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午後の図書室

 復学してから、一週間が経った。


 最初は緊張の連続だった教室の空気も、少しずつ馴染んできた気がする。


 とはいえ、昔のように何も考えず笑えるほどには、まだ戻れていない。けれど、鈴木や宮田、そしてクラスのみんなのさりげない気遣いに支えられて、少しずつ――本当に少しずつだけど、前に進めている気がする。




 放課後。補習もなかったので、ふと、図書室に寄ってみようと思った。


 あの静けさが、最近の俺にはちょうどよかった。


 ドアを開けると、かすかに紙の匂いとインクの匂いが混じった空気が鼻をくすぐる。


 静かなその空間に、先客の気配があった。



「……白松さん?」



 本棚の影から顔を出したのは、長い黒髪を軽く揺らした白松百合子だった。



「あ……桜井くん」



 少し驚いたような顔をして、それからゆっくりと微笑む。


 その笑顔が、なんだか少し安心させてくれる。



「よく来るの?」



「うん。静かだし、落ち着くから」



 彼女は手にしていた文庫本をそっと閉じると、椅子をひとつ隣に引いて、静かに言った。



「……よかったら、一緒に読む?」



「……うん。じゃあ、ちょっとだけ」



 隣に座ると、二人の間にかすかな気配の揺れが生まれた気がした。


 けれど、不思議と居心地は悪くない。


 白松さんが読んでいた本は、海外の詩集だった。


 英語と日本語の訳が並んでいて、どこかやさしい音のする言葉が並んでいる。



「詩って、あんまり読んだことないや」



 そう言うと、白松さんは少し考えてから、一篇を静かに読み上げた。




 "Hope is the thing with feathers

 That perches in the soul—

 And sings the tune without the words—

 And never stops—at all—"



 柔らかく、透明な声だった。




 それが静かな図書室に溶けていって、俺は言葉よりもその“響き”に耳を傾けていた。



「……それ、どんな意味?」



「『希望は羽をもったもの。魂の中にとまっていて、言葉のない歌をずっと歌い続けている』……そんな感じかな」



「なんか、綺麗だな」



「うん。……私、こういうの、好きなんだ」



 ふと、彼女が窓の外を見た。


 夕陽が差し込むガラス越しに、彼女の横顔が淡く光に染まっていた。



「……桜井くんが学校を休んでいる間、よく詩を読んでたの。言葉が、まるで誰かの心を代わりに話してくれてるみたいじゃない?」



「……そっか」



 彼女の言葉に、俺の胸の奥も少しだけ反応した。


 自分の心をうまく話せないとき、誰かの言葉にすがりたくなる気持ち。


 俺も、それを知っている。



「桜井くんも……怖いとき、ある?」



 突然の問いかけに、言葉が詰まる。



「あるよ。今も……ちょっと怖い」



「うん……私も」



 少しだけ視線が重なる。



 互いの中の、まだ癒えきらないものが、そっと触れ合った気がした。



「でも……」と、彼女が続けた。



「今日、一緒に本を読めてよかった。怖さが、少しだけ遠くにいった気がする」



「……俺も。ありがとう」



 それはほんの短い時間だったけれど、確かに二人の距離は少しだけ近づいた。



「また、ここで会えたら……一緒に読んでもいい?」



 彼女が小さく尋ねる。



「もちろん」



 俺は、迷わずそう答えた。


 夕陽の色が濃くなる図書室の中で、白松百合子との静かな午後は、確かに俺の心に残った。



 ――それから少し時間が流れた。


 最近、白松さんとあまり話していない。


 別に理由があるわけじゃない。放課後の図書室で話したあの日から、彼女は何も変わっていない。

 むしろ、俺のほうが変わったのかもしれない。



 廊下ですれ違っても、目を合わせられない。

 同じ班のプリントを配るときも、何気なく最後に回す。


 ただの偶然。そう思おうとする。

 でも心のどこかでわかっている。これは「避けてる」んだ。


 ――なんで? 俺、白松さんのこと……好きだったはずだろ?


