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終章 51

 空は重く湿った灰色の雲が覆い、風は夏という季節にも関わらず肌寒い。そんな日に、フォンク軍はランスの占領を果たした。

 占領といっても、元は自国である。抵抗などはなく、民衆には歓呼で迎えられて、極めて平和的なものであった。

 同日、アルベール・フォンクの死が公表されると、スクラン全土は一斉に悲しみに包まれ、諸外国からも弔辞が届き、各国の航空団は黙祷を捧げた。

 それは、同時に公表された共和国大統領フェリクス・オベールの死を包み込んで余りあり、彼の醜聞さえも、大きく取り沙汰されるには至らなかったのである。

 ついで、ベーゼルとの劣悪な条件による講和に賛成した政府、議会の解散が発表された。

 ランディ・ヴァレリアンは誰もいないであろう自宅に戻ると、大きな犬が自身を迎えてくれる事に驚きを隠せなかった。

「シシィ……なぜここに?」

 悲しげな表情を浮かべ玄関に現れた妻に、ランディ・ヴァレリアンは驚きの表情を浮かべた。

 そんな彼の言葉に、僅かだが妻は喜色を表す。

「あなたがお戻りになられた時、一人ではきっと寂しいと思って」

 知らず、彼女を愛称で呼んだランディ・ヴァレリアンである。

 彼は、フリードリヒの真意を知ると、もはや死ぬ意味を見出せなくなっていた。

 それに、アルベール・フォンクの最後の言葉が今も耳に残っているのだ。願いを叶えてやる必要は無いと思いつつも、どこかその言葉に忠実たらんとしている自身がいた。

 それに、フランツを奪い、あまつさえアルベール・フォンクをも奪った自分である。イレーネと共にベーゼルへ戻り、その手腕を生かす事も、彼女に対するせめてもの贖罪にはなるであろう。

「なあ、シシィ。これから私はベーゼルで暮らす事になるのだが、ついて来てくれるかね?」

「あなたの行かれるところならば、何処へでも行きますわ」


 ローデンブルク宮殿は、俄かに喧騒に包まれていた。

 行方知れずになっていたイレーネ・ブランドが戻ってきたのだから当然である。

 しかも宮殿の周囲は、帝国情報防御本部の部隊が包囲して、誰一人逃げられない状態であった。

「従うしか、ないと思うがね?」

 皇帝調査室室長は、悟ったように親衛隊の副隊長に囁いた。

 調査室室長にしてみれば、後ろ盾である皇帝は既に亡く、今更、親衛隊が連れてきた皇帝の外戚等では帝位の継承など覚束ないのだ。ならば皇位の正当性から言っても間違いなくイレーネ・ブランドに軍配があがる。そうであれば、彼女を宮殿が拒む理由などないと考えていた。

 何より、執務室にいる皇帝の補佐官達が、すでにイレーネ・ブランドを歓迎しているようであった。

 もっとも、グレゴリオ・ゼレンカは、その背後にいる人物を知っている。

「アウラーの手腕、か」

 かつての上官を優秀だと認めていたが故に、自らの才覚を試したくなったゼレンカである。だからこそ、袂を別った。しかし、これは自らの完全なる敗北のようであった。

 コルドゥラを餌としてベルンハルトを傀儡とする。そして自身が実権を握るつもりが、双方を失う始末であった。

「だが、ま、挑んで負けた以上、俺にも誇りはあるからな」

 グレゴリオ・ゼレンカの提案によって親衛隊と調査室はそれぞれ降伏したが、ゼレンカのみは自室で拳銃自殺を遂げていた。

 後世、その行為は皇帝に殉じたものだと言われたが、真相は誰も知らなかったのである。


 ジョセフ・ジョレスは、甚だ不本意な事ではあったが、アルベール・フォンクの遺言を忠実に守っていた。

 国民投票に際し、馴れない演説を愚直に繰り返して大統領になったのだ。

 いっそ演説の愚直さが、国民には受けた。それに、フォンク軍を実質指揮した者であったことも大きい。また、彼の実務処理能力は、大統領になる事によって遺憾なく発揮された。

