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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第四章

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恋人としての距離

 

 CDを聴いた翌日の朝、目が覚めると同時に昨日のことが鮮明に蘇ってきた。

 図書室で二人きり、イヤホンを分け合ってカオルの音楽を聴いた時間。白松さんが過去の話をしてくれたこと。そして――「これからも、一緒にいてくれる?」と聞かれた時の、あの胸の高鳴り。


「……付き合ってる、んだよな」

 小さく呟いて、枕に顔を埋める。昨日までとは何かが違う。でも、具体的に何が変わったのかと聞かれると、うまく言葉にできない。


 制服に着替えながら、鏡の中の自分を見つめる。別に顔が変わったわけじゃない。でも、どこか表情が緩んでいる気がした。


「おはよう、悠人」

 階段を降りると、母さんが朝食の準備をしていた。


「おはよう」


「今日も早いわね。最近、すごく調子良さそう」

 母さんの言葉に、少し照れくさくなる。


「まあ、普通だよ」


「そう? でも、お母さんは嬉しいわ。あなたがちゃんと前を向いてるのが分かるから」

 その言葉が、じんわりと胸に染み込んでくる。入院する前の俺は、きっと母さんを心配させてばかりだった。


「……ありがとう、母さん」


 思わずそう言うと、母さんは少し驚いたように目を見開いてから、優しく微笑んだ。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」


