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見守られる背中

 

「今日……シフト入ってる桜井です。すみません……熱が出ちゃって……はい……申し訳ないです……」



 電話を切り、ふと深いため息が漏れた。窓の外には、冷たい雨が降り続けている。空は鉛色に沈み、雨粒が窓ガラスを伝って流れ落ちていく様子が、何故か自分の今の気持ちと重なって見えた。


 体調が悪いのはもちろんだが、それ以上に、白松さんとのすれ違いが胸の奥に重くのしかかっていた。


 昨日、寒空の中で無理をしたせいなのか、それとも心の疲れが体に出たのか、どちらにせよ学校もバイトも休む羽目になった。医者からは「単なる風邪だが、疲労が溜まっているようだ」と言われた。処方された薬を飲み、静かに横になる。



「……まさか、会いに行って自分が倒れるとはな」



 苦笑いしながら布団に潜り込む。頭がズキズキと痛み、喉は焼けるように熱い。体中の関節が痛み、ただ横になっているだけなのに、汗が滲み出てくる。


 熱はしつこく、3日間も俺を苦しめた。朝は少しだけ熱が下がるが、夕方になるとまた上がる。そんな繰り返しに、心も体も疲れ果てていた。


 バイト先からの電話が鳴り続けても、応える気力が湧いてこない。画面に表示される名前を見るたびに罪悪感が湧くが、それでも電話に出る勇気が持てなかった。


 その上、学校にも連絡するのをすっかり忘れていた。

 


「……やばいな、休みすぎてる……」


 

 そんな自己嫌悪に浸っていると、兄貴の声が響いた。廊下からドアをノックする音と共に、いつもより少し優しい声のトーンが耳に入ってくる。



「おい、電話! 白松ってコからだぞ!」



「……え、白松さん?」



 急いで家の電話を取ると、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。あの、少し高めで、でも芯のある声。白松さんの声だ。



「桜井くん……? 大丈夫?」



 電話越しでもわかる優しい声に、不意に胸が熱くなった。ただの風邪なのに、なぜか涙が出そうになる。弱みを見せるのは嫌だったが、喉の痛みのせいか、声は思った以上に弱々しかった。



「……白松さん、心配してくれたの?」



「学校来てないから……何かあったのかと思って……」



「うん……熱が出ちゃって……」



「無理しないで、早く元気になってね」



 短い会話だったけれど、それだけで少しだけ気持ちが軽くなった。白松さんの声を聞いただけで、体の芯から温かいものが広がっていくような感覚。これは熱のせいだけじゃない、何かが確かに変わり始めている。でも、その「何か」が何なのか、まだうまく言葉にできなかった。


 電話を切った後、窓の外を見ると、いつの間にか雨が上がっていた。雲の切れ間から、かすかな夕日が差し込んでいる。熱に浮かされた頭で、それが何かの前兆のように思えた。





 ――久しぶりの学校


 熱が下がり、久しぶりに学校へ向かった俺を迎えたのは、微妙に変わった教室の空気だった。廊下を歩いている時から、なんとなく視線を感じる。クラスメイトたちが、いつもより少し意識して俺を見ているような気がした。


 教室に入ると、さらにその違和感は強まる。何人かが一斉にこちらを見て、すぐに視線をそらした。普段なら気にしないことだが、今日はなぜか妙に気になる。



「あれ……俺の席、なくね?」



 キョロキョロしていると、鈴木がニヤニヤしながら声をかけてきた。彼の表情には、何かを知っている人特有の含み笑いがあった。



「お前、休んでる間に席替えあったんだよ。一番前、そっちが新しい席」



「……マジか」



 渋々新しい席に向かうと、隣に座っていたのは――白松さんだった。朝日を浴びて輝く彼女の横顔に、思わず息を飲む。休んでいる間に、こんな展開になるとは。



「……偶然だよな?」



 心の中でつぶやきながら席に着く。白松さんは俺が来たことに気づいていたが、特別な反応はなかった。ただ、小さく「おはよう」と言って微笑んだだけ。それでも、その笑顔には何か特別なものを感じた。


 しかし、教室の空気がなんとなく妙だった。


 俺が白松さんと少しでも話すと、後ろの方で小さな笑い声やひそひそ話が聞こえてくる気がする。チラッと振り返ると、何人かの視線と合い、彼らはすぐに知らんぷりをする。



「気のせいか?」



 いや、確かに何かが違う。昔からクラスの空気の変化には敏感な方だ。何か、俺の知らないうちに何かが起きたのだろうか。


 授業が始まり、教科書を開いたものの、どのページをやっているのかわからない。まだ頭がぼんやりしていることもあり、完全に置いていかれている感覚だった。みんなが一斉にページをめくる音の中、俺だけが取り残されている。


