49 となりの席 (回想1/10)
あの目は、あの頃と変わらない。
中学1年の春。
入学式の日、俺は体育館の端の席に座っていた。周りの生徒たちは、知り合いらしき相手と楽しそうに話している。小学校からの友達なのだろう。笑い声が響いている。
俺は、誰とも話さなかった。話しかける勇気もなければ、話しかけられることもなかった。新しい制服。新しい教室。新しいクラスメイト。全てが新しいはずなのに、俺の立ち位置は変わらなかった。教室の隅で、静かに時間が過ぎるのを待つだけ。
小学校でもそうだった。友達はあまりいなかった。休み時間は静かに本を読んでいた。それが一番楽だった。中学でも、きっと同じになる。そう思っていた。
校長の話が終わり、各クラスに分かれてホームルームが始まった。俺は1年3組。教室に入ると、すでに半分くらいの生徒が席についていた。窓際の席に座る。担任の先生が入ってきた。40代くらいの男性教師。名前は神谷先生。
「みなさん、入学おめでとうございます。これから3年間、一緒に頑張りましょう」
神谷先生が笑顔で言う。
「まず、出席番号順に自己紹介をしてもらいます」
一人ずつ、名前と出身小学校、好きなことを言っていく。俺の番が来た。
「桜井悠人です。本を読むのが好きです。よろしくお願いします」
短く言って、座る。周りから特に反応はなかった。それでいい。
自己紹介が終わって、担任が言った。
「では、学級委員を決めます。誰かやりたい人はいますか?」
教室が静まり返った。誰も手を上げない。俺は、少し考えた。
学級委員。誰もやりたがらない役割。でも、もしかしたら、これは俺にとってチャンスかもしれない。友達がいない。これからもできないかもしれない。だったら、何か別の形で自分の居場所を作る必要がある。学級委員なら、クラスの代表として先生と話す機会がある。それが、ある種の「役割」になる。役割があれば、一人でいることに理由ができる。
俺は手を上げた。
「桜井です。やります」
神谷先生が少し驚いたような顔をした。
「桜井くん、本当にいいですか?」
「はい」
「ありがとう。では、もう一人……」
その時、もう一人手が上がった。
「私、やります」
女子の声だった。振り返ると、ショートカットの髪の女子が手を上げていた。
「中川幸子です」
神谷先生が頷いた。
「わかりました。では、桜井くんと中川さんに学級委員をお願いします」
こうして、俺と幸子は学級委員になった。
ホームルームが終わって、神谷先生が俺たちを呼んだ。
「二人とも、ありがとう。学級委員の仕事は主に、朝と帰りのホームルームの進行と、先生との連絡役です。困ったことがあったら、いつでも相談してください」
「はい」
俺と幸子が同時に答えた。
教室に戻ると、席替えが発表された。
「桜井悠人、3列目の窓側」
俺は指定された席に座る。窓の外を見ると、桜の木が見えた。もう葉桜になっている。
「隣、いいかな」
声がした。振り返ると、さっきの女子——中川幸子が立っていた。
「私、ここみたい」
そう言って、幸子は俺の隣の席に座った。
「学級委員、一緒だね」
幸子がにこっと笑う。
「ああ」
「よろしくね」
「こちらこそ」
幸子が机の上に置いてあった俺の文庫本に目を留めた。
「本、好きなの?」
「まあ……好き」
「私も好き。何読んでるの?」
幸子が本の表紙を覗き込む。
「ミステリー?」
「うん」
「面白い?」
「面白い」
「へぇ。貸して」
「え?」
「読み終わったら、貸してよ」
幸子がまた笑った。
「いいよ」
そう答えると、幸子は嬉しそうに頷いた。
「やった。楽しみ」
それが、幸子との最初の会話だった。
午前中の授業が終わって、昼休みになった。俺は机に弁当を広げて、一人で食べ始めた。いつものことだ。周りを見ると、みんなグループを作って楽しそうに話している。小学校からの友達同士なのだろう。俺には、そういう相手がいない。一人で黙々と弁当を食べる。
「桜井くん」
幸子の声がした。顔を上げると、幸子が弁当箱を持って立っていた。
「一人?」
「うん」
「じゃあ一緒に食べよう」
幸子が当たり前のように隣の席に座る。
「いいの?」
「何が?」
「一緒に食べて」
「よくないの?」
幸子が不思議そうな顔をする。
「……いや、いい」
「じゃあ決まり」
幸子が弁当を開ける。色とりどりのおかずが詰まっている。卵焼き、唐揚げ、ミニトマト、ブロッコリー。丁寧に詰められている。
「お母さんが作ったの。張り切っちゃって。入学して間もないからって、朝から頑張ってたんだよ。いつもより1時間早く起きて」
「そうなんだ」
「桜井くんのは?」
「俺も、母さんが」
「へぇ。お母さん、料理上手?」
「まあ、普通」
「謙遜しない。絶対美味しいって」
幸子が俺の弁当を覗き込む。
「卵焼き、美味しそう」
「食べる?」
思わず聞いていた。
「いいの?」
「うん」
「じゃあ、一個もらう」
幸子が箸で卵焼きを取って、口に入れる。
「美味しい! お母さん、料理上手だよ」
「そうか」
「うん。私のも食べてみて」
幸子が自分の弁当から唐揚げを取って、俺の弁当箱に入れる。
「ほら」
「ありがとう」
食べると、確かに美味しかった。外はカリッとしていて、中はジューシー。
「美味しい」
「でしょ? お母さん、唐揚げは自信があるんだって」
幸子が嬉しそうに笑う。それから、幸子はよく喋った。
「ねえ、部活何に入る?」
「まだ考えてない」
