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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第五章

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呪縛 (回想後編)

 あの頃のことを、夢で見ることがある。


 中学二年の冬。

 あの日は、掃除当番だった。


 幸子と二人で教室を片づけて、幸子がモップを洗いに行った。「すぐ戻るから」と言い残して廊下に消えた。俺は机を動かしながら、その足音が遠ざかるのを聞いていた。


 しばらくして、気づいた。戻ってこない。

 嫌な予感がした。廊下に出て、水道の方へ歩く。曲がり角の向こうから、幸子の声が聞こえた。


「やめて……」

 走った。


 水道のそばに、幸子が立っていた。壁際で後ずさりしながら、拳を固く握っている。その前には、竹中洋二(たけなかようじ)が立っていた。にやにやと笑いながら、幸子との距離を詰めている。


「何してんだ」

 俺の声に、竹中がゆっくり振り返った。


「おう、桜井。ちょうどいいところに」


 取り巻きの一人が、素早く俺の腕を掴んだ。気づいた時には、身動きが取れなくなっていた。


 竹中が幸子に向き直る。にやにやとした笑いは崩れない。


「俺と付き合わない? って聞いてただけだよ」

「ふざけるな!」


 俺は竹中に掴みかかろうとした。でも、腕を押さえられたまま、動けなかった。幸子が強い声で言う。


「何度も断ってるのに! お願い、もうやめて……」


 幸子の背中が壁に当たった。もう逃げ場がない。竹中がさらに近づく。


 俺は取り巻きを振り払おうとした。力を込めた。でも、敵わなかった。

 その瞬間、別の声が響いた。


「お前、女泣かせて何が楽しいんだよ!」


 廊下の向こうから、鈴木進一郎が歩いてきた。怒りに満ちた顔で。迷いが、どこにもない顔で。

 竹中が少し驚いた表情を見せる。


「鈴木……お前、関係ないだろ」

「関係ある」

 鈴木は真っ直ぐ竹中に近づいて、胸ぐらを掴んだ。


「女困らせてる奴、見過ごせねえ」

「は? 正義の味方気取りか?」


「違う」

 鈴木の声が低くなる。


「ただ、お前みたいな卑怯者が嫌いなだけだ」

 取り巻きが鈴木に掴みかかろうとした。でも、鈴木は動じなかった。竹中を睨んだまま、離さない。


「竹中、お前、いい加減にしろ。中川さんに、これ以上近づくな」

「てめえ……」

 竹中が拳を振り上げた、その瞬間。


「やめろ!」

 三浦が走ってきた。二人の間に体を割り込ませ、鈴木の腕を掴む。


「やめろ、鈴木! 竹中、お前ももう行け!」


 竹中が舌打ちをして、取り巻きと一緒に立ち去った。廊下に、重い静寂が落ちた。


 幸子が鈴木の方へ歩み寄った。


「ありがとう……助けてくれて……」

「気にすんな。当然のことしただけだから」


 鈴木が照れくさそうに言う。幸子が一瞬、その顔を見つめた。本当に一瞬だったけれど、俺にははっきり見えた。


 そして幸子はすぐに俺の方へ来て、腕にしがみついた。


「桜井……」

 俺は、何も言えなかった。


 幸子を守ったのは、俺じゃない。


 鈴木だ。俺は腕を押さえられたまま、ただ見ていた。それだけだ。

 三浦が俺を見た。その目に、同情が混じっていた。それが、さらに胸に刺さった。


 帰り道、幸子が言った。


「鈴木くん、すごかったね」

「ああ」


「私、あんな風に怒ってくれる人、初めて見た」

 俺は、笑顔を作って答えた。


「すごいよな、鈴木は」


 でも、それは嘘の笑顔だった。

 幸子が、俺の腕をさらに強く握る。


「でも、桜井は違う。いつも側にいてくれる」

 幸子が続ける。

「私が守ってほしいのは、桜井だから。それだけで十分」


 俺には、十分じゃなかった。


 幸子の家の前で別れて、一人で帰りながら考えた。鈴木の怒り。あれは、純粋だった。損得勘定なしに、ただ「卑劣な行為」に怒っていた。俺には、それができなかった。竹中が怖かった。取り巻きが怖かった。だから、何もできなかった。


