呪縛 (回想後編)
あの頃のことを、夢で見ることがある。
中学二年の冬。
あの日は、掃除当番だった。
幸子と二人で教室を片づけて、幸子がモップを洗いに行った。「すぐ戻るから」と言い残して廊下に消えた。俺は机を動かしながら、その足音が遠ざかるのを聞いていた。
しばらくして、気づいた。戻ってこない。
嫌な予感がした。廊下に出て、水道の方へ歩く。曲がり角の向こうから、幸子の声が聞こえた。
「やめて……」
走った。
水道のそばに、幸子が立っていた。壁際で後ずさりしながら、拳を固く握っている。その前には、竹中洋二が立っていた。にやにやと笑いながら、幸子との距離を詰めている。
「何してんだ」
俺の声に、竹中がゆっくり振り返った。
「おう、桜井。ちょうどいいところに」
取り巻きの一人が、素早く俺の腕を掴んだ。気づいた時には、身動きが取れなくなっていた。
竹中が幸子に向き直る。にやにやとした笑いは崩れない。
「俺と付き合わない? って聞いてただけだよ」
「ふざけるな!」
俺は竹中に掴みかかろうとした。でも、腕を押さえられたまま、動けなかった。幸子が強い声で言う。
「何度も断ってるのに! お願い、もうやめて……」
幸子の背中が壁に当たった。もう逃げ場がない。竹中がさらに近づく。
俺は取り巻きを振り払おうとした。力を込めた。でも、敵わなかった。
その瞬間、別の声が響いた。
「お前、女泣かせて何が楽しいんだよ!」
廊下の向こうから、鈴木進一郎が歩いてきた。怒りに満ちた顔で。迷いが、どこにもない顔で。
竹中が少し驚いた表情を見せる。
「鈴木……お前、関係ないだろ」
「関係ある」
鈴木は真っ直ぐ竹中に近づいて、胸ぐらを掴んだ。
「女困らせてる奴、見過ごせねえ」
「は? 正義の味方気取りか?」
「違う」
鈴木の声が低くなる。
「ただ、お前みたいな卑怯者が嫌いなだけだ」
取り巻きが鈴木に掴みかかろうとした。でも、鈴木は動じなかった。竹中を睨んだまま、離さない。
「竹中、お前、いい加減にしろ。中川さんに、これ以上近づくな」
「てめえ……」
竹中が拳を振り上げた、その瞬間。
「やめろ!」
三浦が走ってきた。二人の間に体を割り込ませ、鈴木の腕を掴む。
「やめろ、鈴木! 竹中、お前ももう行け!」
竹中が舌打ちをして、取り巻きと一緒に立ち去った。廊下に、重い静寂が落ちた。
幸子が鈴木の方へ歩み寄った。
「ありがとう……助けてくれて……」
「気にすんな。当然のことしただけだから」
鈴木が照れくさそうに言う。幸子が一瞬、その顔を見つめた。本当に一瞬だったけれど、俺にははっきり見えた。
そして幸子はすぐに俺の方へ来て、腕にしがみついた。
「桜井……」
俺は、何も言えなかった。
幸子を守ったのは、俺じゃない。
鈴木だ。俺は腕を押さえられたまま、ただ見ていた。それだけだ。
三浦が俺を見た。その目に、同情が混じっていた。それが、さらに胸に刺さった。
帰り道、幸子が言った。
「鈴木くん、すごかったね」
「ああ」
「私、あんな風に怒ってくれる人、初めて見た」
俺は、笑顔を作って答えた。
「すごいよな、鈴木は」
でも、それは嘘の笑顔だった。
幸子が、俺の腕をさらに強く握る。
「でも、桜井は違う。いつも側にいてくれる」
幸子が続ける。
「私が守ってほしいのは、桜井だから。それだけで十分」
俺には、十分じゃなかった。
幸子の家の前で別れて、一人で帰りながら考えた。鈴木の怒り。あれは、純粋だった。損得勘定なしに、ただ「卑劣な行為」に怒っていた。俺には、それができなかった。竹中が怖かった。取り巻きが怖かった。だから、何もできなかった。
情けない。本当に、情けない。
その夜、三浦から電話があった。
「桜井、お前、大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
「嘘つくな。顔見ればわかる」
「……まあな」
「お前と幸子、ちょっと依存しすぎてると思う」
三浦の声は、静かで落ち着いていた。
「幸子はお前に依存してる。そして、お前も、幸子を守ることに依存してる」
「……」
「健全な関係じゃないよな」
反論できなかった。三浦の言う通りだったから。
「でも、どうすればいいんだよ」
「少し、距離を置くことも必要じゃないか」
電話を切って、天井を見つめた。
距離を置く。
その言葉が、頭の中で静かに転がった。
そしてその夜、ふと思った。
もし、幸子とは違う高校に行ったら。
