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獅子譚  作者: 毛野智人
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(二十)

 人々はその姿を見て悲鳴を上げた。

 人か? 獣か? それとも神か?

 遠くから迫るその影を見つけただけでは、それが何者かは判然としない。

 しかしその次には、驚倒の裏に希望を秘めた眼差しでもって彼を見つめ、その背を見送ることになった。それというのも、ネメアの森に棲む化け物に長らく脅かされてきたクレオーナイの人々には、彼の背に担がれた獣の亡骸が、紛れもなくあの人食い獅子のものだと解ったからである。

 超大な躯体を運ぶには相当の力がいる。

 ずるり、ずるりと脱力した怪物の身を引きずって、遅々としながらも確固たる足取りで、その男はある人の家を目指していた。

 生け贄を死者に供するための煙が上がっている。その煙柱を見て、男は満身創痍の身に鞭打って足を早めた。やがて辿り着いた家の戸を渾身の力で叩く。早く出ろと言わんばかりの勢いに、家の主人が顔を顰めて外に出てきた。しかしその顔は間もなく外の人々と同じように変化する。

「あんた――まさか、本当に」

「今日が、三十日目だ」

 男はぎろりと家主を睨む。約束を違えてはおるまいな、と確認するように。その瞳の中に火花が爆ぜる。

「あ、ああ。まだ、儀式の準備をしていたところだ」

「では、その供物は約束通りゼウスへ」

 家主であるモロルコスは頷き、男の言う通りにした。

 男はモロルコスと共にゼウスへ祈りを捧げて早々に、クレオーナイを()った。


 人々はその姿を見て悲鳴を上げた。

 人か? 獣か? それとも神か?

 彼が半神だと知る者は、このアルゴスの地にはいない。

 しかしティリュンスの王宮近くに暮らす人々には、異形にも映るその容姿が、何らかにおいて人より優れている故のことであると直観されたに違いない。それというのも、この国の人々には、かつて半神の英雄によって栄華を極めたという記憶が連綿と受け継がれているからである。

 ゼウスとダナエーの間に生まれしペルセウス。

 怪物メドゥーサを討ち取り、美しきアンドロメダを妻に(めと)りし英雄の、その血族の治めるミュケナイにおいて、人々は英雄の再来を望んでいた。父祖の代から語り継がれてきた英雄の姿を、今度は耳で聞くだけでなく己の目で見たいと切望していた。

 民衆の騒がしい声を聞きつけ、ティリュンスの王エウリュステウスは王宮の露台へ姿を現した。何か大きなものを担ぎながら王宮へ向かってくる者がある。その姿を遠巻きに眺める人々が集まり、まるで彼のための道が作られているかのようだ。

 エウリュステウスはそれが何者かと思って目を凝らす。そしてその者の正体を知って、青ざめた。

「ヘラクレス――まさか、本当に」

 思わず数歩後ずさり身体の均衡を崩した王を、臣下が受け止める。

「あの方ならば成し遂げたとて何ら不思議はございません」

 背後からかけられた陶然とした声に、エウリュステウスはぎょっとする。

「イピクレス…」

「ああ、何とお美しいのでしょう。誰も手を付けられなかった化け獅子を(つい)に仕留めてこられた。今度はあの皮で新しい甲冑を仕立ててあげなくては」

 自分の身体よりも何倍も大きな人食い獅子の毛皮を背負って進軍してくる男を見て、うっとりとイピクレスは呟いた。心酔している。エウリュステウスが地位を与え、時間をかけて懐柔したと思っていたこの男が、難業を乗り越え帰還した男の姿を一目見ただけで、こうも易々と崇める相手を変えるのか。

 しかも恐ろしいことに、それはヘラクレスと血を分けたイピクレスだけではなかった。

 他の兵士や宰相達までもが、固唾(かたず)を呑んでヘラクレスが王宮へ近付いてくる様を見守っている。

 誰にも不可能と思しき非情かつ残酷な命に黙って従い、それを完遂させた。

 一体この男は何者なのか? と――各々の眼差しが語っている。無論、そう疑問に思ったのはエウリュステウス自身も例外ではないが、このままではいけないと思い直す。このままあの男を宮殿の中へ迎えては、玉座に座るべきがどちらかなど、誰の目にも明らかではないか。

「止まれ!」

 エウリュステウスが露台から声を上げた。

 男は足を止め、獅子の毛皮の重さに俯いていた顔をゆっくりと上げた。

 久方ぶりに仰いだ空は眩しかったのだろう、(すが)めた目はしばらく宙を彷徨(さまよ)い、やがて前方にある王宮にこの国の君主の姿を見つけた。そして(うやうや)しく膝を折る。

「ヘラクレスよ。大儀であった」

 エウリュステウスは遙か高みから獅子狩りの勇者に声をかける。あくまでもあの男はこの王の命に従い戦果を上げたに過ぎないのだと民衆に示すために。

「流石はテーバイ随一の英雄。何人も倒すことの(あた)わなかった人食い獅子を仕留めるとは。我が国の民もそなたの功を讃えるであろう」

 市中の人々は当然だと頷き合う。

「しかしこれでそなたの罪を全て(すす)げるとは思っておるまい?」

 その一言に皆、彼が罪人であったことを思い出した。それも自らの妻と子を殺めた大罪人である。

「私の命は既に神のものです。ゼウスは陛下に従うようにと仰せでした。ならば貴方の命ずるままに、我が運命は進みましょう」

 落ち着き払ったその声音は、とても罰を受けるべき罪人のものとは思えない。生きることに意味を見出せず己の生を諦めた無気力ではなく、生きるために自らの命を()す先を求める覚悟からくる静謐。

 むしろその様に罪人の如く怯えているのは王の方ではあるまいか。人間業ではないことを命じても逆らうことなく受け容れ、躊躇なく挑み、やり遂げて帰ってくる。化け物を仕留めた彼の方が化け物なのではないかと(おそ)れて二の句が継げないでいる。

 そこで再び人々は、この男は何者であるか、という問いに行き当たった。

 本当に罪人なのか? 否、そもそも人間なのか?

 この男を言い表すのに、如何なる述語も適当ではない。彼が英雄であるという命題も、罪人であるという命題も、唯一にして無二の姿を前にしては()()けられてしまう。

 人々はやがて知るだろう。彼こそはヘラクレス。ゼウスの正妻ヘラによって呪われた生を歩んだ末に、己自身の仕業(しわざ)によって栄光を勝ち獲る男であったのだ、と。

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