第四話:銀の髪の首輪――主従の契約
「いい? アルト。あなたは私の道具。私の計算機であり、私の指先よ」
宿屋『踊る子鹿亭』の屋根裏部屋は、以前とは全く違う空気に支配されていた。
窓は目隠しされ、テーブルの上には王国の極秘情報が記された羊皮紙と、ティナが持ち込んだ最新式の軍用魔導端末が並んでいる。
僕の目の前には、椅子に深く腰掛けたティナがいる。彼女はもう、宿屋の看板娘の顔をしていない。監査局の権威と、かつて公爵家で培った支配者の傲慢さを纏った、恐ろしいほどに美しい「主」だ。
「……はい、ティナ様」
僕は彼女に背を向け、床に膝をついたまま答える。彼女は僕の頭上に足を組み、その冷たい靴の先で僕の顎をくいと持ち上げた。
「私の手足になりなさい。市場を動かすのは私。でも、そのための汚い作業と、複雑な演算をこなすのはあなた。分かるわね?」
「心得ております。……で、本日の指令は?」
「簡単よ。隣国『ガルガンシア』の軍需物資の相場を、明日までに無価値にするの。彼らは王国の国境を脅かしているわ。軍資金を根こそぎ奪い取って、動けなくしてしまいなさい」
ティナが端末を差し出す。それは、彼女の権限でしかアクセスできない「国家間魔素回線」への直結キーだった。
僕はそれを受け取り、無言で端末に向かう。
(……ガルガンシアの軍需相場。彼らの主力は魔導装甲車。その核となるのは『凝縮魔素』だ。供給源を遮断し、デリバティブで先物価格を暴落させれば、軍部は資金繰りに詰まり、演習すらできなくなる)
僕は主の命令に従い、指を走らせた。
僕の現代金融工学の知識が、ティナという強大な権力の刃となって国境を越えていく。僕はただの影だ。彼女が表舞台で優雅に笑っている間に、裏側で僕がすべてを破壊し、書き換える。
「あら、アルト。少し早いわね。……でも、良い子だわ」
僕が「完了」の合図を出すと、ティナは満足そうに微笑み、僕の髪を乱暴に撫でた。彼女にとって僕は、道具であり、所有物であり、何よりも自分の野望を叶えるための最高の「パーツ」なのだ。
数日後。
ティナは表向きの監査官としての顔を持ち、ガルガンシアの使節団と会談していた。
その会場の片隅で、僕は給仕に化けて控えている。カトリーヌという偽名で潜入している彼女の背後で、僕は彼女の「暗躍」を完璧にサポートする。
「アルト、右の男のポケットに、このデータチップを入れなさい。彼らが裏で操作していた証拠よ。……あ、でも、見つかったら即座に切り捨てていいわ。あなたは『ただの宿屋のアルバイト』なのだから」
「……御意に」
僕は群衆に紛れ、何食わぬ顔でターゲットに近づく。
すれ違いざま、指先から僅かな魔力糸を操り、チップを相手の懐へと滑り込ませた。相手は気づかない。僕はそのまま何事もなかったかのように給仕を続け、ティナの背後に戻る。
「……さすがね。アルト、今夜は私の部屋へ来なさい。次の作戦の計算をさせるわ」
彼女は僕を見ようともせず、シャンパングラスを傾けながら冷酷に告げる。
隣国は混乱に陥り、王国の国境は揺るぎないものとなる。歴史の教科書には「ティナ監査官の功績」と記されるだろう。だが、その裏で誰がどれほどの資産を失い、誰が自殺へと追い込まれたのかを知る者はいない。
夜、ティナの私室。
僕は彼女の足元に座り、指示を待つ。彼女は贅沢な調度品に囲まれながら、僕の頭に冷たい手を置いた。
「ねえ、アルト。私、この国を……いいえ、この世界のすべてを私の庭にしたいの。あなたは、最後まで私についてくるわよね?」
「私は貴女の所有物です、ティナ様。……貴女が計算を終えるまで、どこへも行きません」
僕は彼女の冷たい眼差しを見上げる。
かつては対等に、将来の経済を語り合ったはずの少女。
けれど今は、支配する者と、支配される者。
僕は彼女の指示通りに端末を叩き、この世界という市場を破壊し、再構築し続ける。
僕の現代知識は、今や完全に彼女の「下僕」としての武器となっていた。
(……計算は完璧だ。だが、この数式には、彼女には見えない『バグ』がある)
僕は彼女の野望の裏で、密かに自分自身の資産を「別の口座」へと逃がし始めている。
彼女の手足として働きながら、僕は彼女をも超える権力を、この暗闇の中で育てているのだ。
「……何か言った?」
「いいえ。……次の命令を、ティナ様」
僕は首を垂れる。
僕という名の「影」は、彼女を勝利へと導くために、今日も静かに毒を混ぜ続ける。
この異世界という名の相場で、最後に笑うのがどちらになるのか――その答えは、まだ僕の頭の中にしかない。