 情けない。本当に、情けない。

 その夜、三浦から電話があった。


「桜井、お前、大丈夫か?」

「大丈夫だよ」


「嘘つくな。顔見ればわかる」

「……まあな」


「お前と幸子、ちょっと依存しすぎてると思う」

 三浦の声は、静かで落ち着いていた。


「幸子はお前に依存してる。そして、お前も、幸子を守ることに依存してる」

「……」


「健全な関係じゃないよな」

 反論できなかった。三浦の言う通りだったから。


「でも、どうすればいいんだよ」

「少し、距離を置くことも必要じゃないか」


 電話を切って、天井を見つめた。

 距離を置く。


 その言葉が、頭の中で静かに転がった。

 そしてその夜、ふと思った。


 もし、幸子とは違う高校に行ったら。


 それから俺は、密かに勉強を始めた。市で一番偏差値の高い進学校、春青高校。幸子の成績では届かない高校。幸子が行きたがらない高校。そこを目指した。


 幸子には言わなかった。ただ「受験があるから」と言い訳しながら、会う回数を減らした。幸子は不満そうだったが、俺は曖昧に誤魔化し続けた。


 冬が来て、受験本番が終わった。


 合格発表の日、掲示板に自分の番号を見つけた時、胸の奥で何かが弾けた。やった。受かった。


 でも、すぐに重い現実が戻ってきた。

 幸子に、話さなければならない。


 翌日の午後、公園で幸子と会った。


 冬の日差しが弱く、ベンチが冷たかった。幸子はいつもと変わらず俺の腕にしがみついて、「受験お疲れ様」と言った。

 俺は深く息を吸った。


「実は……俺、春青高校を受けたんだ」

 幸子の表情が、止まった。


「え……春青高校?」

「ああ」


「でも……私と同じ高校に行くって……」

 声が震え始める。


「どうして……?」


 言葉を絞り出す前に、再び深く息を吸った。スー……フゥーッ。


「ごめん。俺、やっぱりお前とは別の学校に行きたいんだ」


 幸子が服を掴んだ。


「一緒の高校に行くって、約束したじゃない」

「わかってる。でも……」


「私じゃ、ダメなの?」

「そういうことじゃない」


「じゃあ、何?」

 幸子が一歩近づく。俺は、反射的に一歩下がった。

 その動きに、幸子が気づいた。目が揺れる。


「桜井……本当は、私から離れたいんでしょ」

 何も言えなかった。図星だったから。


「やっぱり……私、邪魔だったんだ」

「そんなことない」


「嘘つき!」

 幸子が服を強く掴んだ。


「ずっと一緒にいるって言ったじゃない!」

「ごめん」


 それしか言えなかった。

 幸子が崩れるように泣き出した。それを見て、胸が引き裂かれそうになった。でも、その奥で、どこか軽くなっていく自分もいた。やっと言えた。やっと、言ってしまった。


 しばらくして、幸子が涙を拭きながら言った。

「お願い、落ちて」

「え……」


「落ちてくれたら、私と同じ高校に行けるでしょ。お願い。私、桜井がいないとダメなの」

 その言葉の重さが、胸にのしかかった。


「ごめん」

 俺はゆっくり言った。


「俺、受かったんだ」

 幸子の体から、力が抜けた。


「……受かったの」

「ああ」


「じゃあ、もう決まってるんだ。私と……離れるって」

「ごめん」


 幸子はまた泣き出した。今度は声を上げて。その泣き声が、冬の公園に響いた。

 俺は立ち尽くしていた。

 やがて、幸子は泣き止んだ。真っ赤な目で俺を見た。


「俺……自由になりたいんだ」

 幸子の顔が、傷ついたように歪んだ。そして、静かに俯いた。


「私、桜井を縛ってた」

 小さな声だった。


「わかってた。でも……やめられなかった。怖かったの。桜井がいなくなるのが」

「ごめん」


「謝らないで」

 幸子が顔を上げた。微かに笑っていた。


「桜井は悪くない。私が、おかしかったんだ」

 幸子は立ち上がって、背を向けた。


「じゃあ……もう行くね」


 俺は呼び止めようとして、やめた。

 これでいい。これで、終わったんだ。


 幸子の姿が公園の出口に消えた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 解放された。やっと、解放された。


 ベンチに座ったまま、空を見上げる。灰色の冬空。重い色の空だった。それでも、心は少し軽かった。

 あの呪縛が、外れた。


 でも。

 胸の奥には、罪悪感が残っていた。幸子を傷つけた。裏切った。その事実だけは消えない。ずっと消えない。


 意識が現在に戻ってくる。

 天井が、見える。ベッドに横になったまま、俺は目を閉じた。


 私が守ってほしいのは、桜井だから。

 ずっと一緒にいるって言ったじゃない。

 私、桜井がいないとダメなの。


 声が、順番に耳をよぎる。


 あの頃の幸子は、本当に俺を必要としていた。そして俺も、必要とされることで、やっと自分の居場所を感じていた。それは愛情だったのかもしれない。でも、歪んでいた。

 鈴木が怒ってくれたあの日。俺には、できなかったことを、鈴木はやった。腕を押さえられたまま、何もできなかった俺。その記憶は鈍く残っている。


 でも、今は違う。


 白松さんがいる。鈴木がいる。三浦がいる。

 過去は消えない。でも、前には進める。


 そう思えるようになったのは、きっとここまで来たからだ。逃げながら、傷つけながら、それでも少しずつ、ここまで来たからだ。


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