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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第五章

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まだ、答えのないままで


 三浦と会った翌朝、中川幸子はいつもより少しだけ早く目を覚ました。

 目覚ましが鳴る前だった。

 天井をぼんやりと見つめたあと、枕元のスマートフォンに手を伸ばす。まだ体は重いのに、指先だけが先に動く。


 画面を点けると、通知が一件。

 三浦からだった。


 ――おはよう。今日も無理すんなよ。


 短い文面。

 けれど、それを読んだ瞬間、胸の奥に小さな灯りがともるのを感じた。


「……おはよう」

 誰もいない部屋で、小さく呟く。


 指を動かし、返信を打つ。


 ――ありがとう。


 送信ボタンを押すと、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。

 制服に着替え、鏡の前に立つ。


 映る自分の顔は、まだどこか疲れている。目の下にうっすらと影がある。でも、以前よりはひどくない気がした。

 あの頃は、朝が来るのが怖かった。

 目が覚めるたびに、桜井が自分のものではない現実を思い出した。


 けれど今は、起きてすぐに別の名前を思い出す。


 三浦。


 その事実に、少し戸惑う。


 電車に揺られながら、窓の外を流れていく景色を眺める。

 見慣れた住宅街。コンビニの看板。踏切。

 何も変わっていないはずなのに、世界の色がほんの少しだけ薄く、そして穏やかに見えた。


 桜井のことを考える時間が、減っている。

 完全に消えたわけではない。

 でも、四六時中ではなくなった。


 代わりに、頭の中で繰り返される言葉がある。


 ――俺、お前のことが好きだ。


 中学の頃から、ずっと。


 あの真剣な目。

 逃げずに見つめてきた視線。


 幸子は、ぎゅっとスマートフォンを握りしめた。

 どうして、気づかなかったんだろう。


 自分はずっと、桜井だけを追いかけていた。


 桜井が笑えば嬉しくて、少し冷たくされれば不安で。

 その繰り返しに、夢中だった。


 その隣に、いつも三浦がいたのに。


 学校に着くと、いつものように友達が声をかけてくる。


「幸子、おはよう」

「おはよう」


「昨日バイトだったんでしょ? 大変じゃない?」

「あー……まあ、普通かな」


 曖昧に笑う。


 友達はいる。話せる相手もいる。

 けれど、本当のことは言えない。


 桜井のことも。

 三浦の告白も。


 言葉にしてしまったら、何かが現実になってしまいそうで怖かった。


 昼休み、一人で弁当を広げる。

 卵焼きを口に入れたところで、スマートフォンが震えた。


 三浦だ。


「ちゃんと食べてるか?」


 思わず笑ってしまう。


「今、食べてる」

 すぐに既読がつく。


「最近、少し痩せただろ。ちゃんと食えよ」

 その一文に、胸が小さく跳ねた。


 三浦は、見ている。


 自分が気づかない変化まで、ちゃんと。


「大丈夫。今日はちゃんと食べる」


 送信してから、ふと罪悪感が胸をよぎる。

 優しくされるたびに、痛む。

 三浦の言葉に救われているのに、心の奥にはまだ桜井がいる。


 それは、ずるいことなんじゃないか。


 放課後、帰りの電車の中。

 窓に映る自分の顔を見ながら、ふと想像してしまう。


 今頃、桜井は、白松と並んで歩いているのだろうか。笑い合っているのだろうか。


 胸が締めつけられる。

 けれど、以前のように息が詰まるほどではない。


 痛みは、確かにある。

 でも、どこか薄い。


 それが、怖かった。


 薄れていくことが、裏切りのように思えた。

 夜、ベッドに横たわる。

 部屋の明かりを消し、暗闇の中で目を閉じる。


 桜井の顔が浮かぶ。


 そのあとに、三浦の顔が浮かぶ。


 二つの像が重なって、ぐらぐらと揺れる。


 どちらも大切で、どちらも違う。

 涙がこぼれた。


