終章 46
イレーネ・フランツが縦横に敵を蹴散らしていた時、ヴォルフ・フォン・ブラッケはただ指を咥えて状況を見ていた訳ではない。イレーネ・フランツを止められぬ事情があったのだ。
ブラッケが漆黒の機体を追おうとした時、一機の銀灰色をした機体が間に入ったのである。
別に気にも留めず、一度か二度の機銃射撃で落とせるだろう敵機だと考えていると、意外にもそのまま格闘戦に転じてしまい、地上戦の集結間近まで手間取ったのだ。
確かに、敵は強敵であった。しかし、ブラッケがそこまで手間取った理由は、技量の故ではない。その敵がコンラート・アスマンだと、途中で気がついてしまったからだ。
だから、時間がかかった。撃墜すると決意するまでの時間が、である。
最終的にはコンラートに対し、礼を失している気持ちになり、ついには撃墜したのだ。
ブラッケにとって、これは災難であると言えた。何しろ、元部下で友人とも言える男を、自らの手で葬らねばならなかったのだから。
黄昏時を過ぎてランスの基地に帰還したブラッケは、手短に部下の健闘を称えると、早々に官舎に戻ってゆく。
彼の部下たちは、そんな指揮官の後ろ姿を見送りながら、首を傾げたものだった。
この戦いは、スクラン第二空戦隊が濃紺に塗装された機体を使い、ブラッケ空戦隊と呼ばれる事になって初めての任務であった。そして、戦果は赫々たるものである。
何しろ、ここ数日、新しい戦術機動の訓練に明け暮れていたのだ。その成果が出たのだから、隊員の喜びも一入であった。
にも拘らず、隊長であるブラッケの顔色が優れない。部下たちが訝しむのも無理からぬことであったのだ。
「最近、基地に詰めっぱなしだから機嫌が悪いんじゃないか?」
「あぁ、ブリジットに会えないもんなぁ」
そんな部下たちの囁きも聞こえたが、ブラッケは静かに官舎に帰るより他、自身の喪失感を慰める術を持たなかった。
ブラッケの官舎は、アルベール・フォンクのそれと大差ない作りである。佐官用の官舎なのだから、それも当然のことなのだ。
しかし、外観や間取りが同様だとしても、その室内は大きく異なっていた。
物が散乱していたアルベール・フォンクの部屋と比べれば、ブラッケの部屋は「何も無い」と言ってよい程である。
ある物と言えば、グラスとビール、或いはワイン。それから着替えの軍服程度のものである。
食事は全て基地で摂る。余暇があれば、ブリジットのいるルポゼに行けば良い。衣類は、流石に私服くらいは欲しいと思うが、今は戦争中でブラッケは軍人である、買いに行く余裕さえなかった。
ブラッケは扉を開き官舎に入ると、そのまま寝室へと直行する。
アルコールで気を紛らわそうか、とも考えたが、どうにもその気力さえ湧かないのだ。だから、寝室に入ると、明かりも灯さないまま、ベッドに横たわる。
「コンラート・アスマン……退いてくれさえすれば、なにも……」
昼間の空戦を思い出すと、悔しさで涙が出るのだ。
目頭を指で押さえ、溢れる涙を堪えようと試みるが、ブラッケは早々に諦めた。
(別に、ここならば一人だ。泣いても、誰に咎められる事も無い)
つまりはその為に一人、帰宅したのだ。まさか、勝利を収めた指揮官が泣くなど、おかしな話であろうから。
最初は、漆黒の機体を駆るイレーネ・フランツに挑んだつもりであった。しかし、正面から互いに向き合いすれ違うと、二度と彼女はブラッケの前に現れなかった。
その行動は、「逃げた」とも取れた。
だが、あの時、互いにすれ違った時に確信したのだ。
瞬間、ブラッケはイレーネがどちらに避けるかが判った。同様に、イレーネも、自身の行動を判っていたはずだ、と。
そうでなければ、あんな、空中で正面衝突さえしかねない行動は出来ない。それこそがイレーネ・フランツやアルベール・フォンクが住む世界なのだ。
そして、自分もそこに到達した事をブラッケは理解した。
そうであればこそ、その境地に至らないコンラート・アスマンは、どれ程技量が優れていても、ブラッケにとって敵ではない。
