1章6話・5
「え───っ?」
ロウソクの炎が燃え尽きる瞬間のような、奇妙な燃え方だった。突然の発火現象のなかで、赤い糸の刺繍だけが、どうしてか一瞬遅れて燃えたのが、十三の印象に残った。
ダルマの力か、と思ったが、人瘤ダルマは自分の手元で起こった現象に『ん、んー?』と呆けた声をあげて首をかしげている。
この”件”の力でないらしい──だとしたら、一体。
遅れて、ノイズ混ざりの声が、何処からか聞こえてきた。
『午前──時 ザザッ ヨモツ山手 外回り内回りザザザッ 電車が発車します 黄色い線の内側に らせんがウロボロ──シシャ』
「──……?」
十三は苦痛と恐怖に責められながらも、視線だけを動かして、人瘤ダルマの様子を見た。
ダルマの目玉が、ぎょろぎょろと動いている。
その視線は、何かを探しているようにも、何かを警戒しているようにも見えた。ダルマもまた、突然の声の主の正体を測りかねているようだった。
先程聞こえてきたあの声は、やはり、村田マサオのものではないらしい。無論、この”件”に首を絞められている十三のものでもない。声は、女の声でもなく、男の声でもない。若くも、老いてもいなかった。
この場にいない、誰のものでもない、第三者の声が、ダルマを混乱させていた。
『誰だッ! 誰だッ! そこにいるのは誰だッ! ──……!』
わめいたダルマが、ふいに視線を、真上に上げた。
『関東地方全域──異常発生。繰り返す。異常発生』『──ヨダ区SSS級要人、護送車による退避完了。都庁周辺の避難誘導開始──』『SS級市民、避難を優先──納税額に基づき──C級Z級は後──』
その言葉は。
他ならぬダルマ自身に寄生した、頭部の赤ん坊から、聞こえていた。
当初、不気味な言葉を物語っていたのは、ダルマ頭部の赤ん坊のうち、一つだけだった。
その発声源が、だんだんと増えていく。
『1995──01ザザッ99?』ノイズの音。『中西部ザザザッ湖ザザッ霧』『七の月 98……95』『霧、霧。霧霧霧霧霧』『8月 盆会 満月満潮 うぅぅううううううおかあああああああさん』
頭部の赤ん坊たちは、口々に喋っていたかと思うと──ふいに言葉を切って、ぎゃあああああと泣きだした。文字通り、火が点いたように泣き喚いている。
異常なほどの泣き声は、何かに怯えているようにも思えた。
『あッ』
やがて、ダルマ本体の巨大な口が、ぽっかりと丸く開いた。
『──……あぁ……それ……そういうこと……か……? ……見える……あぁ見えます……山手……告げている……オオウ……カクシ……オオカクシ……?』
不可解なことをぶつぶつと呟きだしたダルマが、巨大な両手で自身の頬を覆った。同時に十三も拘束から解放され、床に落とされる。
ワケもわからず拘束から放り出された十三は、呆然と”件”を見上げた。
人瘤ダルマは巨大な手のひらで、自身の顔を覆っていた。それは異形の怪物のそれとは思えない、ごくごく人間的な、思慮にふける仕草だった。
ムンクの叫びのように、口元をぎゅうと挟んだ人瘤ダルマは──ぎゅうぎゅうぎゅうと、目玉が飛び出さんばかりに締めつけて、突然叫び出した。
『──ぁぁあああああ……! ヤメロッ! ワタシは中継局ではないッ!! 発信者だ! ゴミメディアの手先などごめんだッ!』
ダルマが落ち着いていたのは、ごくわずかな間だった。
癇癪を起こしたかのように、再び人瘤ダルマは振りかぶった頭を壁に打ちつけた。衝突の振動が、十三の足元にまで伝わってくる。
『クルナッ! クルナッ! クルナクルナクルナッ! ワタシを支配するなッ!』
人瘤ダルマが、駄々をこねる幼児のように、腕を無茶苦茶にふるう。
トイレの扉が、破壊される。壁のコンクリートが砕け、鏡が割れた。水道管から水が吹き出し、床に穴が空く。一撃でもまともに喰らえば、致命傷になることは確実の殴打。
だが一方で、人瘤ダルマは錯乱して我を失っているように、十三には思えた。
それは、千載一遇のチャンスだった。
十三は這った。ダルマが混乱している間に、少しでもそこから逃げようと、必死に動いた。よだれを垂らし、痛みに耐えて歯をくいしばって、足をひきずって、逃げようとした。
だが、完全に逃れきることはできなかった。
「ううっ」
とうとう、人瘤ダルマの視線に捉えられた十三は、足を掴まれ、そのまま宙吊りにされた。
『いかないでッ! そばにいてッ! ワタシを愛して!』
その勢いのまま、今度は壁に叩きつけられる。
幼児に遊ばれる人形のように、十三の全身は振り回され、壁に打ちつけられた。
「──ッ!!」
容赦なくコンクリ壁に激突した十三は、声にならない苦鳴に呻いた。
『ワタシを見てっ! どこにもいかないでっ!』
人瘤ダルマは訴えながら無茶苦茶に腕を振るう。壁は砕かれ、床は破壊され、崩れ砕けたそれらは瓦礫と砂塵を生んでいった。
異形になってからも、村田マサオがほんの少しだけ残していた理性はなくなり、ただ破壊するだけの怪物と化していた。
──やばい。
ほんとうに死ぬ。
散々叩きつけられ、放り投げられた十三の身体は、崩れた瓦礫の下敷きになっていた。
身動きは、取れない。全身は繋がっていたが、もう、あちこちの感覚がなかった。頭からは砕けたコンクリの欠片と、温かな鮮血が流れてきている。
そして、どうしようもなく、身体が、寒い。
十三の指先は、ぶるぶると痙攣している。痛みを感じているはずの場所は、鈍い信号のように、カチリ、カチリと明滅する痛みだけを伝えてきた。痛いのか、寒いのか、もう十三には判別がつかず、これが死ぬということだと理解しはじめた。
東雲十三は、ついに、己の死に向き合っていた。
──あっけないな。
ホントに、なんだったんだろうな。オレの人生。
昨日まで、十三は平凡なサラリーマンだったはずだ。
満員電車に揺られ、平日毎日遅くまで働き、週末の映画だけを楽しみに生きる、安月給の営業マンだった。
ブラック企業だったけど、それでも自分の人生を始められた。母子家庭で生まれ、閉鎖的な田舎にいたときよりもずっと、自分らしく生きてこられた。
これからだった。
これから人生が始まる、はずだったのに。
十三が、己の人生をぼんやりと振り返っていた、
その絶望の縁で。
その声は、あまりにも澄んで、十三の耳に届いた。
「ハングドマン、支えて」




