくめた。
改札を出ながら、頭の中で三浦の言葉を繰り返す。
幸子と、付き合うことになった。
それはきっと、正しい流れなのだと思う。三浦は本気だ。幸子のことをずっと、俺なんかより真剣に見ていた。でも、胸の奥に残るこのざらつきは何だろう。罪悪感かもしれない。幸子を傷つけたという自覚は、きっとこれからも消えない。彼女がまだ俺を忘れきれていないと聞けば、なおさら。
それでも、三浦がいる。あいつなら、きっと支えてくれる。その確信だけが、今夜の救いだった。
家に帰ると、台所から母さんが顔を出した。
「お帰り。今日も白松さんと?」
「ああ」
「幸せそうね」
不意に言われて、少し照れくさくなる。
「……うん」
自室に入り、ベッドに倒れ込む。天井を見上げていると、スマホが震えた。白松さんからのメッセージだった。
「今日もありがとう。おやすみ」
短い一文なのに、胸が温かくなる。さっきまでの重さが、すっと薄れていく気がした。
「こちらこそ。おやすみ」
画面を閉じて、また天井を見上げる。
白松さんに伝えるべきか。少し迷ったが、隠すことではないと思い直す。明日、直接話そう。
翌日の昼休み、図書室の静かな一角で向かい合って座った。外は曇りで、窓から差し込む光は弱いけれど、それでもこの場所は落ち着く。本の匂い。ページをめくる微かな音。誰かが低い声で話している遠い気配。
「ねえ、白松さん」
「ん? どうしたの?」
白松さんが、顔を上げる。
「昨日、三浦から連絡があって」
俺はゆっくりと事情を話した。三浦と幸子が付き合うことになったこと。幸子が週末、俺たちを見かけて決心したこと。
「本当?」
白松さんは目を丸くした。
「ああ」
「そっか……」
一瞬、安堵の色が浮かぶ。でも、その奥にかすかな不安も見えた。
「でも、幸子さん、まだ桜井くんのこと好きなんでしょ?」
「三浦は、そう言ってた」
「じゃあ……本当に大丈夫かな」
視線が伏せられる。机の上で、白松さんの手がちょっとだけ動く。
「大丈夫だよ」
俺は、その手にそっと触れた。
「三浦がいる。幸子も前を向こうとしてる。俺たちも、ちゃんと前を向けばいい」
「うん……」
小さく頷く。完全には消えていない、不安。それでも、握り返してくれた手に少しだけ力がこもった。
放課後、いつもの道を並んで歩いた。夕焼けが街をオレンジ色に染めて、二人の影が長く伸びている。
「ねえ、桜井くん」
「ん?」
「少しスマホ見せてくれる?」
「え? いいけど」
渡すと、白松さんはしばらくスマホを触っている。
「別になにか疑ってるわけじゃないんだけどね」
「わかってるよ」
「彼女として、なんとなく」
「はいはい」
少し笑ってしまう。白松さんも、ちょっと照れくさそうに前を向いた。
しばらく歩いて、白松さんがぽつりと言う。
「幸子さん、幸せになれるかな」
少し考えてから、正直に答えた。
「わからない。でも、三浦が本気だ。きっと大丈夫だと思う」
「……そうだね」
白松さんは空を見上げた。夕焼けの中に、うっすら青が残っている。
「私も、幸子さんに幸せになってほしいんだ。会ったこともないけど。でも、なんか……まだ少し怖いの」
「怖い?」
「うん。もし幸子さんが、またこっちに来ようとしたら、って。考えちゃう」
俺は少し立ち止まった。白松さんも足を止めて、こちらを見る。
「それは俺の話だから、俺が対処する」
「でも」
「白松さんに怖い思いをさせない。それが俺の役目だろ」
白松さんが、黙ってこちらを見ていた。何か言いたそうで、でも言葉を探しているような顔。
「……桜井くんって」
「ん?」
「たまにそういうこと、真顔で言うよね」
「おかしかった?」
「おかしくない」
白松さんは小さく笑った。少し照れているみたいだった。
「ちゃんと嬉しかった」
肩を寄せて、また歩き出す。夕焼けが、二人の前に伸びていた。




