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再出発の準備

 

 病院生活も、今日で終わる。


 そう思っても、実感が湧かないまま、俺は朝の光が差し込む病室の天井を見つめていた。


 開放病棟に移ってから、少しずつ心と体を整えてきた。


 食事をしっかり摂ること、散歩をすること、決まった時間に寝ること――そんな当たり前のことを繰り返すうちに、俺は少しずつ「普通」に近づいていった。


 主治医から退院の許可が出たのは数日前のことだった。



「そろそろ退院してもいい頃だね」



 診察室でそう言われたとき、俺は驚きよりも戸惑いのほうが大きかった。


 退院するということは、ここを出て、また社会の中に戻るということだ。

 学校、家族、バイト――俺が逃げ出してしまった場所へ、もう一度足を踏み入れなければならない。


 それを思うと、不安が押し寄せてきた。


 でも、俺は決めた。



「もう一度、やり直す」



 そう思えるくらいには、俺は回復したのだから。


 荷物をまとめ終えた俺は、ナースステーションに向かった。

 退院手続きを済ませると、看護師が穏やかに微笑んだ。



「桜井さん、退院おめでとうございます。これからも無理をしないように、ゆっくり進んでくださいね」



「……ありがとうございます」



 深く頭を下げる。


 この病院での時間は、決して楽ではなかった。

 でも、ここにいたからこそ、自分の弱さと向き合えた気がする。


 病棟の出口へ向かおうとしたその時、スタッフから封筒を渡された。



「これ、東雲さんから預かっていますよ」



「……カオルから?」



 封筒を受け取り、表に書かれた自分の名前を見つめる。

 カオルは閉鎖病棟のため、直接見送りには来られない。それでも、こうして手紙を託してくれたのだ。


 俺は病棟の隅にあるベンチに座り、封を切った。




 桜井くんへ


 退院、おめでとう。

 本当は直接言いたかったんだけど、それができないから手紙を書いています。


 桜井くんとは、講堂でよく話したね。

 最初はただの入院仲間だったけど、気づけばお互いに色んな話をするようになってた。

 私は、桜井くんと話してると、少しだけ自分のことを肯定できる気がしてたよ。

 ありがとう。


 退院するってことは、また「普通の世界」に戻るってことだよね。

 桜井くんはきっと、色んなことを考えてると思う。

 でもね、無理しないで。焦らないで。


 私も、いつかここを出る日が来ると思う。

 その時に、もしどこかで再会できたら――その時は、また話そうね。


 カオルより




 手紙を読み終えた俺は、ゆっくりと封筒を閉じた。


 カオルらしい手紙だった。

 飾り気がなく、それでいて優しさが詰まっている。



「いつか、また話そうね」



 その言葉が、胸にじんわりと染み込んでいく。



「悠人……!」



 ふいに、自分の名前を呼ばれた。


 顔を上げると、正面玄関の前に両親が立っていた。


 母さんは少し緊張した表情を浮かべていたが、それでもどこか安心したような笑みを浮かべていた。

 父さんは無言だったが、俺の姿をじっと見つめていた。


 俺は立ち上がり、二人のもとへ向かう。



「……迎えに来てくれて、ありがとう」



 それだけ言うと、母さんは小さく頷いた。



「元気そうでよかった」



 父さんは何も言わなかったが、その顔にはわずかに安堵の色が見えた。


 病院を出た俺は、両親の車に乗り込んだ。


 助手席には母さんが座り、俺は後部座席に腰を下ろす。車のエンジン音が静かに響き、病院を離れる実感が少しずつ押し寄せてきた。



「……これからどうするつもりなんだ?」



 運転席から父さんが低い声で問いかけてきた。

 急な質問に、俺は一瞬言葉を詰まらせたが、正直な気持ちを言葉にすることにした。



「まだ、すぐには何も分からない。でも、とりあえず学校には戻りたいと思う」



 父さんはバックミラー越しに俺の顔をちらりと見て、小さく頷いた。

 


「そうか。それなら、できることから少しずつやればいい」



 父さんらしい無駄のない言葉だった。


 あの時、家族に迷惑をかけた俺を、こうして迎え入れてくれる。それがどれほどありがたいことなのか、今の俺には痛いほど分かる。



 車が家に近づくにつれ、胸の奥がざわつく。

 久しぶりに戻る家のことを考えると、緊張と不安が入り混じった感情が湧いてきた。



「久しぶりの家、緊張する?」


 母さんが振り返りながら優しく微笑む。



「……ちょっとだけ」



 正直に答えると、母さんは少しだけ声を潜めて言った。



「無理しなくていいのよ。あなたがここに帰ってきてくれるだけで、私たちは嬉しいから」



 その言葉が、どれだけ俺の支えになっただろうか。



 家に着くと、玄関の扉がいつも通りそこにあった。

 当たり前だった光景が、今は少し違って見える。俺は深呼吸をしてから、ゆっくりと家の中へ入った。



「ただいま」



 その言葉を口にするのは、どれくらいぶりだろう。

 母さんが「おかえり」と優しく答え、父さんは黙って奥の部屋に入っていった。


 リビングに目を向けると、机の上に何かが置かれているのに気づいた。近づいてみると、そこには一冊のノートとペンがあった。



「何これ?」



 母さんに尋ねると、少し照れくさそうに笑った。



「それね、日記帳なの。病院の先生から聞いたのよ。気持ちを書き出すと少し楽になることがあるって」



 俺はそのノートを手に取り、少し考え込んだ。


 これまで自分の気持ちを整理するなんてことをしたことがなかった。でも、やってみるのも悪くないかもしれない。



「ありがとう、使ってみるよ」



 母さんが嬉しそうに頷くのを見て、俺はそのノートを自分の部屋に持って行った。


 部屋に入ると、そこには俺が入院する前とほとんど変わらない光景が広がっていた。


 机の上に置きっぱなしの教科書やノート、棚に並べられた小物たち――全部が懐かしく、それでいて少しだけ遠く感じた。



「戻ってきたんだな、俺」



 小さく呟いて、机の椅子に座る。目の前にはさっきのノートがある。

 少し迷ったが、俺はペンを取り、最初のページに言葉を綴り始めた。



「今日、退院した。病院で過ごした日々は簡単には忘れられないけど、それはそれで大切な時間だったと思う。鈴木や宮田、白松さん、そしてカオル――みんなの言葉や存在があったから、今の俺がいる。これからまた、少しずつ歩き出していきたい」



 書き終わって顔を上げると、窓の外には夕焼けが広がっていた。

 深く息を吸い込み、窓を少しだけ開ける。風が部屋の中に吹き込んできて、俺の頬を撫でた。



「明日から、また頑張ろう」



 そう心の中で呟き、俺は新しい日々に向けて静かに目を閉じた。


 ――俺の人生は、ここからもう一度始まる。


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