 家を出て、いつもの通学路を歩く。秋の朝は肌寒いけれど、空気が澄んでいて気持ちいい。

 白松さんに会ったら、何て話しかけよう。「おはよう」だけでいいのか。それとも、何か特別な言葉をかけるべきなのか。


 考えれば考えるほど、緊張してくる。


 校門をくぐると、すでに何人かの生徒が登校していた。下駄箱で靴を履き替えながら、ふと視線を感じて顔を上げる。

 廊下の向こうに、白松さんの姿があった。


 彼女も俺に気づいたようで、少し驚いたような顔をしてから、小さく手を振った。

 思わず手を振り返すと、白松さんは少し頬を赤らめて、友達と一緒に階段を上っていった。


「……よし」


 深呼吸をして、俺も教室へ向かう。

 教室のドアを開けると、すでに何人かのクラスメイトが席についていた。白松さんは窓際の席で、いつものように本を読んでいる。


 自分の席に向かいながら、彼女の横を通る。目が合う。


「おはよう」


 声をかけると、白松さんは本から顔を上げて微笑んだ。

「おはよう、桜井くん」


 その笑顔に、胸が少しだけ温かくなる。でも、昨日までと何か違う気がした。いつもより少し、恥ずかしい。


 席に着いて荷物を置くと、後ろから声がかかった。


「よう、桜井」

 振り返ると、鈴木が意味ありげな顔でこちらを見ていた。


「……何だよ」


「いやー、なんか今日、お前の顔が違うなって」

「は?」


「ニヤニヤしてんぞ、お前」


 その言葉に、思わず顔を触る。


「してねえよ」

「いやいや、してるって。で、昨日はどうだったんだ?」


 鈴木が小声で聞いてくる。


「……普通に、CDを聴いただけだよ」


「へえ。で、それだけ?」

「……それだけ」


 そう答えたものの、声が少し上ずっている自覚があった。鈴木はニヤニヤしながら肩を叩いてきた。


「まあ、頑張れよ。応援してるからな」


「何をだよ」


「知らねえよ。お前が頑張ろうとしてることだよ」


 そう言い残して、鈴木は自分の席に戻っていった。

 ホームルームが始まり、担任の先生が出欠を取る。いつもと変わらない日常。でも、なぜか今日は全てが新鮮に感じられた。


 一時間目の授業が始まる。数学の時間。黒板に書かれた公式を写しながら、ふと白松さんの方を見てしまう。

 彼女は真剣な表情でノートを取っていた。その横顔を見つめていると、不意に彼女がこちらを向いた。

 視線が合う。

 慌てて黒板に視線を戻すと、心臓がドクドクと音を立てる。白松さんは小さく笑っていた気がした。

 二時間目が終わり、休み時間。宮田が白松さんの席に近づいていくのが見えた。


「ゆり、昨日は楽しかった?」

 小声で話しているが、教室が静かなので聞こえてくる。

「うん……すごく」

 白松さんの声も小さい。でも、どこか嬉しそうだった。


「良かったね。桜井くんと、ちゃんと話せた?」

「うん。いろいろ……話せたよ」


「そっか。ゆりの顔、すごくいい顔してる」

「そう……かな」


 その会話を聞いて、思わず口元が緩む。白松さんも、昨日のことを嬉しく思ってくれているんだ。


 三時間目の英語の授業中、先生がペアワークを指示した。


「隣の人と組んで、この会話文を練習してください」


 俺の隣の席は空席で、前の席は白松さんだった。


「……桜井くん」

 白松さんが振り返って、小さく声をかけてきた。


「一緒にやる?」


「あ、ああ」


 白松さんが椅子を少し後ろに引いて、俺の机の方を向く。二人の距離が近くなった。


「じゃあ、私がAで、桜井くんがBね」

「わかった」


 教科書を見ながら、交互に英文を読み上げる。白松さんの発音は綺麗で、聞いていて心地よかった。

 でも、集中できない。彼女の顔が近くて、シャンプーの香りがして、それだけで頭がいっぱいになる。


「桜井くん、次はそっちの番だよ」

 白松さんに言われて、慌てて教科書に目を戻す。

「あ、ごめん」


「大丈夫。どこか分からなくなった?」

「いや、その……」

 言葉に詰まると、白松さんは小さく笑った。


「私も、ちょっと集中できてないから」

 その言葉に、少し救われた気がした。白松さんも、同じ気持ちなんだ。


 四時間目が終わり、昼休みになった。


「桜井」

 鈴木が声をかけてきた。


「屋上、行くか?」

「ああ、そうだな」


 立ち上がろうとすると、白松さんも席を立っていた。宮田と一緒に教室を出ていくところだった。

 廊下で追いつくと、白松さんが振り返った。


「あ、桜井くん」


「屋上、行くのか?」

「うん。お弁当食べようと思って」

「俺も」


 そう答えると、白松さんは少し嬉しそうに微笑んだ。

 階段を上って屋上のドアを開けると、秋の風が吹き抜けていった。空は青く澄んでいて、雲がゆっくりと流れている。


 いつもの場所――フェンスの近くのベンチに、六人で座った。俺と鈴木、白松さんと宮田、それに他のクラスメイト二人。

 弁当を広げて食べ始めると、鈴木が口を開いた。