 声を殺し、枕に顔を押しつける。

 桜井は戻らない。それは分かっている。


 三浦は待つと言った。


 それも分かっている。

 でも、自分はどうすればいいのか。


 誰かを忘れるって、どうやるんだろう。


 週末、映画館の暗がりの中で、幸子はそっと三浦の横顔を見ていた。

 スクリーンの光に照らされた横顔は、真剣で、少しだけ子どもの頃の面影を残している。

 中学の頃から、変わらない。


 真面目で、不器用で、優しい。


 自分が桜井のことで泣くたび、三浦は何も言わず隣にいてくれた。


「大丈夫か?」

 あの声を、何度聞いただろう。


 でも、その意味を考えたことはなかった。

 映画が終わり、カフェで向かい合う。


「ねえ、三浦」

「ん?」


「どうして、私なんかを好きになったの?」

 三浦は少し困ったように笑う。


「なんでって……」

「私、ずっと桜井のことばっかりだったのに」


「知ってるよ」

 あっさりとした返事。


「でも、それでも好きだった」

「どうして?」


「わからない」

 三浦は肩をすくめる。


「気づいたら、そうだった」

 その無防備な言葉に、胸が熱くなる。


「お前が笑うと、嬉しかった」

「泣いてたら、隣にいたかった」

「それだけだ」


 幸子は視線を落とした。


 こんなふうに、まっすぐ想われたことがあっただろうか。


「……ごめん」

「謝るな」


 三浦は即座に言う。

「焦らなくていい。俺は待つ」


 その言葉は優しい。

 優しいのに、どこか重い。「待つ」という約束。


 それは、時間を差し出すということだ。


 ある日の放課後。

 公園のベンチに座り、秋の空を見上げる。

 高くて、静かで、澄んでいる。


 スマートフォンを取り出し、桜井の名前を開く。


 指が止まる。


 連絡したい。


 声を聞きたい。


 でも――。


「桜井たちには、もう連絡するな」

 三浦の声が蘇る。


 ゆっくりと画面を閉じる。

 代わりに、三浦の名前を押した。


「もしもし?」

「三浦……」


 自分の声が少し震えている。


「桜井のことか?」

「うん……会いたくなった。でも、我慢してる」


 正直に言うと、電話の向こうで三浦が小さく息を吐いた。


「偉いな」

「偉くないよ。辛い」


「わかる」

 静かな声。


「でも、お前はちゃんと前に進もうとしてる」

 その言葉に、胸が少し軽くなる。


「今から会えるか?」

「え?」


「一人でいるんだろ。俺、行く」

 迷いのない声だった。


 30分後、公園に現れた三浦は、いつもと同じように自然だった。


「よう」

「来てくれたんだ」


「当たり前だろ」

 二人でベンチに座る。


 肩が、少しだけ触れる距離。


「まだ好きなんだな」

「うん」


「でも、少し変わった」

「どう?」


「最近は……三浦のことも考えてる」

 言った瞬間、心臓が跳ねる。


 三浦が目を見開く。


「俺のこと?」

「優しいから」


「支えてくれるから」

「それが、嬉しい」


 三浦はゆっくりと笑った。

 そして、そっと幸子の肩に手を置く。


「焦らなくていい」


 その手は温かい。安心する。桜井といたときの、不安に揺れる安心とは違う。穏やかで、静かな温もり。

 それが、今の幸子には心地よかった。


「これから、どうなるのかな」

「お前のペースでいい」


「一年でも、二年でも、待つ」


 その言葉に、涙が滲む。


「本当にいいの?」

「ああ」


「俺が好きだから。それだけで十分だ」

 幸子は、そっと三浦の腕にもたれた。


 拒まれない。

 包み込むような沈黙。


 このまま、少しずつ変わっていくのかもしれない。

 桜井を忘れる日が来るのかもしれない。

 三浦を、好きになる日が来るのかもしれない。


 まだ分からない。


 でも――。


 待っていてくれる人がいる。

 その事実が、今の幸子を、かろうじて前に進ませていた。

 そして気づかないまま、幸子は少しずつ三浦の方へと、重心を移し始めていた。


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