恋人としての距離
CDを聴いた翌日の朝、目が覚めると同時に昨日のことが鮮明に蘇ってきた。
図書室で二人きり、イヤホンを分け合ってカオルの音楽を聴いた時間。白松さんが過去の話をしてくれたこと。そして――「これからも、一緒にいてくれる?」と聞かれた時の、あの胸の高鳴り。
「……付き合ってる、んだよな」
小さく呟いて、枕に顔を埋める。昨日までとは何かが違う。でも、具体的に何が変わったのかと聞かれると、うまく言葉にできない。
制服に着替えながら、鏡の中の自分を見つめる。別に顔が変わったわけじゃない。でも、どこか表情が緩んでいる気がした。
「おはよう、悠人」
階段を降りると、母さんが朝食の準備をしていた。
「おはよう」
「今日も早いわね。最近、すごく調子良さそう」
母さんの言葉に、少し照れくさくなる。
「まあ、普通だよ」
「そう? でも、お母さんは嬉しいわ。あなたがちゃんと前を向いてるのが分かるから」
その言葉が、じんわりと胸に染み込んでくる。入院する前の俺は、きっと母さんを心配させてばかりだった。
「……ありがとう、母さん」
思わずそう言うと、母さんは少し驚いたように目を見開いてから、優しく微笑んだ。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
家を出て、いつもの通学路を歩く。秋の朝は肌寒いけれど、空気が澄んでいて気持ちいい。
白松さんに会ったら、何て話しかけよう。「おはよう」だけでいいのか。それとも、何か特別な言葉をかけるべきなのか。
考えれば考えるほど、緊張してくる。
校門をくぐると、すでに何人かの生徒が登校していた。下駄箱で靴を履き替えながら、ふと視線を感じて顔を上げる。
廊下の向こうに、白松さんの姿があった。
彼女も俺に気づいたようで、少し驚いたような顔をしてから、小さく手を振った。
思わず手を振り返すと、白松さんは少し頬を赤らめて、友達と一緒に階段を上っていった。
「……よし」
深呼吸をして、俺も教室へ向かう。
教室のドアを開けると、すでに何人かのクラスメイトが席についていた。白松さんは窓際の席で、いつものように本を読んでいる。
自分の席に向かいながら、彼女の横を通る。目が合う。
「おはよう」
声をかけると、白松さんは本から顔を上げて微笑んだ。
「おはよう、桜井くん」
その笑顔に、胸が少しだけ温かくなる。でも、昨日までと何か違う気がした。いつもより少し、恥ずかしい。
席に着いて荷物を置くと、後ろから声がかかった。
「よう、桜井」
振り返ると、鈴木が意味ありげな顔でこちらを見ていた。
「……何だよ」
「いやー、なんか今日、お前の顔が違うなって」
「は?」
「ニヤニヤしてんぞ、お前」
その言葉に、思わず顔を触る。
「してねえよ」
「いやいや、してるって。で、昨日はどうだったんだ?」
鈴木が小声で聞いてくる。
「……普通に、CDを聴いただけだよ」
「へえ。で、それだけ?」
「……それだけ」
そう答えたものの、声が少し上ずっている自覚があった。鈴木はニヤニヤしながら肩を叩いてきた。
「まあ、頑張れよ。応援してるからな」
「何をだよ」
「知らねえよ。お前が頑張ろうとしてることだよ」
そう言い残して、鈴木は自分の席に戻っていった。
ホームルームが始まり、担任の先生が出欠を取る。いつもと変わらない日常。でも、なぜか今日は全てが新鮮に感じられた。
一時間目の授業が始まる。数学の時間。黒板に書かれた公式を写しながら、ふと白松さんの方を見てしまう。
彼女は真剣な表情でノートを取っていた。その横顔を見つめていると、不意に彼女がこちらを向いた。
視線が合う。
慌てて黒板に視線を戻すと、心臓がドクドクと音を立てる。白松さんは小さく笑っていた気がした。
二時間目が終わり、休み時間。宮田が白松さんの席に近づいていくのが見えた。
「ゆり、昨日は楽しかった?」
小声で話しているが、教室が静かなので聞こえてくる。
「うん……すごく」
白松さんの声も小さい。でも、どこか嬉しそうだった。
「良かったね。桜井くんと、ちゃんと話せた?」
「うん。いろいろ……話せたよ」
「そっか。ゆりの顔、すごくいい顔してる」
「そう……かな」
その会話を聞いて、思わず口元が緩む。白松さんも、昨日のことを嬉しく思ってくれているんだ。
三時間目の英語の授業中、先生がペアワークを指示した。
「隣の人と組んで、この会話文を練習してください」
俺の隣の席は空席で、前の席は白松さんだった。
「……桜井くん」
白松さんが振り返って、小さく声をかけてきた。
「一緒にやる?」
「あ、ああ」
白松さんが椅子を少し後ろに引いて、俺の机の方を向く。二人の距離が近くなった。
「じゃあ、私がAで、桜井くんがBね」
「わかった」
教科書を見ながら、交互に英文を読み上げる。白松さんの発音は綺麗で、聞いていて心地よかった。
でも、集中できない。彼女の顔が近くて、シャンプーの香りがして、それだけで頭がいっぱいになる。
「桜井くん、次はそっちの番だよ」
白松さんに言われて、慌てて教科書に目を戻す。
「あ、ごめん」
「大丈夫。どこか分からなくなった?」
「いや、その……」
言葉に詰まると、白松さんは小さく笑った。
「私も、ちょっと集中できてないから」
その言葉に、少し救われた気がした。白松さんも、同じ気持ちなんだ。
四時間目が終わり、昼休みになった。
