01 清楚な微笑み
「……どうして?」
幸子の瞳に映る困惑。震える声。
「ごめん、俺やっぱりお前とは別の学校に行きたいんだ」
言葉を絞り出す前に、深く息を吸った。スー……フゥーッ。
あの一言で、自分を縛りつけていた鎖から解き放たれた気がした。息苦しさから解放された瞬間だった。
中学最後の一年間、俺は受験勉強に全てを注ぎ込んだ。ただ一つの目標のために――――幸子とは違う世界へ行くために。
「これで、あいつの呪縛から逃れることができた」
合格通知を手にして、心の底からそう思った。
「別れは新しい出会いのために必要だ」
そう自分に言い聞かせながら、俺は一歩を踏み出した。
桜の花びらが風に舞う春の朝。
新しい校舎の前で足を止める。空は青く澄み渡り、制服のボタンを留める指先が少し震えていた。
「どんな奴らがいるんだろう」
胸の奥がざわついている。ほんの少しの不安と、それ以上の期待。
教室のドアを開くと、予想外の声が飛び込んできた。
「あ、桜井悠人だ!」
見上げると、中学で同じクラスだった鈴木進一郎が手を振っていた。あのいつも明るい笑顔は変わらない。
「またお前と同じクラスかよ、まあよろしく」
「よろしくな」
口ではそう言っていたが、少し安心した。見知った顔がひとつあるだけで、この先の不安が和らぐ。中学ではそこまで親しくなかったけれど、新しい環境なら関係も変わるかもしれない。
鈴木以外は見知らぬ顔ばかり。少しずつ周囲の空気に馴染んでいくうちに、ホームルームが終わった。
「桜井、少し残れ」
担任の先生に呼び止められた。何かしでかしたかな?と思いながら残っていると、先生が俺の髪を一瞥して言った。
「式が始まるまでに髪を切ってこいよな。校則だ」
そう言われて初めて気づいた。俺の髪は肩に触れるほど伸びていた。正直、自分でもちょっと長いとは思っていたけど、切る暇もなく、ついそのままにしていたのだ。
「うぃーす、わかりました。先生ぃ」
いつもの調子で軽く返事をすると、教室の外から「クスクス」と笑う声が聞こえた。
顔を上げると、廊下に一人の女子生徒が立っていた。
大きな瞳。小柄な体。清楚な雰囲気。小さな顔に映える長い髪が風に揺れていた。その時の俺と同じくらいの長さだったかもしれない。
「よーし、俺の高校生活は始まった!」
――――髪を切って迎えた入学式。
教室に戻ると、鈴木が待ち構えていた。
「さっぱりしたな桜井、ところで部活何にするか決めたか?」
「中学の時あれだったから、また帰宅部にしようかな」
「……同じこと繰り返すのか?」
鈴木の表情が曇る。
「なんてな、なんてな。まだ決められないよ」
急いでフォローを入れると、鈴木は肩をすくめて笑った。
そんな会話の隙間から、クラスメイトの声が聞こえてきた。
「髪の長い奴がいたはずなんだけど、どこ行ったんだ? もう学校辞めたのかね?」
間違いなく俺のことだ。けれど、わざわざ名乗り出る必要もないと思い、黙っていた。
ふと、誰かの視線を感じて横を見ると、さっきの女子生徒が俺を見つめていた。微かに笑みを浮かべている。
ああ、あの時先生に注意されていたのを見ていたから、髪の長かった奴が俺だと分かっているんだ。
俺は人差し指を口元に立てて「シーっ」とジェスチャーを送った。彼女は微笑みながら小さく頷いた。
名前も知らない彼女と、小さな秘密を共有した。それだけで、俺の新しい春が色づき始めた気がした。
ただ、それだけだった。
言葉は一つも交わしていない。名前も、どこの出身かも、何も知らない。
それなのに。
胸の奥で、何かが動いた。
大げさな反応じゃなかった。ただ俺のジェスチャーを受け取って、静かに頷いた。それだけだ。
なのに、離れなかった。
鈴木に白松さんの名前を聞いたのは、翌週だった。
「白松百合子。小学校から一緒だったって言ってる奴が何人かいたな」
「ふうん」
胸が高鳴るのに、息苦しくない。
こんな感情は、初めてかもしれない。
もっと白松さんと話してみたい。クラスメイトなんだし、少しずつ距離を縮めていこう——そう決めて、俺は話しかけるタイミングを探していた。
数日後、俺は隣の席に近づいた。
「先週の試験、何点だった?」
我ながら、ひどい話しかけ方だと思う。でも、他に言葉が思い浮かばなかった。
彼女は少しだけ顔を上げた。
「93点だよ」
彼女の声は静かだけれど、芯があった。
「負けた……俺、88点だった」
「そうなんだ」
それだけ言って、また本に視線を戻した。
たった5秒ほどのやり取りだった。
でも、なぜかそれで十分だった。声が聞けた。それだけで、胸の奥が静かに温かくなった。
俺は試験の点数を聞くために勉強を頑張るようになっていた。次は白松さんの点数を超えたい。そんな単純な目標が、日々の原動力になっていく。
勉強に、恋に……次はバイトでも始めるかな。何か部活もやってみたい。
頑張ってる人は、欲張ってもいい――――そんな風に考えるようになったのは、白松さんの存在があったからかもしれない。
春の風が頬を撫でる。桜の花びらが舞い散る中、俺は新しい生活に胸を膨らませていた。まだ見ぬ明日への期待と、ほんの少しの不安を抱きながら。