 戦いによって破損した橋や道路を補修し、線路を結び鉄道を走らせ、経済を発展させた。

 その結果、大統領を四期勤めてスクランの鉄面元首、などと呼ばれる事になるのだが、それはまた別の話である。

 ジョセフ・ジョレスの下、スクラン軍は急速に再建されてゆく。その中でも重要な役割を担ったのが、アンセルム・エナル率いるフォンク空戦団であった。

 アンセルム・エナルはそのまま航空団を率いる立場となり、グレゴール・シャルリエ、リオネル・デジャンは空戦団を率いる立場となった。

 特に変わった事といえば、機体の一部を赤色に着色する者が増えたことであろうか。だが、流石に、パーソナルカラーに赤を選ぶ者はいなかった。もっとも、仮にいたとすれば、アンセルム・エナルの逆鱗に触れて、塗り直しをさせられることは間違いなかったのだが。


 ハンス・バウアーは、宣言した通りにブラッケを探し当て、彼の顔面に一撃入れる事に成功していた。

 それから、スクランには自分の居場所がない、ということでイレーネ・ブランドと共にベーゼルへと戻ったのである。

 結局、彼は後にベーゼル空軍の創始者となり、生涯に渡ってイレーネ・ブランドを支える事になるのであった。

 

 ハンス・バウアーという名の暴漢に襲われ、鼻血を垂らしつつ官舎に帰宅した不幸なブラッケは、その直後、人生最大の幸運を味わう事になる。

 ブラッケの帰宅を、ブリジットが待っていたのだ。

 英雄であるアルベール・フォンクと戦ったブラッケではあったが、ブリジットにとっては彼こそが、アルベール・フォンク以上に英雄であった。

 彼が撃墜されたと軍の関係者から聞いた時は、視界が暗転したものだった。

 それで、彼が帰ってくるというので、いても立ってもいられず、仕事を休み、クッキーを焼いて彼の官舎の前で待っていたのである。

「ど、どうしたんですか? その顔!」

「いやまぁ、顔見知りの暴漢に襲われて」

 頭を掻きながら、それでも嘘はついていないブラッケである。だが、目の前の女性はブラッケを心底心配しているようであった。

「ま、まぁ、とにかく治療をっ! 早く鍵を開けてくださいっ!」

 ブラッケが官舎の鍵を開けると、ブリジットは急いであちこちと走り回る。

「薬箱はどこですかっ?」

「あ、ああ、まだ無いんだ」

「買って来ます! 待ってて下さい!」

 そう言うと、ブリジットはすぐに出て行ってしまった。

 ブラッケはリビングのソファーに腰を下ろすと、ブリジットが置いていった包みを開き、中を見る。

「クッキーか」

 勝手だとは思うが一つを摘んで口の中に放り込むと、”さくっ”とした食感と上品な甘みが口の中に広がった。

 暫くするとブリジットが戻り、鼻の周りをさわり、消毒して湿布を張ってくれた。

 そこで、ブリジットは改めて赤面する。

 本当はブラッケに会って、クッキーを渡して帰るつもりでいたのだ。それが、勝手に上がり込み、今はソファで二人、並んで腰掛けているのだから驚きである。

 急いで帰り支度を始めると、ブラッケに引き止められた。

「今日、時間があるなら夕食でも一緒にどうかな?」

 振り返るブリジットの答えは、既に決まっていた。

「はいっ!」

 後に、二人は結ばれ、ブラッケは軍を退く。

 ブラッケが空を飛ぶ事も、戦いに出ることもブリジットは嫌がった。ブラッケもまた、それを受け入れたのだ。

 後悔は無かった。

 友を殺してしまう空へなど、上がりたくなかった。それに、アルベール・フォンクを超えることは、もはや諦めたのである。何しろ、もう相手がいないのだから。

 ブラッケにとっての空に上がる必要性や意味は、アルベール・フォンクの死と共に失われたのであった。


 ランディ・ヴァレリアンは、ベーゼルに戻った当初、苦労をした。

 イレーネ・ブランドが塞ぎ込み、口を開けば恨み言をいう。

 自身がフランツ・ブランドやアルベール・フォンクの仇だと思えばそれも当然であったが、そのままではアルベール・フォンクの遺言とて果たせない。

 途方にくれたランディ・ヴァレリアンは、イレーネ・ブランドとシシィを会わせる事にした。

 まさか、シシィがイレーネの心を開いてくれるとは嬉しい誤算ではあったが、ともかくも以後、表面上イレーネ・ブランドは、ランディ・ヴァレリアンに恨み言をいう事はなくなった。


