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崩れゆく日常

 

 季節が冬から春へと移り変わるころ、窓の外の景色も少しずつ色を取り戻し始めていた。教室の窓から見える木々には、うっすらと緑の芽が膨らみ始めている。その変化を眺めながら、俺は漠然とした違和感を覚えていた。


 今朝も目覚まし時計で起きると、どこか体が重い。「また徹夜しちゃったからな」と自分に言い訳をしながら制服に着替える。昨夜は夜遅くまでバイトのシフトに入り、帰宅後も課題をこなすために眠る時間を削っていた。



「悠人、朝ごはんできてるわよ」



 母さんの声に急いで階段を降りる。朝食を前に座ると、母さんが心配そうに俺の顔を見つめた。



「最近、顔色悪いわね。ちゃんと睡眠とれてる?」



「大丈夫だよ、ただの寝不足」



 そう答えながら、トーストをかじる。ここのところ、同じような会話を繰り返している気がする。




 教室に着くと、俺は自分の席に着いて窓の外を眺めた。桜の蕾が膨らみ始めている。去年のちょうど今頃、俺はまだ中学生で、幸子との別れを決意した時期だった。あれから一年……俺はどれほど変わったんだろう。



「桜井、これちょっと手伝ってくんね?」



 後ろの席にいる鈴木が声をかけてきた。クラスイベントの準備で忙しいらしい。



「おう、分かった」



 俺はため息をつくことなく立ち上がる。クラスメイトからの頼みを断るのは得意じゃない。むしろ、みんなの期待に応えるのが自分の役割だと思っている。だけど最近は、こういう「普通の会話」「当たり前の協力」にも、少しずつ疲れを感じ始めていた。



「ありがとう、桜井くん」



 鈴木の隣で作業していた宮田が明るく笑いかけてくる。そんな彼女の笑顔に、無理やり応えながらも、「どうして俺はこんなに疲れてるんだろう」という思いが頭をよぎった。


 昼休み、俺はいつものように弁当を広げていた。席の前に白松さんが立っている。



「桜井くん、図書委員の仕事で本の整理があるんだけど、手伝ってもらえないかな」



 白松さんの穏やかな声に、断る理由が見つからない。



「いいよ、今日の放課後?」



「ありがとう。でも無理なら別の人に頼むから…」



 彼女の言葉に「無理じゃない」と即答したものの、実際は放課後バイトがあることを思い出した。しかし、白松さんの優しい笑顔を見ていると、どうしても「ごめん、バイトがある」とは言えなかった。



「少し早めに行けば、両方できるかな…」



 自分の予定を詰め込みながら、心のどこかで「これ以上、何かを増やすのは無理じゃないか」という声がこだまする。だけど、それを無視して笑顔を作った。




 授業中、英語の教科書の文を読んでいたが、なぜか同じ行を何度も読み返している自分に気づいた。集中力が続かない。頭がぼんやりして、先生の声が遠くに聞こえる。



「桜井、次の文を読んでください」



 突然名前を呼ばれて飛び上がる。どこを読めばいいのか分からず、隣の席の生徒が小声で教えてくれたページを開く。



「あ、すみません…」



 クラスメイトの視線が痛く感じる。彼らは俺を「しっかりした奴」だと思っているはずなのに。


 放課後、約束通り図書室に行くと、白松さんが待っていた。



「来てくれたんだ。ありがとう」



 彼女の笑顔に心が和むが、時計を見ると、バイトまで一時間しかない。急いで本の整理を手伝いながら、時間との戦いが始まった。



「桜井くん、最近忙しそうだね」



 白松さんの言葉に、何も答えられない。



「うん、まあね」



「無理しすぎないほうがいいよ。顔色も良くないし…」



 彼女の心配の声が、妙に重く感じられた。「俺は大丈夫」と思われたい気持ちが強くなる。



「気のせいだよ。元気だって」



 その言葉が虚しく響くのが自分でも分かった。



 バイト先のハンバーガーショップでは、いつも以上に客が多かった。春休みに入った小学生連れの家族や、新学期の準備をする学生たちでレジは混雑していた。



「桜井くん、こっちのオーダー頼むね!」



 同僚の言葉に応えて動くが、体が思うように反応しない。注文を取り間違え、お釣りを計算するのに時間がかかる。そんな自分にイライラが募った。



「すみません、お待たせして…」



 客に謝りながら、店長の視線を感じる。今日はミスが多い。でも、それを認めたくなかった。


 シフト終わり、店長に呼び止められた。



「桜井くん、最近元気ないね。何かあったの?」



「いえ、特には…」



「そう? でも無理しないでね。それと、来月のシフト、増やせる? 春休みで人手が足りなくて」



 断りたい気持ちがあったのに、口から出たのは違う言葉だった。



「はい、大丈夫です」



 バイトから帰る道すがら、春の夜風が頬を撫でる。少し肌寒いが、それでも冬の厳しさは和らいでいた。手帳を開くと、来週のテスト、文化祭の準備、増えたバイトのシフト…予定がびっしりと埋まっている。



