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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第五章

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安堵


 三浦から電話がかかってきたのは、火曜日の夜だった。


 白松さんを最寄り駅まで送り、改札の前で手を振って別れてから、まだ10分も経っていないころだった。帰りの電車は部活帰りらしい学生たちでほどよく混んでいて、どこかから汗と制汗スプレーの混ざった匂いがする。吊り革につかまりながら、今日の白松さんとの会話を思い返していた。図書室での午後。彼女が本のページをめくるときの仕草。差し込む光の中で、少し眩しそうに目を細めた顔。


 ポケットの中でスマホが震えた。


 画面に表示された名前を見て、わずかに息を呑む。


 三浦。


「もしもし?」

「桜井、今、大丈夫か?」


 いつもより、声のトーンが少し違う。弾んでいる、というか、どこか覚悟が決まったような声だった。


「ああ、大丈夫だよ」

「報告がある」


 その一言で、胸の奥に小さな緊張が走る。良い報告なのか悪いのか、声色からだけでは判断がつかない。


「幸子と、付き合うことになった」


 一瞬、車内のざわめきが遠のいたように感じた。


 予想していなかったわけではない。三浦が幸子のそばにいることは知っていた。あいつがどんな目で幸子を見ているかも、なんとなくわかっていた。それでも、実際に言葉として聞くと、胸の奥で何かが小さく揺れる。罪悪感に似た、重さ。


「本当か?」

「ああ」


 三浦は淡々としていたが、その奥に芯のようなものが感じられた。


「まだ、完全じゃない。幸子、お前のこと、まだ忘れきれてないと思う」


 正直な言い方だった。取り繕わないところが、三浦らしい。


「そうか……」

 それ以上、うまい言葉が見つからなかった。


「でもな、前を向こうとしてる。あいつなりに、ちゃんと区切りをつけようとしてる」

「俺が支える。だから、安心してくれ」



「ありがとう、三浦」

 自然に言葉が出た。本心だった。


「お前が側にいてくれて、本当に良かった」


「礼はいらない。俺のためでもあるし、幸子のためでもある。……それだけだ」


 短い沈黙が流れる。電車がトンネルに入り、窓の外が暗闇に変わった。自分の顔が、うっすらとガラスに映る。なんとも言えない顔をしていた。


「あとさ」

「ん?」


「週末、幸子がお前たちを見かけたらしい」


 心臓が、どくりと音を立てた。


「駅前のモールで。白松さんと一緒にいるところ」


 あの日の午後が、鮮明に蘇る。カフェのガラス窓。向かい合って座って、何かくだらない話をして、笑っていた。誰かに見られているなんて、考えもしなかった。


「そうだったのか……」

「ああ。それで、決心したみたいだ」


 三浦は静かに続けた。


「お前、すごく幸せそうだったって。それを見て、やっと諦めがついたって言ってた」


 胸の奥に、複雑な感情が広がる。良いことのはずだ。幸子が前を向けるなら、それ以上望むことはない。それでも、どこかに残るざらつきを否定できなかった。幸子が泣いていた場面を、俺は見ていない。でも、想像はできた。


「幸子、泣いてたよ」

 三浦の声が、少しだけ柔らかくなる。


「でもな、泣きながらも、前に進むって言った。だから、お前もちゃんと前を向け」

「……ああ」


「白松さんを、大切にしてやれ」

「ああ」


 短い返事だったけれど、その中に込められるだけのものを込めた。


「じゃあな」

「三浦。本当に、ありがとう」


「気にすんな」


 通話が切れた。ちょうど電車が最寄り駅に滑り込んで、ドアが開く。人の流れに押されるようにホームへ降り立つと、夜風が思ったより冷たくて、思わず首をすくめた。


 改札を出ながら、頭の中で三浦の言葉を繰り返す。


 幸子と、付き合うことになった。


 それはきっと、正しい流れなのだと思う。三浦は本気だ。幸子のことをずっと、俺なんかより真剣に見ていた。でも、胸の奥に残るこのざらつきは何だろう。罪悪感かもしれない。幸子を傷つけたという自覚は、きっとこれからも消えない。彼女がまだ俺を忘れきれていないと聞けば、なおさら。


