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新緑フェスティバル

 

 本館4階病棟、閉鎖病棟での生活に、どれくらいの時間が流れたのだろう。


 毎日同じように起きて、食事をして、規則正しいスケジュールの中で一日を終える。最初はその単調さが苦痛で仕方なかったが、今ではそれが当たり前のように思えるようになっていた。


 そんなある日、いつもの診察室で、主治医の先生が少し穏やかな表情で話しかけてきた。



「桜井さん、最近、調子が安定してきていますね。状態が良いので、別館の開放病棟への移動を考えてもいいかと思います」



 その言葉に一瞬驚き、顔を上げた。



「……俺、大丈夫なんでしょうか?」



 思わずそう口にしてしまった。主治医は頷きながら、優しい声で答えた。



「桜井さんがここに来たときと比べて、ずいぶん落ち着いていますよ。もちろん、不安はあると思いますが、一歩ずつ進んでいきましょう。開放病棟はそのためのステップです」



 その言葉に少しだけ背中を押された気がした。


 数日後、移動の日がやってきた。


 看護師に付き添われ、最低限の荷物を持って本館の4階から別館へと向かう。



「何か不安なことがあったら、すぐに病棟のスタッフに言ってくださいね」



 付き添いの看護師がそう声をかけてくれる。俺は小さく頷いた。


 別館は本館から少し離れたところにあり、長い廊下を抜けた先にその建物があった。


 外の空気を吸えるわけではないが、移動中に見る窓の外の景色は新鮮で、どこか開放感を感じさせた。


 別館の入り口は本館とは異なり、明るい色の壁紙で装飾されていた。中に入ると、どこか生活感のある空間が広がっていて、本館の閉塞的な雰囲気とは大きく違っていた。


 入り口近くのオープンスペースにはソファや観葉植物が置かれ、入院患者が自由に過ごしている姿が見えた。



「ここが開放病棟……か」



 初めて見るその風景に、俺は少し戸惑いながらも、心の中にわずかな期待が生まれていた。



 部屋に案内されると、そこは閉鎖病棟の無機質な空間とは違っていた。


 薄いクリーム色の壁に、小さなカーテン付きの窓。ベッドの隣には、小さな机と椅子が置かれていた。



「これが俺の新しい部屋……」



 思わず呟いてしまう。窓を開けると、敷地内の庭が見えた。外の空気を吸うことはまだできないが、少なくとも景色を眺められるだけでも気持ちは少し軽くなった。



 荷物を整理していると、看護師が「今日の夕方、オープンスペースで開放病棟の生活について説明会がありますよ」と教えてくれた。


 病棟でのルールや、外出許可の時間についての説明が行われるらしい。


 夕方のオープンスペースは、穏やかな空気に包まれていた。


 患者たちは決められた席に座り、それぞれの顔にどこか安堵の色が浮かんでいた。俺もその中に混ざり、病棟スタッフからの説明を受ける。



「開放病棟では、毎日決められた時間内であれば、病院の敷地内を散策できます。ただし、病棟スタッフに許可を得ること、そして時間を守ることが条件です」



 その話を聞いて、俺は少しだけ胸が高鳴るのを感じた。


 次の日の午後、俺は早速外出の許可をもらい、敷地内の庭を歩いた。


 ゆっくりと歩くたびに、風が頬をなでていく。



「風が心地いい……」



 数日が経ち、開放病棟での生活にも少しずつ慣れてきた。


 自由に使えるオープンスペースで本を読んだり、庭を歩いたりする時間が、心を少しずつ穏やかにしてくれる。


 その頃から、俺は新しい目標を考えるようになった。


「また普通の生活に戻って白松さんに会いたい」


 そんな思いが心の奥底から湧き上がってきた。


 閉鎖病棟で過ごした日々は、俺にとって辛い記憶であると同時に、自分を見つめ直すための時間でもあった。


 そして、開放病棟という新しい環境で、俺はまた一歩前に進むことができそうだと思った。



 精神病院での入院生活を始めてから、季節が移り変わるのを実感することは少なかった。病院の中では、時間の流れが静かで単調で、外の世界とのつながりを感じることもほとんどない。


 ――そんなある日、病棟スタッフから話を聞いた。



「桜井さん、今度の週末、新緑フェスティバルっていうのをやるんですけど、参加してみませんか?」



「新緑フェスティバル?」


 俺は聞き返した。ここに来てから、こんな季節らしいイベントがあるなんて知らなかった。


「そうなんですよ。毎年恒例で、患者さんたちが少しでも気分転換できるようにって。敷地内で小さな屋台を出したり、音楽を流したりして、春の終わりを楽しむんです。無理にとは言いませんが、どうですか?」



