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「リーナ。ありがとう」

 レーンの方の喪の行事に区切りがついた夜。

 少し話したいとカタリーナの居間を訪ねてきたスタニエールに、カタリーナは改めて礼を言われた。

 睡蓮宮へ一番最初に弔問に訪れた時、カタリーナがアイオールを抱きしめて泣いたことが、結果的にアイオールの心を最も癒したのだという。

「あの子は母の死が受け入れられなくて、ただただ茫然としていた。私が支えてやらなければならなかったのに、私もひどい衝撃を受けていてあの子をきちんと思いやるだけのゆとりもなかったんだ」

 執務が始まる直前に春宮へ戻ってきて、レーンが死んだ、と、落ちくぼんだ、死んだ魚のような目をしてつぶやいたスタニエールを思い出す。

 わずか一夜で面変わりするほど、彼はやつれていた。

 状況を理解し、スタニエールにあたたかいものを飲ませて寝台に寝かし、執務の段取りをつけて、カタリーナは睡蓮宮へ向かった。

 そう言えばあの日、カタリーナは軽い朝食を摂ったきり、一日何も食べずに駆けずり回っていた。

 食事をする余裕はもちろんなかったが、必要も感じなかった。

 衝撃を受けていたのはスタニエールとアイオールだけではなかったのだと、後からカタリーナは思った。

「でも、どうしてわたくしはあの時ああしたのか、実はよくわからないの。泣くどころか生きていることも忘れているみたいなあの子を見ているのが、とにかくたまらなくて……」

 うつむき加減でそう言うカタリーナへ、スタニエールはほほ笑む。

「考えてやったことじゃないからこそ、アイオールを癒したのだよ。君に抱きしめられて初めてあの子は、泣いていいんだ甘えていいんだと思えたのだろうね。私には……あの子を甘えさせてやれる、余裕がなかった」

 恥ずかしそうにスタニエールは言う。そう、あの時は彼自身が、母に死なれた幼子のようだった。

 不意にスタニエールは立ち上がり、部屋着姿で長椅子で寛ぐカタリーナの前へ片膝をつく形で座り、頭を垂れた。

「カタリーナ・デュ・ラク・リュクサレイノ・ラクレイノ王妃殿下。私スタニエール・デュ・ラク・ラクレイノは貴女へ最上級の敬愛を捧げ、終生の隷属と忠誠を誓います」

「ス、スターニョ!」

 思わず声が裏返る。

 これは己れの主の妻や娘に当たる貴婦人への、騎士の忠誠の誓いだ。

 肉欲を伴わない至上の敬愛を終生捧げ、彼女の為なら見返りなしで命を懸ける覚悟があることをあらわす。

 ラクレイドでは『貴婦人へ忠誠を誓う』場合、二つの意味があるとされる。

 まずは王国の初めごろから行われている、己れの主の妻や娘へ至上の敬愛を捧げる誓いだ。

 この誓いは、彼女に決して無様な己れを見せないという誓いでもある。己れへ敬愛を捧げるに足る騎士と見做されなければ、貴婦人から誓いを退けられる場合もあるからだ。故に忠誠を誓う騎士は、一騎当千の戦士になるべく励む。当然、その騎士は強くなってゆく。

 美しく、人間的に魅力のある妻や娘を持つ主は、結果的に忠誠を誓う騎士を多く抱え、強い軍団を擁するようになる。

 戦乱が絶えなかった時代、必勝の女神を求める心が生み出した慣習(ならい)なのかもしれない。

 あとひとつはその慣習から派生した、妻へ純愛を捧げ貞節を守ることを夫が誓う場合だ。

 今はこちらの意味で使われることが多いが、その場合は当然、誓いの文言は違ってくる。

 どちらもかなり堅固で神聖な誓いだと考えられているから、現実では滅多に行われない。誓いを破った者は貴婦人から罰せられ、命を奪われても仕方がないとされている。

「お止め下さいませ、貴方は王。ラクレイアーン以外の方へ頭を下げるべきではありませ……」

「ああ。対外的にはね」

 目許をゆるませて彼は言ったが、すぐに頬を引いた。

「だから公には出来ないけれど、気持ちは本当だ。カタリーナは私の妻だけど女神でもある。私の、最上級の敬愛を貴女へ捧げる。貴女のような人が私の妻である僥倖を、私は神に感謝しているんだよ」

 気付くとカタリーナの頬を涙がぬらしていた。

 スタニエールは立ち上がり、今度は夫の顔でほほ笑みながら、優しくカタリーナを抱き寄せた。

(スターニョ……)

 夫の胸元の服地を涙でぬらしながら、カタリーナは心でそっとつぶやく。

(敬愛は誓って下さるのに……やっぱり、愛は誓って下さらないのね)


 スタニエールが御位に就いて五年になる。

 レーンの方が亡くなって三年。一昨年、ポリアーナ王太后陛下もお見送りした。

 それでも宮廷はつつがなく運営され、スタニエールの王子たちもそれぞれ成長してきている。

 スタニエールの御代に問題はない。

 光の神の申し子に、欠けたるものは何もない。


 このところ、スタニエールの瞳の中に虚しさの色が再び濃くなってきているのは感じるが、若い頃のような苛立ちに似た荒みの気配はなくなった。

 荒みの気配はなくなったが、彼の中で押し込められている虚無が、やはりカタリーナは恐ろしい。

 いつ爆発するかわからない、神山の噴火のようで恐ろしい。

(レーンの方が壮健ならば……)

 彼の心は虚無に食われず、穏やかなままだったのだろうか?

