一歩ずつ
白松さんとの距離が少しずつ縮まってきた5月の終わり。
「桜井くん、ちょっといい?」
授業の合間に、白松さんが俺の席までやってきた。まっすぐに見つめる瞳に、思わず言葉が詰まる。
「な、何?」
「数学のプリント、解説してもらえないかな」
彼女がそう言って差し出したのは、昨日配られた応用問題のプリント。先週の試験で俺は珍しく彼女より2点だけ高かったのだ。
「あ、いいよ。でも、俺より白松さんの方が出来るでしょ、普通」
「この単元だけは苦手で………」
微かに頬を染める白松さんの姿に、心臓が高鳴った。
放課後の図書室。隣に座る白松さんの肩がときどき触れる。シャンプーの香りが漂ってくるせいで、問題の説明に集中できない。
「ここは、この公式を応用して……」
説明しながら、俺は彼女の横顔をちらりと見た。長いまつげ、真剣な眼差し。プリントに向けられたその視線は、学ぶことへの純粋な熱意に満ちていた。
「そうか、そういう考え方があったんだ」
彼女が理解したときの微笑みは、この世の何よりも眩しかった。
「桜井、いつも白松さんと話してるな」
翌日の昼休み、鈴木が俺の弁当箱を覗き込みながら言った。
「ま、まあ、ちょっと」
「羨ましいぜ。白松さん、美人だし頭いいし。でもなんか近寄りがたい雰囲気あるよな」
「そうかな……?」
俺にとって彼女は、遠い存在のはずなのに、なぜか自然と話せる相手だった。
「ところでさ」鈴木が声を潜めた。「バイト、一緒にやらないか?」
「バイト?」
「俺、この前バーガーショップ始めたんだよ。結構楽しいぜ」
俺は少し考えた。今まで勉強だけに集中してきたけど、高校生活を充実させるならバイトも悪くない。それに、白松さんに何か奢れるくらいの小遣いがあったら……。
「いいな、紹介してくれよ」
「マジで? よっしゃ!」
鈴木は満面の笑みを浮かべた。
バイトの面接が決まった土曜日。
「今日は何時に行くの?」という母の問いに、「10時から」と答えて家を出た。
朝の空気は清々しく、何か新しいことが始まる予感がした。
商店街を抜け、大通りを歩いていると、ふと視界に白松さんらしき人影が映った。ワンピース姿で歩いている。
心臓がドキリとした。手を振ろうか迷った瞬間、彼女はショッピングモールに入っていった。追いかけるべきか一瞬考えたが、面接に遅れるわけにはいかない。
「次に会えるのは学校か………」
少し名残惜しい気持ちで足を進めた。
バーガーショップの面接はあっさり終わった。
「では来週から、よろしくお願いします」
店長と握手を交わし、俺の初めてのバイト生活が決まった。
「よっし!」
店を出た後、思わず小さくガッツポーズ。これで白松さんに胸を張って「バイト始めたんだ」と言える。
帰り道、コンビニに寄って冷たいジュースを買った。充実感と少しの興奮で喉が渇いていた。
窓外を見ながらジュースを飲んでいると、中学時代の記憶がよみがえってきた。あの頃の自分は、何も考えていなかった。ただ流されるまま、狭い世界に閉じこもっていた。
「今は違う」
自分の声に少し驚いた。確かに今の俺は変わりつつある。勉強に励み、バイトを始め、新しい友人ができ、そして……恋をしている。
それは、閉ざされた世界から一歩踏み出した証だった。
初めてのバイト当日。
「よろしく頼むぜ、桜井!」
鈴木が俺の背中を叩いた。
「お前より早く一人前になってやるよ」
「へっ、100年早いな!」
笑い合いながら、俺たちは制服に着替えた。
最初の仕事はレジ打ちの見学。ベテランのバイトの女性が手際よくオーダーを受け、レシートを渡していく様子に見入った。
「次はあなたやってみて」
緊張しながらレジに立つ。初めての客は年配の女性だった。
「いらっしゃいませ」
震える声で挨拶し、注文を聞く。パネルを操作する指が汗ばむ。
「あの、もう一度お願いします」
聞き取れなかった注文を恥ずかしながら聞き直す。客は優しく微笑んで繰り返してくれた。
なんとか無事に会計を済ませ、ほっと息をついた。
「初めてにしては上出来だよ」
先輩バイトの言葉に、少し誇らしい気持ちになった。
バイト初日の帰り道、夕暮れの空が赤く染まっていた。
「疲れたー!」
鈴木と一緒に帰りながら、今日あった出来事について話した。
「最初のお客さん、ちゃんと対応できた?」
「なんとかな。緊張したけど」
「俺なんか初日、お釣り間違えて大目玉だったぜ」
「マジかよ」
話しながら、ふと立ち止まった。道の向こう側、本屋の前に白松さんが立っていた。
「あれ、白松さん?」
鈴木も気づいて、大きく手を振った。白松さんも気づいたようで、小さく手を振り返してくれた。
俺たちは道を渡って彼女の元へ。
「こんな時間にどうしたの?」
「本を探してたんだけど、欲しかったものがなくて」
「へえ、どんな本?」
「詩集」
意外な答えに、少し驚いた。いつもは数学や理科の本を読んでいるイメージがあったから。
「桜井くんたちは?」
「俺たち、バイト帰り。俺、この前言ってたバーガーショップ始めたんだ」
「そうだったんだ。頑張ってね」
彼女の優しい微笑みに、疲れが吹き飛んだ。
「もう暗くなってきたし、送っていこうか?」
思い切って言ってみた。
「ありがとう。でも大丈夫、家近いから」
断られはしたものの、彼女の表情は嬉しそうだった。
別れ際、彼女が言った。
「私、明日も本屋に来るかも。もしよかったら、バイト帰りにでも……」
言葉の続きを待った。
「また会えたら、嬉しいな」
そう言って白松さんは去っていった。
「お、おい」鈴木が俺の肩を叩いた。「今のって、デートの誘いじゃね?」
「ば、バカ。そんなんじゃない」
照れ隠しに言い返したが、胸の中はすでに期待でいっぱいだった。
そんな日々が続いた。
バイトに慣れていくにつれ、白松さんとの距離も少しずつ縮まっていく。
バイト帰りに偶然を装って本屋で会ったり、休日に図書館で勉強したり。
最初は緊張していた会話も、今では自然と言葉が出てくるようになった。
学校では授業中に交わす視線、昼休みに交わす言葉。
すべてが少しずつ、だが確実に変わっていく。
「桜井、今日も閉店まで?」
「ああ、木曜日はいつも最後まで入ってるんだ」
バイトを始めて一ヶ月が過ぎた頃、俺と鈴木は店内の常連になっていた。
週に三日、放課後から夜まで働く生活。疲れはするけれど、それ以上に充実感があった。
「よーし、今日も頑張るぞ!」
エプロンを締め直して、俺は笑顔でレジに向かった。
この生活も、あと一ヶ月経てば、もっと慣れるんだろうな。
そんな風に思っていたある日のこと。
バイト帰りに、運命は思いがけない形で俺の前に現れた。