まだ、答えのないままで
三浦と会った翌朝、中川幸子はいつもより少しだけ早く目を覚ました。
目覚ましが鳴る前だった。
天井をぼんやりと見つめたあと、枕元のスマートフォンに手を伸ばす。まだ体は重いのに、指先だけが先に動く。
画面を点けると、通知が一件。
三浦からだった。
――おはよう。今日も無理すんなよ。
短い文面。
けれど、それを読んだ瞬間、胸の奥に小さな灯りがともるのを感じた。
「……おはよう」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
指を動かし、返信を打つ。
――ありがとう。
送信ボタンを押すと、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。
制服に着替え、鏡の前に立つ。
映る自分の顔は、まだどこか疲れている。目の下にうっすらと影がある。でも、以前よりはひどくない気がした。
あの頃は、朝が来るのが怖かった。
目が覚めるたびに、桜井が自分のものではない現実を思い出した。
けれど今は、起きてすぐに別の名前を思い出す。
三浦。
その事実に、少し戸惑う。
電車に揺られながら、窓の外を流れていく景色を眺める。
見慣れた住宅街。コンビニの看板。踏切。
何も変わっていないはずなのに、世界の色がほんの少しだけ薄く、そして穏やかに見えた。
桜井のことを考える時間が、減っている。
完全に消えたわけではない。
でも、四六時中ではなくなった。
代わりに、頭の中で繰り返される言葉がある。
――俺、お前のことが好きだ。
中学の頃から、ずっと。
あの真剣な目。
逃げずに見つめてきた視線。
幸子は、ぎゅっとスマートフォンを握りしめた。
どうして、気づかなかったんだろう。
自分はずっと、桜井だけを追いかけていた。
桜井が笑えば嬉しくて、少し冷たくされれば不安で。
その繰り返しに、夢中だった。
その隣に、いつも三浦がいたのに。
学校に着くと、いつものように友達が声をかけてくる。
「幸子、おはよう」
「おはよう」
「昨日バイトだったんでしょ? 大変じゃない?」
「あー……まあ、普通かな」
曖昧に笑う。
友達はいる。話せる相手もいる。
けれど、本当のことは言えない。
桜井のことも。
三浦の告白も。
言葉にしてしまったら、何かが現実になってしまいそうで怖かった。
昼休み、一人で弁当を広げる。
卵焼きを口に入れたところで、スマートフォンが震えた。
三浦だ。
「ちゃんと食べてるか?」
思わず笑ってしまう。
「今、食べてる」
すぐに既読がつく。
「最近、少し痩せただろ。ちゃんと食えよ」
その一文に、胸が小さく跳ねた。
三浦は、見ている。
自分が気づかない変化まで、ちゃんと。
「大丈夫。今日はちゃんと食べる」
送信してから、ふと罪悪感が胸をよぎる。
優しくされるたびに、痛む。
三浦の言葉に救われているのに、心の奥にはまだ桜井がいる。
それは、ずるいことなんじゃないか。
放課後、帰りの電車の中。
窓に映る自分の顔を見ながら、ふと想像してしまう。
今頃、桜井は、白松と並んで歩いているのだろうか。笑い合っているのだろうか。
胸が締めつけられる。
けれど、以前のように息が詰まるほどではない。
痛みは、確かにある。
でも、どこか薄い。
それが、怖かった。
薄れていくことが、裏切りのように思えた。
夜、ベッドに横たわる。
部屋の明かりを消し、暗闇の中で目を閉じる。
桜井の顔が浮かぶ。
そのあとに、三浦の顔が浮かぶ。
二つの像が重なって、ぐらぐらと揺れる。
どちらも大切で、どちらも違う。
涙がこぼれた。
声を殺し、枕に顔を押しつける。
桜井は戻らない。それは分かっている。
三浦は待つと言った。
それも分かっている。
でも、自分はどうすればいいのか。
誰かを忘れるって、どうやるんだろう。
週末、映画館の暗がりの中で、幸子はそっと三浦の横顔を見ていた。
スクリーンの光に照らされた横顔は、真剣で、少しだけ子どもの頃の面影を残している。
中学の頃から、変わらない。
真面目で、不器用で、優しい。
自分が桜井のことで泣くたび、三浦は何も言わず隣にいてくれた。
「大丈夫か?」
あの声を、何度聞いただろう。
でも、その意味を考えたことはなかった。
映画が終わり、カフェで向かい合う。
「ねえ、三浦」
「ん?」
「どうして、私なんかを好きになったの?」
三浦は少し困ったように笑う。
「なんでって……」
「私、ずっと桜井のことばっかりだったのに」
「知ってるよ」
あっさりとした返事。
「でも、それでも好きだった」
「どうして?」
「わからない」
三浦は肩をすくめる。
「気づいたら、そうだった」
その無防備な言葉に、胸が熱くなる。
「お前が笑うと、嬉しかった」
「泣いてたら、隣にいたかった」
「それだけだ」
幸子は視線を落とした。
こんなふうに、まっすぐ想われたことがあっただろうか。
「……ごめん」
「謝るな」
三浦は即座に言う。
「焦らなくていい。俺は待つ」
その言葉は優しい。
優しいのに、どこか重い。「待つ」という約束。
それは、時間を差し出すということだ。
ある日の放課後。
公園のベンチに座り、秋の空を見上げる。
高くて、静かで、澄んでいる。
スマートフォンを取り出し、桜井の名前を開く。
指が止まる。
連絡したい。
声を聞きたい。
でも――。
「桜井たちには、もう連絡するな」
三浦の声が蘇る。
ゆっくりと画面を閉じる。
代わりに、三浦の名前を押した。
「もしもし?」
「三浦……」
自分の声が少し震えている。
「桜井のことか?」
「うん……会いたくなった。でも、我慢してる」
正直に言うと、電話の向こうで三浦が小さく息を吐いた。
「偉いな」
「偉くないよ。辛い」
「わかる」
静かな声。
「でも、お前はちゃんと前に進もうとしてる」
その言葉に、胸が少し軽くなる。
「今から会えるか?」
「え?」
「一人でいるんだろ。俺、行く」
迷いのない声だった。
30分後、公園に現れた三浦は、いつもと同じように自然だった。
「よう」
「来てくれたんだ」
「当たり前だろ」
二人でベンチに座る。
肩が、少しだけ触れる距離。
「まだ好きなんだな」
「うん」
「でも、少し変わった」
「どう?」
「最近は……三浦のことも考えてる」
言った瞬間、心臓が跳ねる。
三浦が目を見開く。
「俺のこと?」
「優しいから」
「支えてくれるから」
「それが、嬉しい」
三浦はゆっくりと笑った。
そして、そっと幸子の肩に手を置く。
「焦らなくていい」
その手は温かい。安心する。桜井といたときの、不安に揺れる安心とは違う。穏やかで、静かな温もり。
それが、今の幸子には心地よかった。
「これから、どうなるのかな」
「お前のペースでいい」
「一年でも、二年でも、待つ」
その言葉に、涙が滲む。
「本当にいいの?」
「ああ」
「俺が好きだから。それだけで十分だ」
幸子は、そっと三浦の腕にもたれた。
拒まれない。
包み込むような沈黙。
このまま、少しずつ変わっていくのかもしれない。
桜井を忘れる日が来るのかもしれない。
三浦を、好きになる日が来るのかもしれない。
まだ分からない。
でも――。
待っていてくれる人がいる。
その事実が、今の幸子を、かろうじて前に進ませていた。
そして気づかないまま、幸子は少しずつ三浦の方へと、重心を移し始めていた。




