傷の痛み
バイトを始めて2か月が過ぎた頃の夏の終わり。店内の冷気が、外の蒸し暑さから一時の逃げ場を与えてくれる。
「よし、これでレジも締まったな」
閉店間際、忙しさも落ち着いた店内で、俺は鈴木と一緒に最後の片付けをしていた。毎日の慣れた動きが心地よく、カウンターを拭きながら何気ない会話を交わす。
「おい、桜井、帰りにコンビニ寄っていこうぜ」
いつものように鈴木が誘ってくる。今日は特に疲れていた。週末の繁忙時間帯に立ちっぱなしだったせいか、足がパンパンに張っている。
「いや、今日は疲れたから真っ直ぐ帰るわ」
「そっか、じゃあまた明日な」
鈴木とは反対方向だったので、店の前で別れを告げる。
「あ、明日テスト範囲のプリント忘れるなよ」
「わかってるって」
軽く手を振り、それぞれの帰路についた。
「やっと今日もバイト終わった……」
誰にともなく呟きながら、肩に掛けたバッグを揺らす。夏の終わりの夜風が少し涼しく頬を撫でた。
街灯が点々と続く帰り道。明日のテスト勉強のことを考えていると、突然背後から声がかかった。
「桜井ぃ!」
大きな声で名前を呼ばれ、不意に背筋が凍る。その声の主を確かめようと振り返った。
そこに立っていたのは竹中とその仲間たち。
竹中——中学時代に俺と同じクラスだった男。暴力的な態度で周囲を威圧し、何かと俺に絡んできた記憶が鮮明によみがえる。
「……竹中」
名前を口にした瞬間、胃の辺りが重くなった。ここで会うはずがないのに。
「なんだよ、こんなとこで」
できるだけ平静を装って言ったが、声が少し震えていた。
「こっち来いよ」
竹中は不敵な笑みを浮かべ、指で俺を手招きした。その態度にイラっとしたが、周りには彼の仲間が4人。下手に逆らうと厄介なことになる。
仕方なく数歩近づき、低い声で聞いた。
「何か用か?」
その一言で、竹中の表情が一気に険しくなる。目が吊り上がり、唇が歪んだ。
「はぁ? 何が『何か用か』だ? 調子に乗りやがって」
意味不明な言葉を吐き捨てる竹中。彼はぐいっと俺の方に詰め寄った。煙草の匂いが鼻をつく。
「別に乗っちゃいないが、何だ?」
自分でも驚くほど冷静に返したつもりだった。今の俺は中学生の頃とは違う。怯える必要はない——そう思った矢先、竹中の手が動いた。
「前からムカついてたんだよ!」
そう叫ぶと同時に、彼は指の間に挟んでいた火のついた煙草を俺の頬に押し付けてきた。
「——ッ!」
予想外の痛みに、思わず声が漏れる。鋭い熱さが頬を走った。反射的に手を上げて押しのけようとしたが、竹中はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべたまま、じっと俺の反応を楽しんでいた。
「うるせーんだよ」
後ろでは仲間たちが下卑た笑い声を上げている。夜の闇に溶け込むように、その笑い声が響く。
「止めろって!」
俺の怒りの声が夜の静けさを破った。その声に驚いたのか、竹中たちは一瞬怯んだように見えた。
このまま殴り飛ばしてやろうか——そんな衝動が一瞬頭をよぎる。拳が勝手に握りしめられていた。だが、相手は竹中だけじゃない。周りには仲間がいる。この場で抵抗したところで勝てるはずもない。
せっかく手に入れた充実した高校生活。白松さんとの関係。バイトでの居場所。すべてを台無しにするわけにはいかない。
俺は震える拳を握りしめたまま、唇を噛み、ゆっくりと頭を下げた。
「……勘弁し……てくだ……さい」
喉から絞り出すような声。自分でも情けなく感じた。
竹中は満足したのか、軽蔑するような目で俺を見下ろしながら言った。
「そういう態度ならいいんだよ!」
最後に道に唾を吐き捨てると、竹中たちはどこかへ去っていった。笑い声が次第に遠ざかっていく。
息をつく間もなく、俺はその場に立ち尽くしていた。
「…………」
何も言葉が出ない。心臓がバクバクと鳴り止まず、頬の痛みよりも胸の痛みの方が強かった。
「……くそっ……」
拳を握り締めたまま、足早に家へと向かった。街灯の光が影を長く伸ばす。
家に帰るとすぐ浴室に直行し、鏡に映る自分の顔を見た。
頬には赤く腫れた火傷の跡。まだジリジリとした痛みが残っている。指でそっと触れると、ピリピリとした痛みが走った。
「……ダサいな……」
ため息がこぼれる。自分の情けなさに、胸が締め付けられる思いだった。
浴槽に浸かりながら、頭を抱えた。温かい湯が体を包むのに、心は冷たいままだった。
「誰にも言えねぇな、こんなこと……」
今日のことを誰かに話したところで、何も変わらない。ただ、自分がみじめなだけだ。俺はそう自分に言い聞かせ、この屈辱を胸の奥深くに押し込めることにした。
翌朝、鏡に映る自分の顔を見て、昨夜の出来事がまた蘇る。
火傷の跡は少し赤みを増している気がした。まだヒリヒリしているが、物理的な痛みよりも、胸の中の苛立ちの方が強かった。
「……弱えな、俺」
そう呟きながら、絆創膏を貼る。小さな正方形の絆創膏が頬に浮かぶ。
何事もなかったかのように制服を着て家を出た。でも、歩きながらふと思う。
俺がこんなことで立ち止まってどうするんだ。
あの竹中に負けるわけにはいかない。白松さんにも、鈴木にも、堂々と会いたい。
充実した高校生活を守るために、俺は前に進む——そう、昨日のことなんてなかったかのように振る舞いながら。
けれど、この傷の痛みは、まだしばらく消えそうになかった。