 気がつけば、彼女の姿を見るたびに胸がざわつく。


 笑っていると、なぜか胸が痛む。


 図書室に行くのをやめたのも、あの日以来だった。



 放課後、昇降口で白松さんの姿を見つけた。


 彼女は一人で、下駄箱の前に立っていた。

 手にしたカバンを持ったまま、じっと窓の外を見ている。



 俺は、その背中を見た瞬間、足を止めていた。


 声をかけようと思えば、かけられた。

 でも、足は一歩も動かなかった。


 まるで――怖いみたいに。


 好きなのに、近づけない。


 近づくと、過去の自分のことも、彼女の痛みも、見えてしまいそうで。

 それを受け止める勇気が、まだ自分にはない。


 白松さんは、ゆっくりと振り返って俺に気づく。


 でも、何も言わず、ただ静かに微笑んで、歩き去った。


 その表情には、責める色も、悲しむ色もなかった。

 ただ、静かで――少しだけ、遠かった。




 その夜、ベッドに横になりながら、思い出していた。


 図書室で彼女が読んでくれた詩。


 あの声、あの表情。


 もう二度と、戻らない気がして――胸が締めつけられる。



「……何やってんだ、俺……」



 小さくつぶやいても、誰も答えてくれない。


 それでも心のどこかで、白松さんの声を、まだ聞いていた。



 翌日の昼休み。

 屋上への階段をひとつ登ったところで、俺は宮田に呼び止められた。



「ちょっと、話せる?」



 珍しく、彼女の声には迷いがなかった。



「うん。……どうかした?」



 少し躊躇ってから、宮田はぽつりと切り出した。



「白松のことだけど」



 その名前が出た瞬間、胸がざわついた。

 平静を装ったつもりだったけれど、視線を少しだけ逸らしてしまった。



「……俺が何かした?」



「ううん、たぶん……何も“してない”んだと思う」



 その言葉に、思わず黙り込んだ。



「私ね、最近、図書室でゆりと話すことがあるんだ。あの子、あんまり多くを話すタイプじゃないけど、でも……気づいちゃったんだよね」



「何を?」



「……すごく待ってる人の顔、してた」



 ゆっくりと、宮田は言葉を継いだ。



「たぶん、期待しないようにしてる。でも、ほんの少しだけ、まだ信じてるみたいな目だった。……あれ、けっこうつらいよ?」



 心の中が、静かにざわめく。

 あの夕暮れの図書室。

 あの日、白松さんがくれたあたたかさ。


 それを、自分は――置いてきた。



「……なんで、俺、逃げたんだろうな」



 自然と、そんな言葉がこぼれた。



「桜井くんが何を思ってるかは、私にはわからないよ」


「でも『好き』って気持ちは、たぶんずっとそこにあるんじゃない? だからこそ、怖くなるんでしょ?」



 俺は黙ってうなずいた。



「だったら、ちゃんと『いるよ』って伝えてあげて」


「ゆり、まだあの場所に立ってると思う。ひとりで」



 昼休みの終わりを知らせるチャイムが、遠くから聞こえてきた。

 宮田はそれを聞くと、軽く手を振って階段を降りていった。


 残された俺は、その場でしばらく動けなかった。


 胸の奥で、何かが静かにほどけていくような感覚。


 逃げ続けていた何かに、ようやく向き合わなきゃいけないと思った。



「……もう一度、話したい」



 それは、まだうまく言葉にならない願い。

 けれど、それは確かに、俺の中に芽生えはじめていた。


 放課後、図書室の前で立ち止まった。


 扉の向こうに、白松さんがいるかはわからない。

 けれど、もし、あの日と同じように座っていたら……。


 ――やめるなら今だ。


 そんな声が頭の中に浮かんだ。


 けれど同時に、別の声もした。


 ――もう、逃げるのやめよう。


 ドアを、そっと押した。

 ぎしりと静かな音を立てて開いた扉の奥には……いた。


 本棚の隙間から見える、長い黒髪。

 姿勢よく座って、本を読んでいるその背中は、あの日と何も変わらない。


 けれど俺にとって、それはたまらなく遠く感じた。


 ゆっくりと歩いて、彼女の隣まで来ると、白松さんが顔を上げた。



「あ……」



 小さく息を呑むような声。


 その目が、わずかに揺れているのがわかった。



「……久しぶり」



 自分でも驚くほど小さな声だった。

 でも、それ以上に、彼女のまなざしは穏やかだった。



「うん。久しぶり、だね」



 白松さんは、そっと微笑んだ。

 その笑顔が、俺の胸を痛いほど打った。



「……あの日から、ずっと……図書室、来てなかったんだよね」



「うん。……怖かった」



 彼女は少し驚いたように目を見開いた。

 けれど、それ以上は何も言わなかった。



「白松さんのこと、考えると……なんか、つらくなって。でも、それってたぶん……ちゃんと向き合ってなかったからだって、今さら気づいた」



 沈黙が、ふたりの間に落ちる。


 でも、それは前のような『逃げたい』沈黙じゃなかった。



「俺……白松さんのこと、避けてた。わかってたけど、向き合うのがこわくて。でも……本当は、また話したかった」



 白松さんは、小さく目を伏せた。



「……私も、また話したいと思ってたよ。でも……来てくれなかったから、もう来ないのかなって、思ってた」



「……ごめん」



 俺は、その言葉しか出てこなかった。

 でも、それは本心だった。


 白松さんは少しだけ笑って、椅子の隣をぽん、と軽く叩いた。



「今日も、一緒に読む?」



 その仕草が、あまりに自然で――ほっとした。



「うん。……ありがとう」



 俺は、ためらわずその隣に座った。


 彼女の手元には、またあの詩集が開かれていた。



「……今日の詩、読んでみて?」



 白松さんが、本を俺のほうに向けて差し出した。



「俺が……?」



「うん。聞きたい」



 緊張しながらも、ゆっくりとページをなぞる。

 言葉がたどたどしく口から出ていく。でもそれを、彼女はやさしく聞いていた。


 言葉を読むたびに、少しずつ心の中がほどけていくような気がした。


 そうだ。

 あの日、あの声に救われたように。


 今日は――俺の声で、何かが届いてほしいと思った。



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