 焦る俺の視界に、そっと差し出されたノートが映った。白い手が、丁寧に書かれたノートを差し出している。



「これ……写しておいて。休んでた分、大変だと思うから」



 白松さんが、静かに微笑みながらノートを渡してくれた。彼女の字はいつも通り、きれいで読みやすい。でも、今日はなぜかその字の一つ一つが特別に思えた。



「あ、ありがとう……」



 その優しさに、胸の奥がじんとする。こんな当たり前の親切でも、今の俺には染みる。


 でも、同時に周りの視線が気になって落ち着かない。誰かが「やっぱりね」とつぶやいたような気がした。いや、聞き間違いか?


 ノートを写しながらふと顔を上げると、白松さんはすでに前を向いていた。真剣に授業を聞いている横顔は、いつもより少し引き締まって見える。


 その姿は、どこか遠くを見ているようで、少し寂しそうにも見えた。何か考え事をしているのだろうか。俺に関することだろうか。そんな期待と不安が入り混じる。


 昼休みになると、教室はいつもの賑やかさを取り戻した。でも、やっぱり何かが違う。俺の周りには、いつもより多くのクラスメイトが集まってきて、「大丈夫だった?」「何日も休むなんて珍しいね」と声をかけてくる。


 普段なら何とも思わないことなのに、今日は妙に気恥ずかしい。みんなの視線に、何か特別な意味があるように感じる。



「別に大したことなかったけど、熱が下がらなくて」



「へー、熱だけ? 他に何かあったりして?」



 その言葉に、思わず顔が熱くなる。みんな、何かを知っているのだろうか?


 昼食を食べながらそんなことを考えていると、白松さんが教室を出て行くのが見えた。いつものように一人で、静かに。でも、その背中には何か言葉にできないものを感じた。


 授業が終わり、放課後の教室でも妙な感覚は続いていた。



「桜井、ノート写せたか? 大丈夫?」



「風邪治ったみたいでよかったな」



 クラスメイトたちが、声をかけてくれる。


 特別な言葉じゃない。でも、妙にあたたかい。まるで皆が、俺の周りを優しく包み込むように接してくる感じがした。


 隣に座っていた白松さんが、荷物をまとめながら小さな声で言った。



「……みんな、桜井くんのこと気にしてるよ。バイトとか、頑張りすぎないでね」



 その一言に、胸の奥がまたじんとした。彼女は、俺のことをちゃんと見ていてくれたんだ。



「そうか……なんか、悪いな」



「悪いなんてことないよ。みんな、ただ応援してるだけだから」



 白松さんはそう言って、ふんわりと笑った。その笑顔に、思わず見とれてしまう。



「あの、白松さん……」



 何か言おうとした瞬間、彼女の友達が呼びに来て、会話は中断された。彼女は小さく手を振り、友達の後を追って教室を出て行った。言いかけた言葉は、そのまま飲み込んでしまった。



 翌日も、教室の空気はいつもと少し違っていた。


 みんなが俺を気にして、そっと見守ってくれている――そんな感じだ。

 

 ふと思う。


 クラスメイトたちは、俺と白松さんの間に何かあったことを知っているんじゃないか。あの寒い日の放課後、二人きりで話していたこと。俺が彼女を追いかけたこと。あるいは、それ以前からの俺たちの関係性。

 でも、誰もからかうことはせず、あたたかい言葉でそっと背中を押してくれる。そんな優しさが、この教室には満ちていた。

 

 その優しさに、少しこそばゆさを感じつつも、ありがたいと思った。


 俺ももっと、しっかりしなきゃな。


 白松さんの隣の席から見た彼女の横顔は、どこか物憂げだったけれど、それでも少しだけ優しさがにじんでいた。彼女がノートを取る手の動きも、髪をかき上げる仕草も、すべてが特別に見えた。



「今日はアルバイト、行くの?」



 授業が終わって、白松さんが小さな声で尋ねてきた。



「ああ、行くよ。もう大丈夫だから」

 


「そう……無理しないでね」



「ありがとう、心配してくれて」



 それだけの言葉のやり取りなのに、なぜか特別な意味を感じる。この空気感は、確かに前とは違う。俺と白松さんの間に流れる時間が、少しずつ変わり始めている。


 そう思いながら、俺は教室を後にした。


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