それから俺は、密かに勉強を始めた。市で一番偏差値の高い進学校、春青高校。幸子の成績では届かない高校。幸子が行きたがらない高校。そこを目指した。
幸子には言わなかった。ただ「受験があるから」と言い訳しながら、会う回数を減らした。幸子は不満そうだったが、俺は曖昧に誤魔化し続けた。
冬が来て、受験本番が終わった。
合格発表の日、掲示板に自分の番号を見つけた時、胸の奥で何かが弾けた。やった。受かった。
でも、すぐに重い現実が戻ってきた。
幸子に、話さなければならない。
翌日の午後、公園で幸子と会った。
冬の日差しが弱く、ベンチが冷たかった。幸子はいつもと変わらず俺の腕にしがみついて、「受験お疲れ様」と言った。
俺は深く息を吸った。
「実は……俺、春青高校を受けたんだ」
幸子の表情が、止まった。
「え……春青高校?」
「ああ」
「でも……私と同じ高校に行くって……」
声が震え始める。
「どうして……?」
言葉を絞り出す前に、再び深く息を吸った。スー……フゥーッ。
「ごめん。俺、やっぱりお前とは別の学校に行きたいんだ」
幸子が服を掴んだ。
「一緒の高校に行くって、約束したじゃない」
「わかってる。でも……」
「私じゃ、ダメなの?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、何?」
幸子が一歩近づく。俺は、反射的に一歩下がった。
その動きに、幸子が気づいた。目が揺れる。
「桜井……本当は、私から離れたいんでしょ」
何も言えなかった。図星だったから。
「やっぱり……私、邪魔だったんだ」
「そんなことない」
「嘘つき!」
幸子が服を強く掴んだ。
「ずっと一緒にいるって言ったじゃない!」
「ごめん」
それしか言えなかった。
幸子が崩れるように泣き出した。それを見て、胸が引き裂かれそうになった。でも、その奥で、どこか軽くなっていく自分もいた。やっと言えた。やっと、言ってしまった。
しばらくして、幸子が涙を拭きながら言った。
「お願い、落ちて」
「え……」
「落ちてくれたら、私と同じ高校に行けるでしょ。お願い。私、桜井がいないとダメなの」
その言葉の重さが、胸にのしかかった。
「ごめん」
俺はゆっくり言った。
「俺、受かったんだ」
幸子の体から、力が抜けた。
「……受かったの」
「ああ」
「じゃあ、もう決まってるんだ。私と……離れるって」
「ごめん」
幸子はまた泣き出した。今度は声を上げて。その泣き声が、冬の公園に響いた。
俺は立ち尽くしていた。
やがて、幸子は泣き止んだ。真っ赤な目で俺を見た。
「俺……自由になりたいんだ」
幸子の顔が、傷ついたように歪んだ。そして、静かに俯いた。
「私、桜井を縛ってた」
小さな声だった。
「わかってた。でも……やめられなかった。怖かったの。桜井がいなくなるのが」
「ごめん」
「謝らないで」
幸子が顔を上げた。微かに笑っていた。
「桜井は悪くない。私が、おかしかったんだ」
幸子は立ち上がって、背を向けた。
「じゃあ……もう行くね」
俺は呼び止めようとして、やめた。
これでいい。これで、終わったんだ。
幸子の姿が公園の出口に消えた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
解放された。やっと、解放された。
ベンチに座ったまま、空を見上げる。灰色の冬空。重い色の空だった。それでも、心は少し軽かった。
あの呪縛が、外れた。
でも。
胸の奥には、罪悪感が残っていた。幸子を傷つけた。裏切った。その事実だけは消えない。ずっと消えない。
意識が現在に戻ってくる。
天井が、見える。ベッドに横になったまま、俺は目を閉じた。
私が守ってほしいのは、桜井だから。
ずっと一緒にいるって言ったじゃない。
私、桜井がいないとダメなの。
声が、順番に耳をよぎる。
あの頃の幸子は、本当に俺を必要としていた。そして俺も、必要とされることで、やっと自分の居場所を感じていた。それは愛情だったのかもしれない。でも、歪んでいた。
鈴木が怒ってくれたあの日。俺には、できなかったことを、鈴木はやった。腕を押さえられたまま、何もできなかった俺。その記憶は鈍く残っている。
でも、今は違う。
白松さんがいる。鈴木がいる。三浦がいる。
過去は消えない。でも、前には進める。
そう思えるようになったのは、きっとここまで来たからだ。逃げながら、傷つけながら、それでも少しずつ、ここまで来たからだ。