だから、ブラッケは常にコンラート・アスマンの攻撃をかわし続けた。
そうする事で、諦めてくれれば良いと思ったのだ。だが、コンラートは表情に怒気を漲らせ、執拗に攻撃を仕掛けてくるのだ。
不思議であった。しかし、その理由を、自身の奥底に見出したブラッケである。
「手を抜いている……と、思われているのか」
結局、ブラッケは全力を出した。
最終的にブラッケは容易くコンラート・アスマンの背後を取り、射撃し、彼の機体を火球へと変えたのである。
ブラッケは、友人に最大の敬意を払ったのだ。為に、友人を自ら殺してしまった。
悔やんでも、悔やみきれない涙が彼の目から溢れ、冷たく枕を濡らすのであった。
イレーネ・フランツは、空戦団指揮室に戻ると、不機嫌そうな顔を周囲に向けていた。
不機嫌の原因は、概ね自身の不調であったり、満足のいかない戦果であったりしたので、誰かに文句を言う訳にもいかない。
「無事で何よりです、参謀長」
留守役のシャルリエに声をかけられた時も、何となく不機嫌そうな顔を向けてしまった。シャルリエには何ら非が無いだけに、イレーネ・フランツとしては、惨めな思いが募るばかりであった。
「司令は、まだ戻っていないのか?」
なんとなく取り繕うように聞いたが、出撃した場所の問題で、アルベール・フォンクが自分たちよりも先に帰還するはずがない事は分かっている。無駄な問いであった。
「まだ、ですね」
質問の意図を図りかねたグレゴール・シャルリエは、首を傾げながら答えた。しかし、余計な追求もしない。その必要性も感じなかったからである。
だが、これがもしもアンセルム・エナルなどであれば、「はぁ?」等と答えてイレーネ・フランツの逆鱗に触れていたであろう。そう思えば、シャルリエの返答は、イレーネ・フランツに対して、至極無難なものであったと言える。
暫くすると、ハンス・バウアーが帰還した。そして、コンラート・アスマンの席を確認し、未だ同僚が戻っていない事を知ると、僅かに動揺を見せる。
「コンラートは、まだですかね?」
「ん? ああ、まだ戻ってないな」
滑走路に下りるには、順番というものもある。イレーネは参謀長という立場から真っ先に帰還したが、そうそう隊長達が優先という訳でもないのだ。本来は、燃料が少ない者や被弾している者が優先される。実際に、未だリオネル・デジャンも帰還していないのだから。
だが、ハンスの表情から、知らずイレーネは不安になる。
(そういえば、わたしがブラッケに背を向けた後、あいつは追ってこなかった)
自身の行為の後ろめたさから、イレーネ・フランツはブラッケの居る戦場を一気に離れた。そして、背後を振り返らなかったのである。
その後の戦場で、度々ハンスを見かけていただけに、コンラートも近くに居るものと思い込んでいた。
(だが……誰かがブラッケを抑えていなければ、きっと追って来たはずだ……)
イレーネ・フランツの不安は、リオネル・デジャンの帰還と共に最悪の形となって現れた。
「参謀長、アスマン少佐が戦死されたそうです」
デジャンは、コンラートの部隊の者にその事を聞いたという。
何より、リオネル・デジャンはブラッケとコンラートの一騎打ちを見ていたのだ。
浅葱色の機体に必死で食らいつく銀灰色の機体。それは垂直尾翼に真紅の意匠を施して、コンラートの機体である事を示していた。
自席に座り、下唇をイレーネはかみ締めている。
胎児を守る為に、自分はコンラートを犠牲にしたのだ、と、そんな罪悪感に酷く苛まれていた。
「馬鹿な!」
椅子を後ろに押し倒しながら、ハンス・バウアーが席から立ち上がる。だが、彼とてもその予感はあったのだ。やはり彼も、コンラートとブラッケとの一騎打ちを多少なりとも見ていたのだから。
両手で顔を覆い、荒い呼吸をイレーネは繰り返した。
(自分が戦っていれば、コンラートは死なずに済んだはずだ。しかし、その時胎児は無事だったろうか?)
