43 繋いだ手
金曜日の放課後、図書室で白松さんと並んで本を読んでいた。
「ねえ、桜井くん」
本から顔を上げた白松さんが、指先で文庫の角をつまんでいる。
「明日、時間ある?」
「ああ、大丈夫だけど」
「よかったら……その……デート、しない?」
デート。その言葉を、彼女の口から聞いたのは初めてだった。映画に行ったり、一緒に出かけたことは何度かあった。でもそれを「デート」と呼ぶのは、なぜかずっとためらっていた。
「いいね、しよう」
白松さんはほっと息をついて、ようやく笑った。
「じゃあ、明日の午後1時に、駅前で。大きい時計の下でいい?」
「ああ、わかった」
返事はしたものの、胸の奥がざわっとした。正式に「デート」として出かける。それは、これまでとは何かが違う。
家に帰るなり、クローゼットを開けた。
「何着ていけばいいんだ……」
制服以外の服を引っ張り出して、ベッドに並べる。よく着るTシャツ。少しフォーマルなシャツ。去年買って、ほとんど袖を通していないジャケット。どれも、ぱっとしない。
「明日、何着ていくか決めた?」
夕食の席で、母さんが何気なく言った。
「え、なんで分かるんだよ」
「さっきからそわそわしてるもの」
母さんが湯呑みをコトンと置く。
「大事な用事でしょ」
「……友達と出かけるだけだよ」
「ふーん。『友達』ね」
含みのある言い方だった。母さんのこういうところには、毎回かなわない。
「お母さん、悠人が着れそうな服、いくつか出しておくわね」
「自分で選ぶから、いい」
夕食後、また部屋に戻って服を広げた。あれこれ当てて鏡を見ること一時間以上、最終的に濃紺のシャツと黒いパンツにした。シンプルだが、くどくない。
ベッドに寝転がっても、目が冴えていた。映画、何を観るんだっけ。白松さんが選んでくれたアニメーション映画。評判はいいと聞いていたが、まだ観ていなかった。
スマホが光った。
「明日、楽しみにしてます。おやすみなさい」
一文を読んで、口の端がゆるむ。
「俺も楽しみだよ。おやすみ」
返信して目を閉じる。なかなか寝付けなかった。
翌朝、目が覚めたら6時前だった。
「早すぎる……」
それでも起き上がって、まず鏡の前に立つ。寝癖がひどい。ごしごし水で押さえて、顔を洗う。
朝食の間、母さんがにこにこしているのが気になった。
「何?」
「ううん。悠人が楽しそうで嬉しいな、って」
「……普通だよ」
「いい顔してるわよ」
照れくさくて、返事ができなかった。
12時になって着替える。鏡の前で三回確認して、髪型をやり直して、もう一回確認した。
「行ってきます」
「いってらっしゃい。楽しんできてね」
玄関を出ると、秋の乾いた風が頬をすっと撫でた。駅へ向かいながら、何度も時計を見た。12時半。まだ30分もある。それでも足が早くなる。
待ち合わせ場所の時計台の下に着いたのは12時40分だった。
「早すぎた……」
深呼吸する。手のひらが、じわっと湿っていた。
周りを見渡すと、何組かのカップルが声を弾ませている。みんな自然に見える。俺は今、絶対に自然に見えていない。
そんなことを考えていた時、背後から声がした。
「桜井くん」
振り返る。
白松さんが立っていた。淡いベージュのワンピースに、白いカーディガン。髪が少し巻いてあって、ふわりとした印象だった。
「お待たせ……してないよね」
彼女が少し首をすくめる。
「いや、俺も今来たところ」
視線が、どこに行けばいいか分からなかった。
「その服、似合ってるよ」
言ってしまってから、心臓がどきっとした。
白松さんの頬がほんのり赤くなった。
「ありがとう。桜井くんも、すごく素敵」
今度は俺が赤くなる番だった。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
並んで歩き始める。バスの中、隣に座った白松さんの存在が、いつもより近く感じられた。ふわっと、彼女のシャンプーの香りがした。
「楽しみだね」
白松さんが窓の外を向いたまま、小さく言った。
「ああ。評判いいらしいな、この映画」
「うん。友達が観て、すごく良かったって」
他愛のない話をしているうちに、映画館に着いた。チケットを買って、開演まで少し時間があったのでロビーのベンチに座る。
「何か飲む?」
「あ、じゃあオレンジジュースがいい」
自動販売機で二つ買って戻ると、白松さんはパンフレットを読んでいた。
「この映画、監督が有名な人なんだって」
「へえ」
隣に座って、一緒に覗き込む。白松さんの肩が、俺の肩にそっと触れた。
劇場に入ると、照明がすとんと落ちた。暗闇の中、隣の気配がやけに濃くなる。
本編が始まると、映像の鮮やかさに目を引かれた。色彩の豊かなアニメーションがスクリーンいっぱいに広がっている。物語は、ある少女の成長を描いたものだった。家族との葛藤、友情、自分自身と向き合う過程が、丁寧に積み重なっていく。
