やさしい別れのあとで
三浦に連絡を入れたのは、白松さんと話した翌日のことだった。
「幸子と会う。日程を調整してくれ」
すぐに返信が来た。
「わかった。また連絡する」
数日後、三浦から日時と場所が送られてきた。
「今週の土曜、午後二時。駅前のカフェで」
その日まで、俺は落ち着かなかった。
白松さんは心配そうに俺を見ていたけれど、何も言わなかった。
ただ、いつもより優しく接してくれた。
土曜日の朝、いつもより早く目が覚めた。窓の外を見ると、曇り空が広がっている。
今にも雨が降りそうな、重苦しい空だった。
シャワーを浴びて、服を選ぶ。
シンプルな紺色のセーターに、黒いパンツ。
鏡の前で髪を整えながら、深呼吸を繰り返す。
「大丈夫。ちゃんと話せる」
自分に言い聞かせて、家を出た。
駅に着くと、まだ時間があった。
午後1時30分。30分も早い。
近くのベンチに座って、時間を潰す。スマホを見ると、白松さんからメッセージが届いていた。
「頑張ってね。待ってるから」
その言葉に、胸が温かくなる。
「ありがとう。終わったら連絡する」
そう返信して、立ち上がる。
約束のカフェへ向かった。
店に入ると、奥の席に三浦が座っているのが見えた。
そして、その向かいに――幸子がいた。
一年以上ぶりに見る彼女は、以前と変わらない雰囲気だった。
髪の長さも、服装の雰囲気も、中学の時とあまり変わっていない。
「桜井」
三浦が手を上げた。ゆっくりと席に近づく。
心臓が早鐘を打っている。
「よう」
声をかけると、幸子が顔を上げた。
その瞬間、時間が止まったような感覚があった。
「……久しぶり」
幸子が小さく言った。
「ああ」
俺も短く答える。
三浦が立ち上がった。
「じゃあ、俺は向こうの席にいるから。ゆっくり話してくれ」
そう言って、カウンター席の方へ移動していった。
俺は幸子の向かいに座った。
テーブルを挟んで、二人きり。
気まずい沈黙が流れる。
何から話していいのか分からなくて、とりあえず店員を呼んでコーヒーを注文した。
幸子は紅茶を頼んでいたようで、カップが既に置かれている。
「元気だった?」
幸子が先に口を開いた。
「ああ、まあ」
「そっか」
また沈黙。
飲み物が来て、俺はコーヒーを一口飲む。
少し熱すぎた。
「あのね……」
幸子が静かに言った。
「会いたかったの」
その言葉に、胸がざわつく。
「幸子……」
「桜井が、他の女の子と付き合ってるって聞いて」
幸子の声が、少し震えている。
「それで、どうしても会って話したくなった」
「……」
「私、まだ桜井のこと、忘れられない」
その告白に、息を呑む。
「幸子、俺たちはもう……」
「わかってる」
幸子が俯く。
「わかってるの。でも、気持ちは消えないの」
その言葉が、重く胸に響く。
「桜井と別れてから、ずっと考えてた」
幸子が続ける。
「私が悪かったって。束縛しすぎたって」
「幸子……」
「でも、それは桜井が好きだったからで」
幸子が顔を上げる。
その目には、涙が浮かんでいた。
「桜井が好きな子、どんな人?」
その質問に、少し躊躇う。
でも、嘘をつくわけにはいかない。
「優しくて、本が好きで……俺を、そのまま受け入れてくれる人」
幸子の表情が、歪んだ。
「そう……私みたいに、束縛したりしないんだ」
「幸子……」
「私、変わろうとしてる」
幸子が身を乗り出す。
「だから、もう一度チャンスくれない?」
その言葉に、心が痛む。でも、答えは決まっていた。
「ごめん」
俺は首を振った。
「今の俺には、白松さんしかいない」
幸子の顔から、血の気が引いていく。
「そんな……」
「幸子、俺たちは終わったんだ」
「でも……」
「三浦、お前のこと好きなんだぞ」
その言葉に、幸子は少し驚いたような顔をした。
「三浦が?」
「ああ。ずっと前から」
「知らなかった……」
幸子が泣き出した。静かに、でも止まらない涙。しばらく沈黙が続いた。
幸子は涙を拭おうともせず、ただ泣いていた。
やがて、幸子が顔を上げた。目は赤く腫れていた。
「わかった」
小さく呟いた。
「邪魔しないから」
そう言って立ち上がる。
「幸子……」
「桜井、幸せにね」
その言葉には、複雑な感情が滲んでいた。
祝福なのか、呪いなのか、それとも――
幸子は鞄を持って、店を出ていった。
三浦が慌てて追いかける。
俺は一人、席に残された。コーヒーカップを見つめながら、今起きたことを反芻する。
これで、終わったんだろうか。
本当に、これで? 何か引っかかるものがあった。
幸子の最後の目。
あの目には、何か執着のようなものが残っていた気がする。
本当に諦めたのだろうか。不安が、胸の奥でざわついた。
店を出て、駅へ向かう。
空から、ぽつぽつと雨が降り始めた。
電車を待つ中、白松さんに電話をかけた。
「もしもし?」
「終わったよ」
「お疲れ様。大丈夫だった?」
「ああ。ちゃんと話せた……と思う」
「思う?」
「うん。ちょっと、複雑で」
白松さんの声が、少し不安そうになる。
「会える? 今から」
「うん。いつもの公園で待ってる」
公園に着くと、白松さんはすでにベンチに座っていた。
小雨の中、傘をさして。
「ごめん、待たせた」
「ううん」
俺も傘をさして、隣に座る。
そして、今日のことを全て話した。
幸子の告白。俺の返事。そして、彼女の涙。白松さんは静かに聞いていた。
「幸子さん、まだ桜井くんのこと好きなんだ……」
「……でも、俺ははっきり断った」
白松さんが少し不安そうな表情を見せる。
「本当に、大丈夫かな」
「何が?」
「ちゃんと、諦めてくれるかな」
その言葉に、俺も不安になる。
あの幸子の最後の目を思い出す。
「大丈夫だよ。俺が好きなのは、白松さんだけだから」
でも、白松さんの不安は消えない様子だった。
「私……怖い」
「怖い?」
「幸子さんに、桜井くんを取られちゃうんじゃないかって」
その言葉に、胸が痛む。俺は白松さんを抱きしめた。
「そんなことない。絶対にない」
白松さんが、俺の胸で泣き始めた。
「ごめん……自信がなくて」
「白松さん」
「私、桜井くんを失いたくない」
その言葉が、胸に刺さる。
「失わないよ。俺は、ずっと白松さんのそばにいる」
「本当?」
「ああ。約束する」
雨の音が、静かに響いている。
二人で抱き合ったまま、しばらく黙っていた。
「帰ろう」
「うん」
立ち上がって、白松さんの家へ向かう。
途中、白松さんが小さく言った。
「桜井くん、ありがとう」
「何が?」
「ちゃんと、話してくれて」
「当たり前だろ」
「でも、嬉しい」
白松さんの家の前で別れる。
「じゃあ、また明日」
「うん。気をつけて帰ってね」
「ああ」
幸子との再会。彼女の涙。
そして、白松さんの不安。
本当に、これで終わったのだろうか。
幸子は、本当に諦めてくれるのだろうか。
不安が、消えなかった。
幸子の最後の言葉。
「邪魔しないから」
あの目は、あの頃と変わらない。
幸子の目。
あの執着に満ちた目。
俺は、あの目を知っている。
中学の時から、ずっと。