「なあ、お前ら見てると、なんか微笑ましいんだよな」


「何がだよ」

「いや、だってさ」鈴木がニヤニヤしながら言う。「お前ら、付き合ってんのに初々しすぎだろ」

 その言葉に、思わず弁当箱を落としそうになる。白松さんも顔を真っ赤にしていた。


「鈴木くん、からかいすぎ」

 宮田が呆れたように言うが、その顔も笑っていた。


「でも、そういうのっていいよね。見てて癒される」

「……そうか?」


 俺が聞き返すと、宮田は頷いた。

「うん。二人とも、すごく大切にし合ってるのが分かるから」

 その言葉に、少し照れくさくなる。でも、嬉しかった。

 弁当を食べ終えて、みんなが教室に戻っていく。俺と白松さんだけが、屋上に残った。

 ベンチに並んで座って、空を見上げる。雲が流れていく様子を、ぼんやりと眺めていた。


「ねえ、桜井くん」

 白松さんが小さく声をかけてきた。

「ん?」

「手、繋いでもいい?」

 その問いかけに、胸が高鳴る。

「あ、ああ……」


 恥ずかしさで声が小さくなる。白松さんがそっと手を伸ばしてきて、俺の手に触れた。

 冷たくて、でも柔らかい。彼女の手を握り返すと、白松さんは安心したように微笑んだ。


「こうしてると、本当に付き合ってるんだなって実感する」

「……俺も」


 そう答えながら、握った手に少し力を込める。白松さんも、同じように握り返してくれた。


「桜井くん、ありがとう」

「何が?」

「昨日、私の話を聞いてくれて。それに……こうやって、そばにいてくれて」

 その言葉に、胸が温かくなる。


「俺こそ、ありがとう。白松さんがいてくれるから、俺は前を向けるんだ」


 二人の間に、静かな時間が流れる。風が吹いて、白松さんの髪が揺れた。


「そろそろ、戻ろうか」

「うん」


 手を離して立ち上がる。その瞬間、少しだけ名残惜しい気持ちになった。

 午後の授業が始まった。五時間目は国語。教科書を開いて、先生の話を聞く。

 でも、頭の中は屋上での出来事でいっぱいだった。白松さんの手の感触が、まだ残っているような気がする。


 六時間目が終わり、ホームルーム。担任の先生が明日の予定を伝えて、終礼になった。

「じゃあ、また明日」


 クラスメイトたちが帰り支度を始める中、俺は白松さんの方を見た。

 彼女も荷物をまとめていたが、俺と目が合うと小さく微笑んだ。


「図書室、行く?」

 白松さんが小声で聞いてきた。

「ああ」


 二人で廊下を歩いて、図書室へ向かう。途中、何度か手を繋ごうとしたけれど、周りの目が気になって躊躇してしまう。


 白松さんも同じような様子で、手を伸ばしかけては引っ込めていた。


 図書室のドアを開けると、静かな空間が広がっていた。放課後の図書室は人が少なく、いつもの席に座ることができた。

 窓際の席に並んで座って、それぞれカバンから本を取り出す。俺は最近読んでいる小説、白松さんは村上春樹の文庫本。


 ページを開いて読み始めるが、全く内容が頭に入ってこない。同じ行を何度も読み返してしまう。

 隣にいる白松さんを、ちらりと見てしまう。

 彼女も本を読んでいるはずなのに、ページが全然めくられていない。不思議に思っていると、白松さんがこちらを見た。


 視線が合う。

 二人とも、思わず笑ってしまった。


「なんか、変だね」


 白松さんが小声で言う。


「うん。でも、嬉しい」

 そう答えると、白松さんは本を閉じた。


「私も、全然読めてない」

「俺も」


 正直に答えると、白松さんはクスクスと笑った。


「じゃあ、無理して読まなくてもいいかな」

「そうだな」


 本を机の上に置いて、窓の外を見る。夕日が図書室に差し込んで、オレンジ色の光が机の上を照らしていた。


「ねえ、桜井くん」

「ん?」

「明日も、一緒に帰れる?」


 その問いかけに、迷わず頷いた。


「もちろん」

 白松さんは嬉しそうに微笑んで、小さく「ありがとう」と言った。

 図書室を出て、下駄箱で靴を履き替える。校門を出ると、夕暮れの空が広がっていた。


「じゃあ、また明日」

「うん。気をつけてね」



 ――家に着いて部屋に入ると、机の上にカオルのCDが置いてあった。手に取って、ジャケットを見つめる。

 昨日、白松さんと一緒に聴いた音楽。あの時間が、二人の関係を少しだけ変えてくれた。

 ベッドに横になりながら、今日一日のことを思い返す。初々しくて、恥ずかしくて、でもすごく幸せだった。

「明日も……会えるんだよな」

 小さく呟いて、目を閉じる。

 夢の中で、白松さんの笑顔が浮かんできた。手を繋いだ時の温もりが、まだ残っているような気がする。

 恋人としての距離は、まだ少しぎこちない。でも、それでいいんだと思う。

 少しずつ、一歩ずつ。


 焦らなくていい。白松さんと一緒なら、きっと大丈夫。


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