 考えても詮無いことを考えながら、カタリーナは刺繍針を動かす。

 朝食後のひととき、こうして刺繍を刺すのが彼女の唯一の息抜きだ。

 王太后陛下が亡くなられ、カタリーナはますます多忙になった。自分の為の時間はほとんど取れないのが実情だ。

義母(はは)上さま」

 窓の外から幼い声が呼ぶ。驚き、カタリーナはそちらへ寄る。

 彼の護衛官と、春宮の警備をしている近衛武官を後ろに従えたアイオールだった。手に、咲きたての睡蓮の花を持っている。

「こんな場所から失礼します」

 十歳になった黒髪の王子は菫色の瞳をきらきらさせている。長じるにつれ、彼は父に似てくるようだ。

「睡蓮宮の池で今年最初の睡蓮が開いたので、御覧にいれたくて急いで持って参りました。面会の手続きを踏んでいるとしおれてしまいますから、こんな乱暴な方法になってしまってお許し下さい」

「まあ!」

 薄紅の睡蓮の花を、カタリーナは窓越しにそっと受け取る。

 この前何かの折に、睡蓮宮の池で咲く睡蓮をそういえばきちんと見たことがない、とカタリーナが言ったのを、彼は覚えていてくれたのだろう。

「ありがとうアイオール。気を遣わせてごめんなさいね、でもとっても嬉しいわ」

 カタリーナの笑顔に、アイオールは照れくさそうに身じろぎし、えへ、と声を上げて笑うとぴょこんと頭を下げ、

「お邪魔致しました」

 と言ってきびすを返した。

(いい子だわ)

 いかにもこの年頃の少年らしいたたずまい。カタリーナは思わずほほ笑む。

 侍女に水盤を用意させ、睡蓮を浮かべる。

 長椅子に戻り、刺繍を再開する。

 目の端にちらつくみずみずしい薄紅の花弁。レーンの方の頬を思い出す。

 もちろん触れた訳ではないが、この花びらに似た質感ではないかと思われた。

(わたくしは……彼女のようになれない)

 スタニエールの虚しさを何故彼女だけが癒せたのか、もちろん今でもわからない。

 しかし、ひとつ思うことがある。

 幼い頃からカタリーナは、スタニエールを理解したいとずっと努力してきた。

 彼を一番理解しているのは、おそらく自分だろうとも思う。

 だけど彼は、誰かに理解してほしかった訳ではなかったのかもしれない、と最近、じわじわと思うようになってきた。

 癇癪を起して泣いていたライオナールを、母を亡くした衝撃で泣くことも出来なかったアイオールを、カタリーナはただ、抱きしめていた。

 幼い頃から頭で考えることで自分を律し続けてきたカタリーナは、感情のままの自分をさらけ出すのが苦手だ。

 母になったことでようやく少しは、それが出来るようになったのかもしれない。

(あの人ははじめからそれが出来たのね)

 針で色を置きながらカタリーナは考える。

 カタリーナに少女の頃から、小さな息子たちを無心で抱きしめた、あの柔らかな心があったのならば。

 スタニエールはあの日、カタリーナへ唯一の愛を誓ったのかもしれない。

 いや、少女のカタリーナへ彼は、まず真っ直ぐに恋をしていたのかもしれない。


 手元が狂った。

 布を押さえていた左手の指先を、刺繍針で刺してしまった。

 血の玉が浮かぶ人差し指を、カタリーナは思わず口に入れる。苦い血の味が口に広がる。

(わたくしは……妃であることを選んでいたのね)

 彼の恋人ではなく、彼の妃……王たる彼の唯一無二の相棒であることを。

 王たる彼が、至上の敬愛を捧げてくれるまでに。

(ならば……全う致しましょう)

 王の至上の敬愛を受けるに足る、貴婦人であるように。

 たとえ、女としては修羅の道であったとしても。

「王妃殿下、執務のお時間でございます」

 侍従が呼びに来た。カタリーナは淑やかに立ち上がり、ほほ笑む。

「わかりました。すぐに参ります」


『王妃カタリーナの修羅』、完結いたしました。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


カタリーナさんのお膝でよだれを垂らしてニコニコしていた赤ちゃんや、生まれたばかりの弟に嫉妬して癇癪を起していた幼児や、わんわん泣いたり睡蓮の花を持ってきたりした少年が、『護衛官 マイノール・タイスンの誓い』や『レクライエーンの申し子』などで、活躍したりお亡くなりになったり(!)色々しています。

よろしければ覗いていただけると幸甚でございます。


それではまた。

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