感動的な場面で、白松さんがそっとハンカチを取り出した。静かに目元を押さえながら、画面を見つめている。
その横顔を見て、胸がじんわりした。
ふと、肘掛けの上で白松さんの手が動いた。俺の手の近くに、彼女の指先が置かれている。
心臓がどくんと跳ねた。手を繋ぐべきか。でも、もし違ったら。
迷っているうちに、白松さんの小指が俺の小指にかすかに触れた。
勇気を決めて、そっと手を重ねた。
彼女の手は少し冷たくて、でも柔らかかった。ぎゅっと握り返してくれた瞬間、頭の中が真っ白になった。
映画は続いていたが、正直ほとんど入ってこなかった。繋いだ手の感触に、意識が全部持っていかれていた。
白松さんも同じだったのか、手を握る力がときどき強くなったり、ゆるんだりした。
照明がついて、慌てて手を離す。白松さんの頬が赤かった。
「面白かったね」
「ああ、すごく良かった」
手のひらに、まだ彼女の温もりが残っていた。
劇場を出て、近くのカフェに入った。窓際の席に向かい合わせで座って、メニューを眺める。
「私、カフェラテにする」
「俺は、アイスコーヒーで」
注文して、改めて正面に座る白松さんを見た。また照れくさくなった。
「映画、どうだった?」
「うん、良かった。ラストシーン、特に」
「私も。あの場面、すごく泣けちゃった」
彼女が少し恥ずかしそうに笑う。
「でも……」
「でも?」
「桜井くんのことばかり考えてた」
危うく水を噴き出すところだった。
「え?」
「だって、隣に桜井くんがいるって思ったら、集中できなくて」
顔を赤くしながらも、まっすぐ言った。
「……俺も、実は同じだった」
白松さんはほっとしたように笑った。
「良かった。私だけじゃなくて」
二人で笑った。窓の外で日が傾いていた。
カフェを出て、近くの書店に寄った。白松さんが「ちょっと見たい本があって」と言ったからだ。
書店に入ると、本の匂いがした。白松さんは迷いなく文芸書のコーナーへ向かった。
「あった、これ」
手に取ったのは、村上春樹の『海辺のカフカ』だった。
「カオルさんが好きだって言ってた本。私も読みたくて」
「そうなんだ」
「それとね……」
白松さんが一度口をつぐんだ。
「桜井くんにも、プレゼントしたい本があるの」
「え?」
「待ってて」
彼女が棚の間を歩き回る。しばらくして戻ってきた時、手に詩集を持っていた。
「この詩、すごく優しいの。桜井くんに読んでほしいなって」
受け取ると、薄くて軽かった。でも、なんだか重みのある気がした。
「ありがとう。大切に読むよ」
書店を出ると、もう夕方近かった。空がうっすらと茜色に染まっている。
「もうこんな時間か」
「うん。楽しい時間って、あっという間だね」
駅まで並んで歩く。途中、白松さんがそっと俺の手を握ってきた。今度は迷わずに握り返した。
改札の前で立ち止まる。
「今日、すごく楽しかった」
「俺も。また二人で出かけよう」
「うん」
白松さんが少し迷うような顔をした。
「あのね……」
「ん?」
「次は、私の家に来ない?」
心臓がどきっとした。
「家に……?」
「うん。両親にも、桜井くんのこと話したくて」
彼女がわずかに緊張した声で続けた。
「お父さんもお母さんも、会いたがってるの。大切な人だって、話してるから」
大切な人。その言葉が、胸にゆっくり沈んでいった。
「いいのか? 俺なんかが行っても」
「いいのって、何言ってるの」
白松さんが首を振る。
「桜井くんに来てほしいの。私の家族に、会ってほしいから」
まっすぐな眼差しだった。
「わかった。ぜひ、行かせてもらうよ」
白松さんが、ほっと息をついた。
「ありがとう。じゃあ、日にち決めようね」
「ああ」
改札を通った白松さんが、ホームへ続く階段を上っていく。その背中が見えなくなるまで、俺はそこに立っていた。
帰りの電車の中で、メッセージが届いた。
「今日は本当に楽しかったです。次は、もっとたくさんお話ししたいな」
思わず笑った。窓の外、夕暮れの街がオレンジ色に染まっていた。
「俺も楽しかった。次も楽しみにしてるよ」
部屋に戻って、詩集を手に取った。最初のページを開くと、白松さんの字で一文が書かれていた。
「桜井くんへ。この詩集を読むたびに、今日のことを思い出してください。白松百合子」
ベッドに横になって、詩集をゆっくり読み始めた。詩の言葉が、静かにしみこんでくる。途中で目を閉じると、今日の白松さんがぶつぶつ浮かんできた。ワンピース姿。映画館でそっとハンカチを当てた横顔。書店で本を選ぶ真剣な目。
「彼女の家か……」
小さく呟いて、天井を見た。緊張はある。でも、それより楽しみな気持ちのほうが強かった。
窓の外で、秋の風がさわさわと木の葉を揺らしていた。