 それでも、三浦がいる。あいつなら、きっと支えてくれる。その確信だけが、今夜の救いだった。


 家に帰ると、台所から母さんが顔を出した。


「お帰り。今日も白松さんと?」

「ああ」


「幸せそうね」

 不意に言われて、少し照れくさくなる。


「……うん」


 自室に入り、ベッドに倒れ込む。天井を見上げていると、スマホが震えた。白松さんからのメッセージだった。


「今日もありがとう。おやすみ」


 短い一文なのに、胸が温かくなる。さっきまでの重さが、すっと薄れていく気がした。


「こちらこそ。おやすみ」


 画面を閉じて、また天井を見上げる。


 白松さんに伝えるべきか。少し迷ったが、隠すことではないと思い直す。明日、直接話そう。


 翌日の昼休み、図書室の静かな一角で向かい合って座った。外は曇りで、窓から差し込む光は弱いけれど、それでもこの場所は落ち着く。本の匂い。ページをめくる微かな音。誰かが低い声で話している遠い気配。


「ねえ、白松さん」

「ん? どうしたの?」


 白松さんが、顔を上げる。


「昨日、三浦から連絡があって」


 俺はゆっくりと事情を話した。三浦と幸子が付き合うことになったこと。幸子が週末、俺たちを見かけて決心したこと。


「本当?」

 白松さんは目を丸くした。


「ああ」

「そっか……」


 一瞬、安堵の色が浮かぶ。でも、その奥にかすかな不安も見えた。


「でも、幸子さん、まだ桜井くんのこと好きなんでしょ?」

「三浦は、そう言ってた」


「じゃあ……本当に大丈夫かな」

 視線が伏せられる。机の上で、白松さんの手がちょっとだけ動く。


「大丈夫だよ」


 俺は、その手にそっと触れた。


「三浦がいる。幸子も前を向こうとしてる。俺たちも、ちゃんと前を向けばいい」

「うん……」


 小さく頷く。完全には消えていない、不安。それでも、握り返してくれた手に少しだけ力がこもった。


 放課後、いつもの道を並んで歩いた。夕焼けが街をオレンジ色に染めて、二人の影が長く伸びている。


「ねえ、桜井くん」

「ん?」


「少しスマホ見せてくれる?」

「え? いいけど」


 渡すと、白松さんはしばらくスマホを触っている。


「別になにか疑ってるわけじゃないんだけどね」

「わかってるよ」


「彼女として、なんとなく」

「はいはい」


 少し笑ってしまう。白松さんも、ちょっと照れくさそうに前を向いた。

 しばらく歩いて、白松さんがぽつりと言う。


「幸子さん、幸せになれるかな」

 少し考えてから、正直に答えた。


「わからない。でも、三浦が本気だ。きっと大丈夫だと思う」

「……そうだね」


 白松さんは空を見上げた。夕焼けの中に、うっすら青が残っている。


「私も、幸子さんに幸せになってほしいんだ。会ったこともないけど。でも、なんか……まだ少し怖いの」

「怖い?」


「うん。もし幸子さんが、またこっちに来ようとしたら、って。考えちゃう」

 俺は少し立ち止まった。白松さんも足を止めて、こちらを見る。


「それは俺の話だから、俺が対処する」

「でも」


「白松さんに怖い思いをさせない。それが俺の役目だろ」


 白松さんが、黙ってこちらを見ていた。何か言いたそうで、でも言葉を探しているような顔。


「……桜井くんって」

「ん?」


「たまにそういうこと、真顔で言うよね」

「おかしかった?」


「おかしくない」


 白松さんは小さく笑った。少し照れているみたいだった。


「ちゃんと嬉しかった」


 肩を寄せて、また歩き出す。夕焼けが、二人の前に伸びていた。


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