「桜井」
鈴木が声をかけてきた。
「屋上、行くか?」
「ああ、そうだな」
立ち上がろうとすると、白松さんも席を立っていた。宮田と一緒に教室を出ていくところだった。
廊下で追いつくと、白松さんが振り返った。
「あ、桜井くん」
「屋上、行くのか?」
「うん。お弁当食べようと思って」
「俺も」
そう答えると、白松さんは少し嬉しそうに微笑んだ。
階段を上って屋上のドアを開けると、秋の風が吹き抜けていった。空は青く澄んでいて、雲がゆっくりと流れている。
いつもの場所――フェンスの近くのベンチに、六人で座った。俺と鈴木、白松さんと宮田、それに他のクラスメイト二人。
弁当を広げて食べ始めると、鈴木が口を開いた。
「なあ、お前ら見てると、なんか微笑ましいんだよな」
「何がだよ」
「いや、だってさ」鈴木がニヤニヤしながら言う。「お前ら、付き合ってんのに初々しすぎだろ」
その言葉に、思わず弁当箱を落としそうになる。白松さんも顔を真っ赤にしていた。
「鈴木くん、からかいすぎ」
宮田が呆れたように言うが、その顔も笑っていた。
「でも、そういうのっていいよね。見てて癒される」
「……そうか?」
俺が聞き返すと、宮田は頷いた。
「うん。二人とも、すごく大切にし合ってるのが分かるから」
その言葉に、少し照れくさくなる。でも、嬉しかった。
弁当を食べ終えて、みんなが教室に戻っていく。俺と白松さんだけが、屋上に残った。
ベンチに並んで座って、空を見上げる。雲が流れていく様子を、ぼんやりと眺めていた。
「ねえ、桜井くん」
白松さんが小さく声をかけてきた。
「ん?」
「手、繋いでもいい?」
その問いかけに、胸が高鳴る。
「あ、ああ……」
恥ずかしさで声が小さくなる。白松さんがそっと手を伸ばしてきて、俺の手に触れた。
冷たくて、でも柔らかい。彼女の手を握り返すと、白松さんは安心したように微笑んだ。
「こうしてると、本当に付き合ってるんだなって実感する」
「……俺も」
そう答えながら、握った手に少し力を込める。白松さんも、同じように握り返してくれた。
「桜井くん、ありがとう」
「何が?」
「昨日、私の話を聞いてくれて。それに……こうやって、そばにいてくれて」
その言葉に、胸が温かくなる。
「俺こそ、ありがとう。白松さんがいてくれるから、俺は前を向けるんだ」
二人の間に、静かな時間が流れる。風が吹いて、白松さんの髪が揺れた。
「そろそろ、戻ろうか」
「うん」
手を離して立ち上がる。その瞬間、少しだけ名残惜しい気持ちになった。
午後の授業が始まった。五時間目は国語。教科書を開いて、先生の話を聞く。
でも、頭の中は屋上での出来事でいっぱいだった。白松さんの手の感触が、まだ残っているような気がする。
六時間目が終わり、ホームルーム。担任の先生が明日の予定を伝えて、終礼になった。
「じゃあ、また明日」
クラスメイトたちが帰り支度を始める中、俺は白松さんの方を見た。
彼女も荷物をまとめていたが、俺と目が合うと小さく微笑んだ。
「図書室、行く?」
白松さんが小声で聞いてきた。
「ああ」
二人で廊下を歩いて、図書室へ向かう。途中、何度か手を繋ごうとしたけれど、周りの目が気になって躊躇してしまう。
白松さんも同じような様子で、手を伸ばしかけては引っ込めていた。
図書室のドアを開けると、静かな空間が広がっていた。放課後の図書室は人が少なく、いつもの席に座ることができた。
窓際の席に並んで座って、それぞれカバンから本を取り出す。俺は最近読んでいる小説、白松さんは村上春樹の文庫本。
ページを開いて読み始めるが、全く内容が頭に入ってこない。同じ行を何度も読み返してしまう。
隣にいる白松さんを、ちらりと見てしまう。
彼女も本を読んでいるはずなのに、ページが全然めくられていない。不思議に思っていると、白松さんがこちらを見た。
視線が合う。
二人とも、思わず笑ってしまった。
「なんか、変だね」
白松さんが小声で言う。
「うん。でも、嬉しい」
そう答えると、白松さんは本を閉じた。
「私も、全然読めてない」
「俺も」
正直に答えると、白松さんはクスクスと笑った。
「じゃあ、無理して読まなくてもいいかな」
「そうだな」
本を机の上に置いて、窓の外を見る。夕日が図書室に差し込んで、オレンジ色の光が机の上を照らしていた。
「ねえ、桜井くん」
「ん?」
「明日も、一緒に帰れる?」
その問いかけに、迷わず頷いた。
「もちろん」
白松さんは嬉しそうに微笑んで、小さく「ありがとう」と言った。
図書室を出て、下駄箱で靴を履き替える。校門を出ると、夕暮れの空が広がっていた。
「じゃあ、また明日」
「うん。気をつけてね」
――家に着いて部屋に入ると、机の上にカオルのCDが置いてあった。手に取って、ジャケットを見つめる。
昨日、白松さんと一緒に聴いた音楽。あの時間が、二人の関係を少しだけ変えてくれた。
ベッドに横になりながら、今日一日のことを思い返す。初々しくて、恥ずかしくて、でもすごく幸せだった。
「明日も……会えるんだよな」
小さく呟いて、目を閉じる。
夢の中で、白松さんの笑顔が浮かんできた。手を繋いだ時の温もりが、まだ残っているような気がする。
恋人としての距離は、まだ少しぎこちない。でも、それでいいんだと思う。
少しずつ、一歩ずつ。
焦らなくていい。白松さんと一緒なら、きっと大丈夫。




