表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/45

清楚な微笑み

 

「……どうして?」



 幸子の瞳に映る困惑。震える声。



「ごめん、俺やっぱりお前とは別の学校に行きたいんだ」



 言葉を絞り出す前に、深く息を吸った。スー……フゥーッ。


 あの一言で、自分を縛りつけていた鎖から解き放たれた気がした。息苦しさから解放された瞬間だった。


 中学最後の一年間、俺は受験勉強に全てを注ぎ込んだ。ただ一つの目標のために——幸子とは違う世界へ行くために。



「これで、あいつの呪縛から逃れることができた」



 合格通知を手にして、心の底からそう思った。



「別れは新しい出会いのために必要だ」



 そう自分に言い聞かせながら、俺は一歩を踏み出した。




 桜の花びらが風に舞う春の朝。


 新しい校舎の前で足を止める。空は青く澄み渡り、制服のボタンを留める指先が少し震えていた。



「どんな奴らがいるんだろう」



 胸の奥がざわついている。ほんの少しの不安と、それ以上の期待。



 教室のドアを開くと、予想外の声が飛び込んできた。



「あ、桜井だ!」



 見上げると、中学で同じクラスだった鈴木が手を振っていた。あのいつも明るい笑顔は変わらない。



「またお前と同じクラスかよ、まあよろしく」



 口ではそう言ったが、少し安心した。見知った顔がひとつあるだけで、この先の不安が和らぐ。中学ではそこまで親しくなかったけれど、新しい環境なら関係も変わるかもしれない。



 鈴木以外は見知らぬ顔ばかり。少しずつ周囲の空気に馴染んでいくうちに、ホームルームが終わった。



「桜井、少し残れ」



 担任の先生に呼び止められた。何かしでかしたかな?と思いながら残っていると、先生が俺の髪を一瞥して言った。



「式が始まるまでに髪を切ってこいよな。校則だ」



 そう言われて初めて気づいた。俺の髪は肩に触れるほど伸びていた。正直、自分でもちょっと長いとは思っていたけど、切る暇もなく、ついそのままにしていたのだ。



「うぃーす、わかりました。先生ぃ」



 いつもの調子で軽く返事をすると、教室の外から「クスクス」と笑う声が聞こえた。


 顔を上げると、そこには一人の女子生徒が立っていた。


 大きな瞳。小柄な体。清楚な雰囲気。小さな顔に映える長い髪が風に揺れていた。その時の俺と同じくらいの長さだったかもしれない。



 名前も知らない女の子だったけれど、後になって分かった。彼女は同じクラスになった白松百合子。俺の高校生活を彩ることになる一人の少女だった。



「よーし、俺の高校生活は始まった!」





 髪を切って迎えた入学式。


 教室に戻ると、鈴木が待ち構えていた。



「さっぱりしたな桜井、ところで部活何にするか決めたか?」



「中学の時あれだったから、また帰宅部にしようかな?」



 言いながら、中学時代の部活の記憶がよみがえる。あの頃は幸子という「居場所」があるから他に何も必要なかった。そんな閉じた世界にいた。



「……」



 鈴木の表情が曇る。



「なんてな、なんてな。まだ決められないよ」



 急いでフォローを入れると、鈴木は肩をすくめて笑った。


 そんな会話の隙間から、クラスメイトの声が聞こえてきた。



「髪の長い奴がいたはずなんだけど、どこ行ったんだ? もう学校辞めたのかね? 早すぎる」



 間違いなく俺のことだ。けれど、わざわざ名乗り出る必要もないと思い、黙っていた。


 ふと、誰かの視線を感じて横を見ると、白松さんが俺を見つめていた。微かに笑みを浮かべている。


 ああ、あの時先生に注意されていたのを見ていたから、髪の長かった奴が俺だと分かっているんだ。


 俺は人差し指を口元に立てて「シーっ」とジェスチャーを送った。彼女は微笑みながら小さく頷いた。


 その仕草が、なんだか愛らしくて、胸の奥が温かくなった。


 白松さんのことはまだ何も知らない。名前と、その清らかな笑顔だけ。それなのに、あの微笑みや仕草を思い返すだけで、心が揺れる。



 これが恋なのかな? 



 初めての恋——なんて、大げさかもしれない。でも、幸子との関係とは明らかに違う、透明で軽やかな感情だった。



 不意に中学の頃の幸子の顔が頭をよぎる。彼女の不安げな目、俺の一挙手一投足に反応する神経質な様子。




「いや、あれは恋じゃない。ただの依存だったんだ。呪縛はもうない」



 そう自分に言い聞かせて、気持ちを切り替える。これからの高校生活は、新しい出会いのためのものだ。


 もっと白松さんと話してみたい。クラスメイトなんだし、少しずつ距離を縮めていこう——そう決めて、俺は話しかけるタイミングを探していた。



 勇気を出して声をかけた日、彼女の瞳が少し輝いたように見えた。



「先週の試験、何点だった?」



「93点だよ」



 彼女の声は静かだけれど、芯があった。



「負けた……俺、88点だった」



 そんなやり取りをするうちに、俺は試験の点数を聞くために勉強を頑張るようになっていた。次は白松さんの点数を超えたい。そんな単純な目標が、日々の原動力になっていく。



 勉強に、恋に……次はバイトでも始めるかな。何か部活もやってみたい。



 頑張ってる人は、欲張ってもいい——そんな風に考えるようになったのは、白松さんの存在があったからかもしれない。



 春の風が頬を撫でる。桜の花びらが舞い散る中、俺は新しい生活に胸を膨らませていた。まだ見ぬ明日への期待と、ほんの少しの不安を抱きながら。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