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立ち止まる選択

 

 あの体育の授業での出来事から、少しずつ変化は始まっていた。


 最初は軽い頭痛だった。朝起きると、こめかみがずきずきと痛む。それでも鎮痛剤を飲んで学校に向かう日々が続いた。体育の時間、俺はいつもと同じように走ろうとしたが、息切れが早く、足が思うように動かなかった。



「おい桜井、今日動き鈍いな」



 鈴木が声をかけてきた。そう言えば昨日も同じことを言われた気がする。



「ちょっと寝不足なだけだよ」



 そう答えながら、昨夜も十時には布団に入ったことを思い出した。なのに寝た気がしない。目を閉じても、頭の中では次の日の予定や課題のことが渦を巻いていた。



「それにしても、ここ一週間くらい元気ないぞ」



 鈴木の心配そうな顔を見て、あえて笑顔を作った。



「気のせいだって。大丈夫だよ」



 放課後の教室で課題をしていると、机に突っ伏して目を閉じる時間が増えていた。一瞬のつもりが、気づけば十分、二十分と過ぎている。



「桜井くん」



 静かな声に顔を上げると、白松さんが立っていた。



「あ、ごめん。ちょっと休んでただけ」



「最近、よく居眠りしてるよね」



「いや、別に……」



 言い訳をしようとして、自分でも気づいていた。確かに授業中も集中力が続かず、いつの間にか目を閉じていることが増えていた。でも認めたくなかった。



「桜井くん、この前の数学のテストの点、随分下がってたよね」



 白松さんの言葉が胸に刺さる。確かに前回の小テストは散々な結果だった。ノートを取っていたつもりでも、頭に入っていなかったんだ。



「たまたまだよ。次は取り戻すから」



 そう言いながら、自分の声が虚しく響くのを感じた。白松さんは何も言わず、心配そうに俺を見つめるだけだった。




 それから一週間が経った頃、朝起きるのがさらに辛くなっていた。目覚ましを三回も止めて、ようやく布団から出る。顔を洗っても、頭の中のもやもやは晴れない。



「悠人、朝ごはん済んだ? もう時間だよ」



 母さんの声が階段から聞こえる。



「今行く」



 制服に着替えながら、鏡に映る自分の顔を見て驚いた。なんだか顔色が悪い。目の下にくまができて、肌も青白い。



「悠人、顔色悪いわね。熱はない?」



 朝食テーブルで母さんが心配そうに額に手を当てる。



「大丈夫だよ」



「でも最近、夜も遅いし、朝も辛そう。無理してない?」



「別に無理なんかしてないって」



 少し強い口調になってしまったことに自分でも気づいたが、謝る気持ちよりも、「大丈夫」と思われたい気持ちのほうが強かった。


 学校に着くと、教室の明るさと騒がしさが妙に気になった。友達の笑い声が耳に刺さるように感じる。窓から差し込む光が眩しくて、目を細める。



「おはよう、桜井くん」



 白松さんが静かに声をかけてくれた。彼女の声だけは、なぜか心地よく聞こえる。



「おはよう、白松さん」



 返事をしながら、彼女の顔をまともに見られない自分がいた。なんだか申し訳ない気持ちになるんだ。



「桜井くん、放課後図書室に行かない? 前に話してた本、見つけたんだ」



 白松さんの誘いに、本当なら喜んで応じたいところだった。でも今の自分には、その気力さえ湧かなかった。



「ごめん……今日はちょっと」



 白松さんの表情に一瞬寂しさが浮かんだ気がした。それでも彼女は優しく微笑んで、「また今度でいいよ」と言ってくれた。


 授業が始まると、先生の声が遠くで響いているような感覚に襲われた。ノートを取ろうとしても、手が重く、字が曲がってしまう。数学の問題を解こうとしても、頭に入ってこない。



「桜井、この問題を解いてみなさい」



 先生に指名されて立ち上がったとき、一瞬視界がぐらついた。黒板の数式が踊って見える。



「すみません……わかりません」



 座る時、机につかまらないと倒れそうだった。クラスメイトの視線が痛い。




 午後になると、さらに体調が悪化した。昼食も喉を通らず、ほとんど手をつけられなかった。



「おい桜井、昼飯食わないとやばいぞ。お前、最近やせたよな?」



 鈴木が俺のカレーパンを指さした。



「食欲ないんだよ」



「マジで心配だぞ。放課後、保健室行こうぜ」



「大げさだよ。俺は平気だから」



 鈴木のことばを軽く流して、午後の授業に向かった。だが、教室に入った瞬間、クラスメイトのざわめきが耳に刺さるように感じた。普段なら気にならない日常の音が、頭に響くようで気持ち悪くなる。