「私、本当は別の委員やりたかったんだけど、学級委員になっちゃったから無理だよね」
「そうだな」
「でも、学級委員も悪くないかな。桜井くんと一緒だし」
その言葉に、少し驚いた。
「俺?」
「うん。なんか、やりやすそう。桜井くん、静かだけど、ちゃんと聞いてくれるから」
幸子が笑う。その笑顔は、本当に自然で、明るかった。俺はほとんど聞いているだけだったが、幸子は気にしていないようだった。むしろ、楽しそうに話し続けた。
「あのね、私よくドッジボールやサッカーが好きで男子に交じってたの」
「俺もドッジボール好きだった」
「え、本当?」
幸子が嬉しそうに身を乗り出す。
「うん。休み時間、よくやってた」
「一緒じゃん! 上手いの?」
「ボールを当てるのは下手だけど、キャッチは自信ある」
「へぇ。でも中学になるとみんなドッジボールしなくなるよね」
「どうしてだろ?」
「……」
俺は少し考えた。
「大人になるからかな」
鞄から本を取り出す。
「これ、面白かったんだ。よかったら」
「ありがとう。読んでみる」
幸子が本を受け取って、嬉しそうに表紙を眺める。
「お返しに今度、私もおすすめ貸すね」
「ああ」
昼休みの終わり際、幸子がふとそう言った。
「桜井くんって、聞き上手だね」
「そう?」
「うん。ちゃんと聞いてるでしょ? わかるよ。ありがとう。話すの好きなんだ、私。でも、聞いてくれない人も多いから。桜井くんは、ちゃんと聞いてくれる。それが嬉しい」
その言葉に、胸が熱くなった。
「俺も、中川さんの話、面白い」
「本当?」
「うん」
「良かった」
幸子が本当に嬉しそうに微笑んだ。
放課後になった。朝のホームルームと同じように、帰りのホームルームがある。学級委員の仕事だ。
「えっと、じゃあ……」
俺が前に立って、どう進めていいかわからず戸惑っていると、幸子が隣に立った。
「じゃあ、帰りのホームルームを始めます」
幸子がはっきりとした声で言う。
「起立。礼」
みんなが立ち上がって、神谷先生に礼をする。
「ありがとうございました」
「はい、お疲れ様でした。明日も元気に来てください」
神谷先生が笑顔で言う。
「着席」
幸子が言って、みんなが座る。ホームルームが終わった。俺は幸子に言った。
「ありがとう。助かった」
「大丈夫。最初は緊張するよね。慣れれば簡単だから」
「うん」
教室を出ようとすると、幸子が鞄を持って立っていた。
「桜井くん、どっち方面?」
「北商店街の方」
「一緒じゃん。私も北商店街の先。一緒に帰ろ」
「いいの?」
「何が? 別に、誰と帰ったっていいでしょ」
「そうだけど……」
「じゃあ決まり」
校門を出て、北の商店街へ向かう道を並んで歩く。春の風が気持ちいい。桜の花びらが、時々風に乗って舞っている。
幸子がまた喋り始めた。
「ねえ、桜井くん。今日の授業、どうだった?」
「普通かな」
「英語、ちょっと難しくなかった?」
「まあ、小学校の時とは違うからな」
「そうだよね。でも、頑張らなきゃ。中学って、小学校と全然違うね」
「うん」
「制服着るのも、なんか不思議な感じ」
「わかる」
「桜井くん、制服似合ってるよ。なんか、大人っぽい」
幸子が笑う。
「ありがとう」
商店街を抜けて、住宅街に入る。静かな道だ。
「あ、そうだ。私、この先の角を曲がったところ」
幸子が住宅街の奥を指さす。
「そうなんだ。俺はもうちょっと先」
「じゃあ、途中まで一緒だね。明日も一緒に帰ろうね」
幸子が当然のように言う。
「うん」
「やった」
幸子が嬉しそうに笑った。角まで来ると、幸子が立ち止まった。
「じゃあ、また明日。学級委員、頑張ろうね」
幸子が手を振る。
次の日も、幸子は朝から明るく話しかけてきた。
「おはよう、桜井くん」
「おはよう」
「昨日貸してくれた本、読み始めた。面白い。続き気になる」
「良かった」
「ありがとう」
朝のホームルームが始まった。今日は俺が進行する番だった。
「起立」
俺が言うと、みんなが立ち上がる。
「礼」
神谷先生に礼をする。
「おはようございます」
「はい、おはようございます。今日も一日頑張りましょう」
「着席」
無事に進行できた。幸子が小さく親指を立てた。「できたね」という合図だ。昼休みも、幸子は当然のように隣に座った。
「今日も一緒に食べよう」
「うん」
それが習慣になっていった。朝、幸子が話しかけてくる。昼休み、一緒に弁当を食べる。放課後、一緒に帰る。幸子がよく喋り、俺が聞く。それが二人のパターンだった。
一週間が過ぎた頃、幸子が言った。
「ねえ、桜井くん。友達、できた?」
「え?」
「クラスの他の子と」
「まあ……少し」
本当は、あまりできていなかった。幸子以外とは、ほとんど話していない。
「そっか。私は、桜井くんと友達になれて良かった」
その言葉に、胸が熱くなった。
「俺も」
「本当?」
「うん」
「嬉しい」
幸子が本当に嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、俺は思った。
幸子は、初めて俺を「そのまま」受け入れてくれた人だった。無口でも、暗くても、一人でいることが多くても。幸子は気にしなかった。それどころか、「聞き上手」だと言ってくれた。俺の中に、初めて誰かに必要とされている感覚が生まれた。それが、後に俺を縛ることになるとは、その時はまだわからなかった。
幸子の笑顔は、本当に眩しかった。俺にとって、幸子は特別な存在になっていった。