「こなせるさ、今までだってやってきたんだから」



 自分に言い聞かせるように呟いたが、その声に確信はなかった。




 翌日、学校で鈴木と昼食を共にしていると、彼が心配そうに言った。



「おい桜井、最近お前、ちょっと元気ないぞ。なんかあったか?」



「そうか? 別に普通だよ」



「普通じゃねえよ。昨日の数学、お前前で寝てただろ? 先生にも注意されてたし」



 確かに昨日、気がついたら数学の授業中に寝落ちしていた記憶がある。そんな自分に少し驚いていたが、あえてそれを隠すように笑ってごまかした。



「まあ、ちょっと寝不足だっただけ」



「寝不足って、毎日言ってるじゃん。バイト無理してんじゃないか?」



 鈴木の鋭い指摘に、言い返せなかった。そこに白松さんが近づいてきた。



「桜井くん、この前は図書室で手伝ってくれてありがとう」



「あ、うん、どういたしまして」



 白松さんはしばらく俺の顔を見つめると、心配そうに言った。



「桜井くん、本当に大丈夫? 最近、顔色もよくないし…」



 二人の心配の視線が重く感じられた。



「大丈夫だよ。みんな心配しすぎ」



 そう答えながらも、「しっかりした桜井」でいなければという重圧が胸に広がった。




 その週の金曜日、体育の授業は持久走だった。冬の間、体育館での活動が多かったが、春の暖かさと共に外での活動が増えていた。


 運動場のトラックを回り始めて数分、いつもなら余裕のあるペースなのに、今日は息が上がりやすい。前を走る鈴木との距離がどんどん開いていく。



「おい桜井、走り遅くなったな! どうした?」



 鈴木が振り返って声をかけてくる。返事をしようとした瞬間、視界がぼやけた。足が地面に絡まったような感覚があり、体がふらついて前のめりに倒れた。膝から地面に崩れ落ち、手のひらが砂利で擦れる痛みを感じた。



「桜井!」



 鈴木が駆け寄ってきて、肩を支えようとする。周りのクラスメイトたちもざわつき始め、体育教師も走ってきた。



「大丈夫か? どうした?」



 教師の声が聞こえるが、返事をする気力がない。身体が重く、頭がぼんやりとしている。



「すみません…ちょっと目が回っただけです」



 立ち上がろうとしたが、脚に力が入らず、再び膝をつきそうになる。



「保健室に連れて行きなさい」



 教師の指示で、鈴木と別のクラスメイトが俺の両脇を支えて保健室へ向かった。



「まったく、無理すんなよ…」



 鈴木の小声が耳に入った。自分でも分かっている。でも、認めたくなかった。


 保健室のベッドに横になると、養護教諭が血圧や体温を測った。



「ちょっと低血圧気味ね。最近、よく眠れてる? 食事は?」



「まあ…普通に」



 言いながらも、最近ろくに朝食を食べていないこと、夜も遅くまで起きていることを思い出す。



「桜井くん、正直に言いなさい。無理してるんじゃないの?」



 その言葉に、何か大きなものが崩れそうになる感覚があった。でも、まだ認められない。



「……別に」



 養護教諭は深いため息をついた。



「今日は安静にしていなさい。具合が悪くなったら、また来るように」



 放課後、鈴木と白松さんが俺に付き添ってくれていた。二人とも心配そうな表情で、俺の顔をのぞき込む。



「桜井、やっぱおかしいだろ。俺たちにも話せよ」



 鈴木の言葉に、俺は無理やり笑顔を作った。



「平気だよ。ただの運動不足だって」



 白松さんは静かにこう言った。



「桜井くん、何かあったら相談してね。無理しないほうがいいよ」



「無理なんかしてない」



 思わず声が強くなってしまい、二人が驚いた表情になった。自分でも自分の反応に驚いた。



「ごめん…俺、少し疲れてるだけだから」



 そう言って立ち上がると、二人に軽く会釈してその場を離れた。廊下を歩きながら、背中に二人の視線を感じた。




 その夜、バイトを早退して帰宅した俺は、机に向かおうとしたが、体が言うことを聞かなかった。ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。



「どうして俺……こんなにしんどいんだろう」



 振り返れば、中学を卒業してからずっと、誰かの期待に応えようと頑張ってきた。周りに「桜井は頼りになる」と思われたい。「自分は大丈夫」と証明したい。そんな気持ちが、いつの間にか重荷になっていた。


 携帯が鳴り、画面を見ると鈴木からだった。返事をするのが億劫で、そのまま放置する。しばらくして、今度は白松さんからのメッセージが届いた。



 『体調はどう? 無理しないでね』



 彼女の優しさが、今はどこか重く感じられた。返事を打とうとして、言葉が見つからない。「大丈夫」と書くのが、急に嘘のように思えた。


 枕に顔を埋めると、久しぶりに涙が頬を伝った。



「俺は…もう、大丈夫じゃないのかも…」



 その小さな呟きが、暗い部屋に吸い込まれていった。春の風が窓を揺らし、カーテンがそっと揺れる。明日もまた、「平気な顔」をして学校に行かなければならない。そう思うと、胸が締め付けられる感覚に襲われた。


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