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ピアノの音

 

 入院生活が始まってから、どれくらいの時間が経っただろう。


 毎日が同じルーティンの繰り返しで、曜日の感覚すら曖昧になっていた。


 けれど最近になって、俺の状態が少しだけ落ち着いてきたからか、医者から「講堂に行ってもいい」という許可が出た。


 講堂といっても、広々とした大きなホールを想像するようなものじゃない。病院の一角にある小さなスペースで、ソファと本棚、そして隅に古びたピアノが置かれているらしい。


「たまには気分転換も必要だよ」と言われたものの、正直、あまり期待はしていなかった。


 その日、俺はいつものように病棟を歩き回ることに飽きて、講堂に行ってみることにした。


 廊下を抜け、重たい扉を押すと、ふと耳に届いたのは、静かなピアノの音だった。


 柔らかく、けれどどこか切ないメロディが空気に溶け込んでいる。思わず足を止めた。


 誰が弾いているんだ?


 音を頼りにそっと講堂の中に入ると、ピアノの前に座っていたのはカオルだった。


 3階の窓から俺に話しかけてきた、あの東雲カオルだ。


 彼女は俺に気づかず、鍵盤を丁寧に叩きながら演奏を続けている。


 その姿はどこか神聖ですらあって、俺は言葉を失った。


 カオルが弾いていたのは、聞いたことのない曲だった。


 流れるような旋律が耳に心地よく、それでいて、胸の奥を締めつけるような感覚を呼び起こす。

 

 この病院で聴くには、あまりにも美しくて――それがどこか不釣り合いに思えた。


 曲が終わると、カオルはふと顔を上げた。そして俺の存在に気づく。



「……桜井くん?」



 彼女の目が驚きで丸くなった。



「悪い、勝手に入ってきた」



 俺は手を軽く挙げて言った。



「ううん、全然。どうぞ座って」



 カオルはにっこり微笑みながら、ソファを指差した。俺はそのまま講堂の奥にあるソファに腰を下ろす。



「ピアノ、上手いんだな」



 俺が言うと、カオルは少し恥ずかしそうに微笑んだ。



「小さい頃から弾いてたの。でも、最近は病院にいるから練習できなくて……指が鈍ってるかも」



「いや、そんな風には全然聞こえなかった。……すごく綺麗だったよ」



 俺の言葉に、カオルは少し照れくさそうに笑った。



「桜井くんは、何か楽器とかやるの?」



 カオルがそう尋ねてきたが、俺は首を振る。



「いや、そういうのは全然。音楽の授業でリコーダーを吹くくらいだな」



 その返事に、カオルはクスクスと笑った。



「そっか。でも、音楽って聴くだけでも癒されるよね。私も弾いてると、不思議と落ち着くの」



 彼女がそう言って、また鍵盤に手を置いた。そして静かに、新しい曲を弾き始めた。



 ピアノの音色が講堂を満たしていく。


 古びたピアノだからか、一部の鍵盤が少しだけかすれたような音を出す。それでも、カオルの演奏は素晴らしかった。


 そのメロディに耳を傾けながら、俺はふと思った。


 

「こういう入院生活も有りなのかもしれない」



 無機質な病院、冷たい廊下、淡々とした日常。ここには希望なんてないと思っていた。


 けれど、こうしてカオルの弾くピアノを聴きながら、ゆったりとした時間を過ごしていると、この場所にも少しだけ温もりがあるように感じた。



「また、来る?」



 曲が終わると、カオルが小首をかしげてそう聞いてきた。



「多分」



 そう答えると、彼女は笑って「じゃあ、次はもっと練習しておくね」と言った。


 講堂を出る頃には、心が少しだけ軽くなっていた。

 

 窓の外を見ると、青い空が広がっている。


 カオルのピアノの音が、頭の中で繰り返し響いていた――まるで、この閉じ込められた世界に、小さな光を灯してくれたかのように。



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