酷く自分が利己的な人間に思えて、イレーネ・フランツは嘔吐感を覚える。
揺れる足取りで洗面所に行き、胃袋の中身を吐き出すと、多少は楽になった。しかし、自身に対する嫌悪感が薄れる事は無い。
手を洗い、鏡に自身の顔を映すと、目が充血して、髪も、いつもより艶が無い。
「酷いな……」
コンラート・アスマンが死んだという事は、受け入れられる。受け入れられる自分が、酷く酷薄な人間に思えた。
イレーネ・フランツは、頬に右手を添えて爪を立て、下へと引きずる。すると、秀麗な白皙の頬に、四本の赤い筋が生まれた。
痛みが、イレーネ・フランツに平常心を取り戻させる。まるで、自らに罰を与えた気分であった。
それからゆっくり洗面所の扉を開けると、再び指揮室に戻り、自席に座る。
右頬につけた傷をハンス・バウアーが見つけて動揺していたが、イレーネは通常通り自らの責務を果たしてゆく。アルベール・フォンクが居ない今、この場は彼女が最高責任者になるのだ。いかなる理由であれ、呆ける訳にはいかなかった。
部隊の損害を把握し、作戦目的の達成を確認する。それから、ジョレスに電信を送り、彼の方針を知る。それらをアルベール・フォンクに報告する為に文書として纏める作業を、イレーネ・フランツは一人でこなしていた。
作業にでも追われなければ、自責の念で押しつぶされてしまいそうだった。
暫くして、俄かに滑走路が騒がしくなる。
エンジンの轟音が響き、夕闇の空を震わせながらアルベール・フォンクが帰還したのだ。
イレーネも、すぐに彼の勝報を受け取り、数時間ぶりに顔を綻ばせる。
ほっと、彼女は胸を撫で下ろしていた。
だが、勝報をもたらした兵士が続けた言葉に、イレーネ・フランツの表情は、再び引き攣ることになる。
「勝利どころか、大勝利です! 敵一〇万が全滅ですよ! 詳細は極秘らしいですが、新兵器でどかんと! ベーゼルの皇帝も司令が倒したそうです!」
この言葉に、先ほどまで沈鬱な表情を浮かべていたデジャン、シャルリエが喜色を浮かべて頷いている。ハンスも、大きく安堵の溜息を吐いていた。
確かに、後顧の憂いなくスクラン軍と戦えるようにはなった。だが、一〇万の軍を全滅させただと? 新兵器とはなんだ? アルベール・フォンクは、自分に何の相談もなく、そんなものを使ったのか? そもそも、そんな事が出来る兵器は「ヴァイス・シュツルム」しかないのではないか?
イレーネ・フランツの疑念は止まる所をしらず、また、それは限りなく核心に近づいてゆく。
(ヴァイス・シュツルムを使うから、わたしに言えなかったんだ!)
指揮室の扉が開き、赤毛の司令官と金髪の空戦団長が帰還すると、リオネル・デジャンが弾かれたように彼等の前に飛び出した。
「大勝利、おめでとうございます!」
グレゴール・シャルリエも席を立ち、やはり祝辞を述べている。ハンス・バウアーも同様であった。
イレーネ・フランツも立ち上がり、アルベール・フォンクの前に出る。
「イレーネ、そっちは? いや、顔の傷はどうした?」
祝われているアルベール・フォンクの表情は、どこか冷たげである。一瞬だけイレーネの頬にある傷に驚き目を見開いたが、表情の変化はそれだけで、笑みなどは浮かべていない。
隣に立つアンセルム・エナルも、どこか影のある表情をしていた。
「苦戦したが、目的は達した。傷は、お前には関係のないことだ」
アルベール・フォンクの質問に答えつつ、イレーネは自らの推測が正しかった事を確信していた。
「なぁ、ヴァイス・シュツルムを使ったんだろ?」
「……ああ、前に、お前と一緒にランディ・ヴァレリアンから奪ったものだ」
アルベール・フォンクは隠さず、嘘もつかなかった。しかし、それがイレーネには酷く辛い。
ヴァイス・シュツルムを使わせない為に、イレーネ・フランツはアルベール・フォンクと共に戦ったのだ。それを、赤毛の恋人は台無しにした。
「報告書は纏めてお前の机の上にある。
……なあ、コンラートが死んだんだ。ちょっと一人にさせてくれ」
「……ああ」
イレーネ・フランツの気持ちが、痛いほど分かるアルベール・フォンクである。
しかし、コンラート・アスマンが死んで、悲しみに打ちひしがれているであろうイレーネ・フランツを、彼は支える資格がないのだ。
イレーネ・フランツを守る為に多くの命を奪い去り、故に、彼女の信頼を失ったアルベール・フォンクである。
もはや、彼は自身の幸福をすら求めていなかった。
それ故に、黒い空洞の様な瞳孔でイレーネを見据え、冷たい言葉しか返す事が出来ないアルベール・フォンクである。
そんな彼の心を知らず、イレーネ・フランツは敬礼を残し、無言で指揮室を出て行った。