 授業中、先生の声がさらに遠くに聞こえ、黒板の文字がぼやけて見えた。必死にノートを取ろうとするが、手が震えて思うように書けない。前の席の人の背中さえ、ぼんやりと揺れて見える。



「……桜井くん? 桜井くん、大丈夫?」



 白松さんの心配そうな声で我に返った。いつの間にか授業が終わっていて、周りの生徒たちが席を立ち始めていた。



「あ、ごめん……ちょっとぼうっとしてた」



「あのね、桜井くん」



 白松さんが真剣な表情でこちらを見つめている。



「無理しなくていいんだよ。休むときは休んで……」



 その言葉に何か反論したかったが、頭がまとまらない。ただ、「大丈夫」と繰り返すしかなかった。




 一週間後、俺の状態はさらに悪化した。勉強に身が入らず、アルバイトのシフトも二回休んだ。それでも「次は大丈夫」と自分に言い聞かせ、無理を重ねていた。


 月曜日の朝、布団から出ることさえ困難だった。全身が鉛のように重く、頭痛が激しい。それでも学校を休むことは自分の敗北のように思えて、なんとか家を出た。


 駅のホームで電車を待っていると、突然吐き気が込み上げてきた。目の前が真っ暗になり、冷や汗が背中を伝う。次の瞬間、ホームのベンチに崩れ落ちていた。



「大丈夫ですか?」



 見知らぬ会社員風の人が声をかけてきた。その人の顔がぼやけて見える。



「……大丈夫です」



 その言葉を口にしながら、自分がもう限界だと悟った。


 家に戻ると、母さんは驚いた表情で玄関に立っていた。



「悠人! どうしたの? 学校は?」



「……行けなかった」



 その一言を言うのが精一杯だった。リビングのソファに座り込むと、もう立ち上がる気力もなかった。



「最近おかしいと思ってたのよ。お父さんにも相談してたところなの」



 母さんが額に手を当て、「熱がある」と呟いた。



「病院に行きましょう。今すぐ予約を取るわ」



 俺は反対する気力もなく、ただ頷くしかなかった。




 夕方、病院の診察室で医師は俺の状態を真剣に聞いてくれた。睡眠不足、食欲不振、集中力の低下、頭痛……すべての症状を話していくうちに、自分がどれだけ無理をしていたか痛感した。



「桜井さん、あなたは過度のストレスと疲労で体を壊しかけているね。このまま無理を続けると、もっと深刻な状態になる可能性がある」



 医師の言葉に、胸が締め付けられる思いがした。



「当分の間、学校は休んで、しっかり休養することを勧めるよ。場合によっては、入院して検査を受けることも考えたほうがいい」



「入院……ですか?」



 その言葉が現実感なく響いた。自分がそこまで追い込まれているなんて、認めたくなかった。



「今日の検査結果も考慮すると、少し様子を見たほうがいいね。明日にでも入院の手続きを」



 診察室を出て待合室で母さんに医師の言葉を伝えると、母さんは涙ぐみながら俺の手を握った。



「ごめんね、もっと早く気づいてあげれば……」



「違うよ、母さん。俺の方こそ……無理しすぎてた」



 初めて自分の口から「無理をしていた」という言葉が出た。それは自分自身への素直な告白だった。




 家に帰ると、父さんも帰宅していて、三人で夕食テーブルを囲んだ。医師の診断を聞いた父さんは、珍しく心配そうな表情を見せた。



「そうか、入院か……」



「うん……ごめん」



「謝ることはないよ。無理をしていたのは分かっていた。でも、お前が『大丈夫』と言うから、信じようとしていた」



 父さんの言葉に、胸が熱くなった。



「みんなに迷惑かけて……」



「迷惑なんかじゃないよ。家族なんだから」



 母さんが優しく言った。その言葉に、堪えていた涙がこぼれ落ちた。



「明日、学校に連絡しておくわ。先生にはちゃんと説明するから心配しないで」



 母さんの言葉に頷きながら、白松さんや鈴木のことを思い出した。彼らにも心配をかけてしまう。でも、もう無理はできない。自分の限界を認めるしかなかった。


 その夜、久しぶりに安心して眠りについた。明日から入院することになるけれど、不思議と恐怖はなかった。ただ、自分自身を見つめ直す時間が必要だと感じていた。


 窓の外から優しい風が吹き込んでくる。その風に身を任せるように、俺は静かに目を閉じた。


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