 そして、世界には、平和が訪れた。


 各国は連盟を組んで、互いに争わない組織を作りつつある。

 それは、フリードリヒが言った制覇ではない。だが、統一に近づいた事は事実である。

(結局、俺はしてやられたのか? フリードリヒ)

(世界が良い方向に動いているのなら、それで良いのではないかね?)

 ランディ・ヴァレリアンは、ベーゼルの帝国情報防御指揮官コルネリウス・アウラーとして、世界を相変わらず飛び回り、自らの内面に語りかける。

 フリードリヒに対しては、どこか釈然としない思いがあった。

 だが、それでも帰宅して妻と一人娘の顔を見れば、取り敢えずの平和に酔いしれるのであるから、満足といえなくもない日常である。


「アルベール」

 黄金の髪を靡かせて、碧眼の美女は広大な庭園を走る幼子に声をかける。

 幼子の髪は、燃えるように赤く、瞳は何処までも澄んだ蒼だった。

 イレーネ・ブランド・フォン・ベーゼルは皇位についた後、ひっそりとアルベール・フォンクとの子を産んだ。だが、その子を命名するにあたり、一切を隠す事をしなかったのだ。

 すなわち、アルベール・フォンクとの物語を全て、国民にも話したのである。

 躊躇いは無かった。

 隠す事こそ、最愛の者を侮辱する事になると考えたからだ。

 本当は、その事をフランツ・ブランドに相談したかった。しかし、アルベール・フォンクの死と共に、兄もまるで消えてしまったかのように、二度とイレーネ・ブランドの前には現れなかったのだ。

 多分、自分と一つになったという事なのだろう。自らの内に暖かい力を感じる時が、イレーネにはあった。きっとそれがフランツなのだと、今は信じている。

 だから、代わりにシシィに相談した。

「良いお考えですわ、イレーネ様」

 笑顔を浮かべて、シシィは賛成してくれたものである。

 アルベールは、清楚なドレスに身を包んだ母の元へと歩み寄る。

 今年で五歳になる彼は、父、母の特徴を共に受け継いでいた。だが、それは容姿だけの事ではない。何より飛行機に感心を寄せているようであった。

 一度、イレーネと共に空戦団を視察した時、戦闘機の操縦席に乗せると、あたかも知っているかのようにスロットルレバーや操縦桿を触るのである。そして、足を伸ばし、フットペダルに足が届かない事を悟ると、さも悔しそうに顔を顰めるのだ。

 イレーネ・ブランドは苦笑を浮かべたが、共にいたハンス・バウアー等は涙を堪えていたものである。

 何しろ、その仕草が余りにアルベール・フォンクを思わせるのだから。

「アルベール、行きますよ? 早く車に乗りなさい」

 今日は、アルシラに行く日である。

 かつて、かの国はベーゼルに影から支配されていたのだから、その呪縛から開放するというイレーネの提案には、喜んで飛びついたのだ。

 それに、幼いアルベールに見せたい景色が、イレーネ・ブランドにはあった。

 それは、アルシラの南方、ゲタリアと言う名の港町にある。

 

 ガロが海から戻ると、波止場には黄金色の髪をした碧眼の美女が膝を抱えて座り込み、その隣で赤毛の子供が釣り糸を垂らしていた。

「そんなとこじゃ魚はつれねぇよぉ!」

 ガロの声は、何処かしら震えていた。赤い髪の子供が、どうしてもアルベール・フォンクに見えるのだ。それは、ありえない事だとは分かっていても、そう思えてならなかった。

 赤髪の子供は立ち上がると、静かに指を上に向けて、言った。

「あそこからなら釣れる?」

 空は、限りなく澄んで、水平線に向かって伸びている。

 小さなアルベールは、空を見上げて、果てしない蒼穹に手を伸ばすのであった。

ここまでお付き合い下さいました皆様、どうもありがとうございました。

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