 いつもとは違う雰囲気を味わいたい気持ちが少しだけ湧き上がり、俺は静かに頷いた。



「……分かりました。行ってみます」



 週末、中庭に足を踏み入れると、病棟の閉塞感とはまるで違う空気が広がっていた。


 木々の緑が眩しいほど輝き、色とりどりの花が風に揺れている。敷地内にはスタッフとボランティアが設営した小さな屋台が並び、患者たちが集まり始めていた。



「これがフェスティバルか……」



 俺は小さく呟いた。中庭の隅には、野外用のスピーカーが設置されていて、穏やかなクラシック音楽が流れている。テーブルには手作りの焼き菓子やサンドイッチが並び、ホットティーの香りが漂っていた。


 最初は戸惑いながらも、俺は少しずつ屋台を回り始めた。


 輪投げや簡単な射的、手作り雑貨のコーナー――どれも質素なものだったが、それでも病院内の日常とは違う「非日常」を感じさせてくれた。


 ふと、視界の端に見覚えのある姿が映った。



「……カオル? か?」



 声に出す前に、彼女はこちらに気づいたようだった。


 カオルは白地に薄いピンク色の花の模様が描かれた浴衣を身にまとい、看護師と一緒に歩いてきた。その姿は普段のパジャマ姿とは全く違って、どこか特別な雰囲気を漂わせていた。



「桜井くん、来てたんだね!」



 カオルが笑顔で手を振る。



「……どしたの、その格好?」



 俺は少し驚いた声を出した。



「看護師さんが貸してくれたんだ。せっかくだから着てみたの。どう?」


 彼女はくるりと一回転してみせる。



「……まあ、似合ってるよ。」



 俺が答えると、カオルは「でしょ?」と笑った。その笑顔に少しだけ胸がざわついた。


 カオルと一緒に屋台を回ることになった。


 彼女は射的を見つけると、「やってみる!」と意気込んで挑戦し始めた。的に当たるたびに小さな景品を受け取る彼女は子供のように嬉しそうだった。


 白松さんを見ていたときの胸の痛みとは違う。カオルを見ていると、どこか安心する――そんな気がした。



「本当に楽しそうだな」



 俺が呆れたように言うと、彼女は景品の小さな花の形をしたキーホルダーを振りながら言った。

 


「だって、楽しいんだもん。桜井くんもやってみなよ!」



 渋々挑戦してみたものの、的には一度も当たらなかった。



「下手くそ!」



 カオルがケラケラと笑い、俺は少しむっとしたが、彼女の楽しそうな様子に文句を言う気にもなれなかった。


 フェスティバルの終盤、少し静かな場所を見つけて二人で腰を下ろした。


 カオルは手にしていたフルーツティーを飲みながら、遠くの木々を眺めていた。



「こういうの、なんか久しぶりだ」



 カオルがぽつりと呟いた。



「久しぶり?」



 俺が聞き返すと、彼女は少し考えるような表情を浮かべた。



「うん。なんか、普通の生活をしてた頃を思い出すっていうか……。家族でどこかに出かけたりとか、そういう時間が昔はあったんだよね。でも、気づいたらそういうのがなくなってて……」



 彼女の声には、どこか寂しさが滲んでいた。


 俺は言葉に詰まりながらも、少しだけ勇気を出して言った。



「でも、今こうして楽しめてるじゃん」



 カオルはしばらく沈黙した後、小さく頷いた。

 


「そうだね。こういう時間、大事にしたいな……」



 ステージでは、スタッフが締めの挨拶をしていた。


 

「皆さん、今日は楽しんでいただけましたか? こうした時間が、皆さんの日常に少しでも彩りを加えられたなら嬉しいです」



 拍手が起こる中、カオルと一緒に手を叩いた。


 その瞬間、胸の中にほんの少しの温かさが広がるのを感じた。


 カオルがふと俺を見て、静かに言った。



「桜井くん、今日は楽しかったね。『また』こんな時間を一緒に過ごせるといいな」



「……ああ、そうだな」



 俺も同じように答えた。


 カオルの浴衣姿が夕陽に照らされ、どこか儚げに見えた。


 その光景が心に残り続けた。


 フェスティバルが終わり、病室に戻った俺は窓から外を眺めた。


 夜風がカーテンを揺らし、庭の木々が静かに揺れている。



「『また』か……」



 呟きながら目を閉じると、カオルの笑顔と新緑の光景が鮮やかに浮かんだ。


 これまでの日々が少しずつ変わっていく予感を感じながら、俺は深い眠りに落ちた。


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